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2-11-② また醸造場をはじめた浦項(地名:ポハン)のころ

2008-02-28 | 挑戦しない人生は香りのないお酒【翻訳】

 

2-11-② また醸造場をはじめた浦項(地名:ポハン)のころ

 

私も仕方なく、1斗を売ってくれる店と2斗を売ってくれる店を区分して、家賃の一部を肩代わりする羽目になって、大邱(地名:デグ)を離れる際に持ってきた資金がほとんど底を突くようになり、悪戦苦闘を強いられた。

 事業をする際は、開城商人(ゲソンサンイン:高麗時代から朝鮮時代まで、朝鮮半島の開城(地名:ゲソン)を中心に活動した商人。日本の近江商人のような商人)のようにせねばならない。開城商人(ゲソンサンイン)は利益を追求する商人だが、人間味がないとか情けがない商人ではない。企業人の本分は営利を追究することだ。損をすることは商道に反するのみならず、従業員を裏切る行為だ。だが、私は開城商人(ゲソンサンイン)というより、損を自ら招いたわけだ。

 売上を伸ばすためには、品質を高める必要があった。酒粕を利用し、豚を飼って売ったお金で、オリンポスの顕微鏡を1台購入した。ずべての発酵課程を検査することを怠らなかった。

 学生の頃は、顕微鏡を触ったこともなかった私だったが、一つの試料を持って、本を頼りに30分以上もかけて検査を続けることがしばしばあった。そうすると肩がこるのは当然のことで、目の疲労もひどく、しばらく目をつむってやすまなければならなかった。

 発酵課程を6ヶ月ほどし続けて、やっと発酵課程を事前に予測できるようになった。のみならず、いざという時は対策をも開発するまでに至った。それまでは香りと味を測定するのが発酵管理の全部だった。しかし、顕微鏡を試用しはじめてからは濁酒の製造過程が大変変化に飛んでいて、ある意味ではとても造りにくい酒であることを分かった。

濁酒製造にだんだんと面白さを感じた。売上も増えてきて生活に余裕が出てきた。

 私の醸造場ある町の隣町に海兵隊の師団が駐屯していた。閣連隊ことに消費される濁酒の量も半端ではなかった。浦項(地名:ポハン)市内の醸造場からほとんど納品していた。事情を読めた私も割り込む為、海兵隊出身の人を一人雇うことにした。

 背は低かったが、とてもマッチョな「チェゼホ」という人だった。チェ君は連隊長の私宅を訪ねるなど積極的に営業活動を広げた。おかげでしばらくしてから師団で商品される濁酒の半分くらいの受注をもらうことになった。 

 酒はほとんどドラムに入れて牛車で運んだ。近くて少量の場合は、自転車でも運んだ。その当時、地方道路は包装されていない大きい砂利の道路だった。自動車が通ったところは平坦になっていたが、ほとんどがデコボコの砂利だらけで、自転車の配達はいつも危険と隣りあわせだった。

 

つづく