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「あんころ餅」   夢語り小説工房作品

2024-06-14 19:39:00 | 小説

  「あんころ餅」  作 大山哲生

 

私は、菅谷峰雄。七十三歳になる。

今日は私の思い出話を語ろう。

 昔、私は京都伏見の砂川小学校に通っていた。三年生のときにクラス分けがあって私は三年一組になった。

 同じクラスに田沢重治がいた。

 田沢は、おとなしい。男子が騒いでいるときでも、教室の隅の方にいることが多い。

私はというと引っ込み思案であったので、自然と田沢の近くにいることが多くなった。

 四月のある昼休みのことである。

「菅谷、こんどの藤森神社の祭、一緒に行かへんか」と田沢が声をかけてきた。

 藤森神社の祭りは毎年五月五日の子どもの日にある。馬の早がけが有名であるが、なんといっても楽しみなのは数百件の露店が並ぶことであった。近くの子供は、お正月以上に楽しみにしている。

「おう、ええで」と私は言った。

五月五日に野田の米屋の前で私たちは待ち合わせた。藤森神社につくとおびただしい数ののぼりや看板が立っていた。私たちはウキウキしながらいくつかの露店を見て回った。結局、私も田沢も、スマートボールを何回かして持ってきたお金を使い果たしてしまった。

 六月のある日、

「おい、菅谷、学校終わったらおれとこあそびにこいや」と田沢が言った。

「おう、行くわ。お前の家どこや」

「俺の家は、つる湯の斜め向かいのお菓子屋や。『浪屋風月』という看板が上がってるからすぐわかるわ」と田沢は言った。

 私は驚いた。浪屋風月はよく知っていたが、あのお菓子は、五円や十円を握りしめて買えるようなものではない。今風に言えば、高級和菓子店なのであった。

「おう行くわ」と私は返事した。

 放課後、菓子屋の前に立つと、二階から田沢が顔を出して、

「おう、はいれや」と声をかけてきた。

 私は、店の甘い匂いに誘われるように店の奥の階段を上がった。田沢の部屋には、漫画本がたくさんあった。本棚には戦艦大和のプラモデルもあった。壁には、細かく描かれた月光仮面やまぼろし探偵の絵が何枚も貼られていた。

「この絵は」と私が言うと、

「これ全部おれが描いたんや。すごいやろ」

「絵が好きなんやな」と私が言うと

「そうや。おれは絵を描くのが大好きなんや」と田沢は得意げに言った。

 そのとき女の人が入ってきて、あんころ餅とお茶を置いていった。私はあんころ餅を見るのは初めてだった。

「田沢、おまえとこええなあ。おいしいお菓子が毎日食べられるやんけ」

「そんなことないで。お菓子を食べさせてくれるのは年に何回かやで。それにおれは甘いものがあんまり好きやないねん」と田沢は言った。

 お菓子を食べ終わると、二人で漫画本を読みふけった。

 その後、銭湯のつる湯に行くたび、浪屋風月の前を通った。そしてあのあんころ餅の味を思い出すのだった。

 その後、私は田沢のお誕生会を含めて、何回か田沢の家に遊びに行った。

五年になるとクラス替えがあり、田沢とは別のクラスになった。田沢とは廊下で逢う程度になり、あまり遊ばなくなった。

 中学は、私が六年生のときに引っ越したこともあって、田沢とは別々の中学になった。

 私が日吉ヶ丘高校の二年のときに、グランドで田沢と会った。

「おう、田沢やんけ。久しぶりやな」

「おう、菅谷か。おまえこの高校に来てたんか」

「田沢は、中学校区が違うから本来は桃山高校にいくはずちゃうんか」と私は言った。

「いろいろあってな、二年から編入してこの高校にきたんや」と田沢は言った。

 それから、何度か校内で田沢に会ったが、お互いに会釈する程度だった。

 私は一年浪人をして大学に入った。

 私が大学三年の夏に、京都東山区の酒屋でアルバイトをしていた。酒屋は朝と午後に伝票を見ながら配達順に酒やビールをトラックに積み込む。それが終わったころにメーカーから大量の酒が運び込まれる。私は流れる汗をぬぐう間もなく、酒類を運んだ。

 ある日の午後のことである。その日は荷待ちの時間が二時間ほどあった。私は、部屋の中で休んだり、倉庫の整理などをしていた。

 通りに出ると、よく知ってる顔がこちらに歩いてくるのが見えた。

 田沢であった。

「田沢。おい田沢」と私は呼んだ。

「おう、菅谷か」と田沢は返事をすると、懐かしそうに私のそばにやって来た。

「田沢よ、おまえ今何してるんや」と私は尋ねた。

「菅谷か、おれなあ予備校の帰りや。おれもう疲れたわ。京大の医学部を受けて、今四浪や。菅谷、おれもう疲れたわ」と田沢は言った。

私はにわかに言葉が出なかった。

「ほかの医学部やったら受かるやろ」

「親が、京大しかあかんというのや」

「ちょっと待て。おまえとこは和菓子屋やろ。そこを継いだらええのとちがうか」

「店は、兄貴が継いでるんや。親は、どうしても俺に医者になってほしいらしくてな」

「そうか、まあ頑張れや」と私はそんなふうに声をかけるしかなかった。

 田沢は、うつむきながら体を引きずるようにして遠ざかって行った。

 私は大学卒業後、教員になり、後年P中学の校長になった。

 中学校には、年間を通じて、おびただしい数の高校の担当者が訪れる。多い時には、一日に数校訪れることもある。ほとんどは自分の高校の説明をし、そして新しいパンフレットを置いていく。

 六月のある日、教頭が校長室を覗いて「X高校の先生がお見えです」と声をかけた。

 そして校長室に入ってきたのは、田沢であった。しかし、出された名刺には「副校長 湯川重治」とある。

「先に仕事の話をする」というと、湯川はX高校の説明をしだした。ひとしきりそれが終わると、

「ここからはプライベートタイムや」と湯川は言った。

「おれは、お前が四浪したとこまでは知ってるけど」と私は言った。

「俺は京大医学部四浪して疲れてしまい、次の年は京都教育大を受けて受かったんや。ところが親父が激怒して、親父とはうまくいかなくなり結果として湯川という家の養子になった。そやから名字がかわったんや。早く自立したかったおれは大学を出て、X高校の数学の教師になった」と湯川は言った。

「そうか、いろいろあったんやな。ところで実家の和菓子屋はどうなったんや」

「風月堂か。あのあと兄貴がついでなんとかうまくいってたみたいやけど五年前に兄貴が亡くなって、あの店はとりこわして今は駐車場になってる」と湯川は言った。

「そうか残念やな。でも、念願の教師になれてよかったな」

「それが『念願』でもないんや。おれはなあ、ほんまは絵の方に進みたかったんや」

 私は、小学生の時に和菓子屋の二階にいったときに、たくさんの絵が壁に貼られていたのを思い出した。

「そうか、湯川は絵を描くのが好きやったな」と私は言った。

「おれの人生はどこまでいっても中途半端や。だから毎晩、酒を一升ちかく飲んでる」と湯川は言った。

「そら飲みすぎやで」と私は言った。

「わかってるんやけど、飲まずにはおれん」と湯川は言った。

「そやそや、X高校に生徒をたくさん送ってや」という言葉でしめくくると湯川は立ち上がり帰って行った。

 私は校長室のソファにこしかけて、湯川の話を思い出していた。

 それから数年後、私が退職の年のことである。

 いつものように校長室でパソコンを打っていると、廊下で、

「X高校副校長の手島と申します」と声がする。

校長室に招き入れると私は開口一番、

「X高校からは毎年湯川先生に来ていただいていましたが」と言った。

「湯川は、亡くなりました」

「えっ、いつ、どうして」と私はあわてた。

「三か月ほど前です。日ごろからものすごい量の酒を飲んでいましたから、周りの者はいつか体がやられるんじゃないかと心配していました。彼は数学の教師でしたが、最後の一年は美術部の顧問をしていましてね。美術部の指導はことのほか熱心でした」と手島は言った。

 そのあとは、私は上の空で手島の話を聞いていた。

 手島が帰った後、私はなんともいえない寂しさに襲われた。数回ではあるが小学生の時に、湯川の和菓子屋に遊びに行った。そのたびに湯川は、壁の絵を自慢していたっけ。湯川は間違いなく私の『幼なじみ』であった。

 私は心の中で、湯川に話しかけた。

『湯川よ、いい思い出をありがとう』

 死ぬ前の一年だけ美術部の指導をしたのが、彼の唯一の夢の実現だったのかもしれない。

 私は大きなため息をつくと、あのあんころ餅の味を思い出していた。

 

 

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