きょうを生きて living in a moment アドラムの洞窟

できることに集中すると美しさが生まれる。

その美しさを感じて息を吸おう。

昔⑤

2014-12-16 20:22:35 | 日記
その火葬場で週に一度


聖書研究したおかげで


いろいろ人生について考えてゆく時間が


得られた。


ときどき死因が特定しない若い遺体もあった。



自殺をとげた人だ。


いろんな宗教の人が死に

いろんな坊さんがわんわんとお経を読む。

どんなに社会的に成功しても

どんなにお金を持っても


しあわせな人生だとしても


ここにきたら同じだ。

ここから先は死んでいるだけだから

何も怖いものはない。

生きていて太った人は


火葬場でよこたわり


火をつけられると


脂肪がキュルキュルと絨毯に巻かれるみたいに


シュルシュルと小さい人間になってしまう。


ここにきてさまざまな死体の焼かれる姿を


覗いてみることで


生きている人を強く思わない人生観がもてた。


あそこにゆくまで


短く生きて


あそこに平等にゆく。


どんなに威張った人もシュルシュルだ。


何もこわくない。




最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
火葬場の煙 (くれよん)
2014-12-16 22:14:14
小さいころ 住んでいたところの
向かい側の山の上に火葬場があって
煙突から煙が出ていると
誰かが亡くなったしるしでした。

煙を見るたびに
知らない誰かが 亡くなったことと
自分の大切な人たちが
いつか 死んでしまうのかもしれないという
事がリンクして

元気がなくなっていました。

数年前に
王国宣教に
喪服は着ちゃいけないとか
献花はあかんとか
法事は家にいてもだめよとか

いろいろ出てから
ますます会衆はおかしな方向へ向かいました。

若い姉妹が亡くなった時
火葬場で
焼き場に入れられた後
皆がいなくなって

「なんで、終わるまでそばにいようよ」って
いう声もかける間もなく
皆いなくなりました。

死んだら意識もないけれど
せめて、生きている私たちは
そばにいてあげたい。

それが自然の情愛だと。

正直 
死んだ人をホテルのベットにおいて
「生きています」っていた人たちいたけど
あの人たちと
わたし、エホバの証人の私は同じやんかと
思いました。

この頃では亡くなっても、火葬が終わるまで
誰にも知らせず
追悼式前に初めて発表する会衆もあります。

いいのですか。このままで。

こんなことで、エホバの証人は誰かを救うことができますか

そう聞いてみたいです。
返信する
Unknown (mami)
2014-12-16 23:10:36
私は、少なくとも私はですが
お花をあげること、法事、葬式に関わるいろんなこと、
死者を崇拝するとか、祟られたくないからきっちりするとか、
そんな風に思ってしたことはありません。

そこにあるのは、悼む、ただその気持ちだけです。
エホバの証人をやめても、死後の魂を信じないわたひは、死んだら何もわからないとは思いますし、
死者にわかってもらうためでもありません。

もしエホバの証人が、現代ではその意味をもたないからと、ネクタイをすることをなんとも思わないなら
今までありがとうおつかれさまと、最後にお花をあげることも同じく許されることではなかろうか?

死者を崇拝するわけではなく、ただただ悲しむ兄弟姉妹に、
パラダイス出会えることを信じていないから悲しむのですよ、霊性が低いのではないか、なんてことは言わないで欲しい。


どんなひとも、同じく死に向かい、同じく焼かれ、か。
頑張るとか精一杯とか、こだわってくちぐせみたいに言ってる自分、なんだろうと
この記事でふっと肩のちからが抜けました。
悪い意味じゃありません。
人生、肩のちから抜くときも、虚しい事実に向き合うことも、必要ですね

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。