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広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins 上

2015-08-10 21:09:33 | 原爆・原発・放射能攻撃
以下を再編再掲(トルーマン云々ばかりで、ロスチャイルド家やバルークなどのイルミナティ銀行家たちの話がでてこない「新しい記事」には不満があるため)

広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins その1
THE SECRET HISTORY OF THE ATOMIC BOMB WHY HIROSHIMA WAS DESTROYED The Untold Story by Eustace C. Mullins June 1998
http://www.whale.to/b/mullins8.html

原子爆弾の秘密の歴史 広島はなぜ破壊されたのか – 語られざる歴史 ユースタスC.マリンズ著 June 1998

この記事は訳さないといけないと思っていましたが、akazukinさんがすでにその前書き付記事を訳してくれていたことを発見しましたので、以下を統合連続転載します(ごく一部、改訳。深謝致します)

2010-04-11 16:49:12
広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins その1

Why Hiroshima Was Destroyed The Detailed History Of An Infamous Era By Eustace C. Mullins 4-4-10
http://www.rense.com/general90/whyhir.htm

広島はなぜ破壊されたか 悪名高き時代の克明な歴史 ユースタス・マリンズ著 (引用掲載2010年4月4日、レンズ・コム、 以下にもあります:
http://www.bibliotecapleyades.net/ciencia/ciencia_uranium12.htm 英語全文)


まえがき 

日本で非常に人気ある映画、プライド(運命の瞬間)は、好意的にうつしだされた将軍、東条英機首相を描いていた。彼は戦犯として、他の六人と共に1968年 に絞首刑になった。裁判期間中、彼の弁護団は、極東国際軍事裁判所(ニュルンベルク裁判のアジア版)において、東条の戦争犯罪は、広島と長崎に原子爆弾投下が迫っているときになにも出来なかったと指摘した。



検察官は、すぐに反対して、彼らの声明を検閲した。それは、日本に投下された原子爆弾による大虐殺でいくつかの公認された最後のものだった。



日本当局はこの事項に対し意見表明するのを事実上妨げられた。アメリカによる軍事占領が日本との条約のもとで公式に終る1952年まで静かに継続されていたからだ。今日、49,000人の米軍は日本にまだ配置されている。さらに、広島と長崎の犯罪に関する議論が公になされていない。




登場人物の配役

ロスチャイルド家[The House of Rothschild]; 19世紀に暴利をむさぼり、政府を買収するためマネーを使った国際的銀行家。

バーナード・バルーク[Bernard Baruch, 1870-1965]; ロスチャイルド家のニューヨークのエージェント。世紀の変わり目にタバコ信託、銅信託とその他の信託をロスチャイルド家のために準備した。



彼が米国の原子爆弾プログラムの黒幕的な人物になったとき、彼の召使(J.ロバート・オッペンハイマー[J. Robert Oppenheimer])がロスアラモス爆弾開発の責任者になった。



そして、彼のワシントンの召使(ジェームス F・バーンズ[James F. Byrnes])がトルーマン大統領に原子爆弾を広島と長崎に落とすように進言した。








アルバート・アインシュタイン[Albert Einstein]; 1939年にフランクリンD・ルーズベルト[Franklin D. Roosevelt ]大統領に親書でアメリカ合衆国の原子爆弾プログラムをもたらした、終身シオニスト。






本文はここから

インドがこのほど核兵器の実験をしたということ知って、世界は驚いていた。長年、すべての国家は、核爆弾兵器の拡散について懸念を抱いてきた。彼らの苦悩にもかかわらず、誰もこれらの武器がなぜ開発されたか、そして、人類のどんな特別な種類がこの悪魔的な目標に専念したか、心理科学的にも歴史的記録にも興味を持っていたように思えない。

公的関心がなくても、記録は明白で、興味があれば誰でも、簡単に利用できる。この課題での私の関心は、長年休止中であったが、日本で一回の講演ツアーで、突然、再び火がついた。私の案内役は、最初、長崎市へ連れて行った。彼らの計画を話すことなく、彼らは長崎原爆資料館に入った。私は面白い経験をすると思ったが、驚いたことに、私が展示室の中に入ったとき、私は突然、悲しみで打ちひしがれてしまった。急に泣き出しそうだったとわかったので、私は仲間のもとから立ち去って、唇を噛んで立っていた。それでも、自分自身おさえることはできそうもなかった。私は最も恐ろしい物体によって囲まれた。人間の手の指が熔けたガラスと融合したもの、れんが塀の人間の影の写真、それは、爆発で蒸発したものだった。


A NEW MISSION 新しい使命

私が米国に帰国したとき、人間の起したもっとも大きな大災害に隠された不吉な大立者たちを掘り出さなければならなかった。 これまでに公開されている最強武器の発明は、全世界を牛耳る数名の熱狂的革命派の計画であったり、古今の最も広範囲にわたる陰謀であることがわかったことなど、見つけるための調査は何週間にも及んだ。

この話は、ドイツから始まる。1930年代、ドイツと日本は、核分裂の開発をしていた数多くの科学者をかかえていた。両国とも、それらの指導者は、厳しくこれらの研究の継続を禁じた。アドルフ・ヒトラー[Adolf Hitler]は、ドイツでそのような冷酷な武器に取り組むために働くなら、誰であっても決して許さないと言った。(引用注:ドイツ人には持たせないようにしたのでしょうね)

日本の天皇は、科学者にそのような武器を決して承認しない、ということを知らせた。その時、米国には核分裂に取り組んでいる者は、誰もいなかった。不満なドイツの科学者は米国の友人に連絡をとり、さらに、彼らの仕事に対する政府の支援の可能性があることを話した。ドン・バイアー[Don Beyer]が話すように、アメリカ合衆国へのこれらの移民は彼らが計画したとおり推進された。



「レオ・シラード[Leo Szilard]は、



長年の友人、そして、仲間のハンガリーの物理学者(ユージン・ウィグナー[Eugene Wigner]と



エドワード・テラー[Edward Teller])と共に、



大統領の警告文に同意した。原子爆弾技術は、それほど不自然なことではなかった。現在アメリカに住んでいるユダヤ人の亡命者は、ヨーロッパにおけるファシズムの個人的経験があった。1939年、アルバート・アインシュタインを手伝うために3人の物理学者を召喚したとする、アインシュタインの署名入り8月2日 付けの手紙は、1939年10月11日にホワイトハウスのフランクリン D・ルーズベルトのもとへアレキサンダー・ザックス[Alexander Sachs]によって届けられた。」




CRIMINALS ON DISPLAY 展示された犯人たち

長崎原爆資料館で、2人の男性の写真がひときわ目立つように展示されていた。アルバート・アインシュタイン、そして、ロバート・オッペンハイマー、ニューメキシコのロスアラモス研究所で原子爆弾を開発した二人である。



それにまた、展示されたのは、アイゼンハワー[Eisenhower]についてあまたある多くの本から見つけられた、アイゼンハワー将軍(当時の最高軍事司令官)の声明である。それは、「Eisenhower」(by Stephen E. Ambrose, Simon & Shuster, NY, 1983.)の426頁に見ることができる。



「陸軍長官ヘンリー L.スティムソン[Henry L. Stimson]は、最初、アイゼンハワーに爆弾の存在について話しました。



アイゼンハワーは『うつ状態の感覚』にのみ込まれました。スティムソンはアメリカ合衆国が日本に対して爆弾を使うつもりであると言ったとき、アイゼンハワーは次のように声に出しました。『私の由々しい不安、第一、私の確信を基礎においたならば、日本はすでに敗れ、そして、爆弾を落とすことが完全に不必要である。第二、我々の国は(核兵器の)使用による衝撃的な世界的世論を避けなければならない、と考える』」

スティムソンはアイゼンハワーの態度に動揺した、『私の短い報告をもっともな理由で反論し、もう少しで怒るところだった』。3日後に、アイゼンハワーはベルリンへ飛び、そこで、彼はトルーマンと彼の主要なアドバイザーに会った。再び、爆弾を使うことに対して勧められたアイゼンハワーは、再び、無視した。



アイゼンハワーの状況を他の本では、どのような軍の情勢かに関係なく、米国政府の最高位の共謀者たちが日本に対して使用をすでに誓った爆弾、に対する彼への抗議が彼の経歴を危険にさらしたという。  アイゼンハワーは、スティムソンがドイツのイルミナティの一団と同じように、1848年、ラッセル信託によって創設されたイェール大学のスカル&ボーンズやブラザーフッド(the Brotherhood of Death)の著名なメンバーであった、と知るよしもなかった。



さらに、その時から、彼らは戦争と革命を組織することで突出した役割を演じていた。また、トルーマン大統領は、ミズーリ州のフリーメーソンの主催者としての職歴にひとつの仕事をするだけだったことを、そして、彼が創設したロッジは、後に彼を米国上院に、それから、大統領に送った、ということを知るすべがなかった。




ATOMIC TERRORISM アトミック テロリズム(原爆テロ)

これをすべてお膳立てした男は、ヨーロッパを出発して、1933年10月にアメリカに来た、アルバート・アインシュタインだ。彼の妻は、彼のことを「蛇蝎の如く嫌われた人間とみなされた」と言った。以前、「平和」と「軍備縮小」という彼のプロジェクトについてジークムント・フロイト[Sigmund Freud]と一致したというが、アインシュタインが決して自分の理論を受け入れたとは思っていないと、フロイトは後で言った。息子エードゥアルト[Eduard]が精神病院で人生を過ごしていたので、アインシュタインはフロイトの仕事に個人的関心があった。そして、インシュリン療法と電気ショック処置を受けた。だが、少しも息子の状態に変化はみられなかった。

アインシュタインがアメリカに到着したとき、有名な科学者として祝福され、大統領とルーズベルト夫人からホワイトハウスに招待された。彼はまもなく、大勢の左翼と協力している、エリノア・ルーズベルト[Eleanor Roosevelt]と大変親密になった。そこでは、アインシュタインは心から一致したのである。おそらく、彼がアメリカで核分裂のプログラムを動かしていたので、アインシュタインの伝記作家の何人かは、現代を「アインシュタイン革命」とか「アインシュタインの時代」として認めている。政府に原子爆弾プログラムの開始を要求しているルーズベルトへの彼の手紙は、「平和と軍備縮小」に彼が一生涯肩入れしていたことで掻き回していたのは明白である。

彼の実際の肩入れは、シオニズムにあると、ロナルドW.クラーク[Ronald W. Clark]著「アインシュタイン:The Life And Times」、Avon社(1971版)、377頁、に 「彼は、パレスチナにいるユダヤ人の祖国のために、シオニストと共に運動するつもりだ」、とある。クラーク著『アインシュタイン』 460頁、より引用、「シオニストユダヤ人の努力と支援により、ユダヤ人としての私が今日ある」(1919)。



1939 年8月2日付、ルーズベルトへ出したアインシュタインの手紙は、10月11日にアレキサンダー・ザックスによって個人的にルーズベルト大統領に届けられた。なぜ、アインシュタインはルーズベルトにこの手紙を届けるための仲介者の協力を求めたのか?原子爆弾プログラムは、必須なウォール街の後援なしで起動させることができない。ザックス(ロシア系ユダヤ人)は彼の職業を「経済学者」としたが、実はロスチャイルド家のための外交員だったそして、その人はホワイトハウスのルーズベルトに定期的に高額な現金を届けた。ザックスは、ラザール・フレール国際銀行ユージン・メイヤー[Eugene Meyer]、さらに、もう一つの有名な銀行リーマンブラザーズのアドバイザーだった。



ザックスがホワイトハウスに運んだアインシュタインの手紙は、ルーズベルトにこのプロジェクトはロスチャイルドによって承認されており、全速前進せよ、ということを知らせてやった。

Ronald W. Clark : Einstein; The Life And Times, Avon, 1971,864pp.


A UNITED NATIONS PROJECT 国連プロジェクト

1945年5月、戦後戦略の設計者達、または、彼らがそう呼ぶのを好んだ「宇宙の主人たち[Masters of the Universe]」は、国際連合憲章を書くために豪華なパレスホテルのあるサンフランシスコに集められた。 主だった何人かは、その内輪のガーデンルームでの非公開会議のために引退した。

米国代表派遣団の団長は彼の最高の側近(アルジャー・ヒス[Alger Hiss])を密会に招いた。ヒスは、アメリカとソ連(KGB)の大統領の代理である。



ジョンF・ダレス[John Foster Dulles](サリヴァンとクロムウェルのウォール街法律事務所)、



その師(ウィリアム・ネルソン・クロムウェル[William Nelson Cromwell])は会議の場で「革命のプロ」と呼ばれていた。



そして、W・アヴェリル・ハリマン[Averill Harriman](特命全権大使)は、残存をかけたスターリン戦争を指揮するためにモスクワで最後の2年を費やした。



これらの4人の男は世界情勢に於けるアメリカ共和国のものすごい力を代表していた。それでも、その4人のうち(?)、エドワード・ステティニアスJr.[Edward Stettinius Jr., ]国務長官だけは憲法によって地位を公認されていた



ステティニアスは、緊急の問題を議論するよう命令して会議を招集した。というのは、日本人はすでに内密に平和を求めていた。そして、それは重大な危機であった。原子爆弾は、準備するのにもう数ヵ月の準備がかかる。
 

「我々は、ドイツをすでに失った」と、ステティニアスが言った、「日本が辞退したら、我々は爆弾をテストするのに生きている住民を失うだろう」。

「しかし、長官」と、アルジャー・ヒスが言った、「誰も、この武器の残忍な力を無視できませんよ」。

「それでも」ステティニアスがはさみ、
  「我々の全戦後プログラムは、原爆で世界を恐怖させることに依存している。」  

「その目的を成し遂げるために」、と、ジョンF・ダレスが言った、「あなたには、都合のよい勘定が必要だね。私は、100万人と言うべきだ」。

「そうです」、と、ステティニアスが答えた
、 「我々は、日本での百万人の[死体]勘定を期待している。しかし、もし彼らが降伏すると、我々は何も得ることがないだろう。」

爆弾が準備できるまで、やつらを戦争状態にしておけ」 と、ジョンF・ダレスが言った。

「それは、問題でない。無条件降伏だよ」、「やつらは、それに同意しない」と、ステティニアスが言った、「やつらは、天皇を守ると誓ったのだ」。

「その通り」と、ジョンF・ダレスが言った、
 「もう3ヵ月、日本に戦争を続けさせろ、そうすれば、我々は彼らの都市で爆弾を使うことが出来る;我々は、世界の全民族のむき出しの恐怖とともにこの戦争を終了する。そうすれば、彼らは我々の意に屈するだろう」。 


Jr.は、第一次世界大戦時で世界最大の軍儒品取扱業者の同業者J.P.モルガンのパートナーの息子だった。彼は、戦争の間ずっとアメリカ国内でフランスとイングランドの両方に軍儒購入品全般を監督するよう、J.P.モルガンによって指名された。

ジョンF・ダレスは、洗練された戦争屋でもあった。1933年に、彼と弟のアレンは、アドルフ・ヒトラーに面会するためケルンに急行して、ナチ体制を維持する資金を保証したダレス兄弟は、彼らの顧客、クーン・ローブ社とロスチャイルド家を代表していた

アルジャー・ヒスは、アメリカにおける共産主義エリートの黄金の王子だった。彼が第二次世界大戦後の名門のカーネギー国際平和基金の首脳に選ばれたときの彼の指名は、ジョンF・ダレスによる介添えだった。ヒスは、ソビエトスパイ活動諜報員と同等の功績をつくる嘘のために、後日、偽証で刑務所に行かされた。

ガーデンルームの密会は、実は国連による最初の軍事戦略会議だった。それは、生きている住民の真上で世界初の原子爆弾兵器を爆発させる任務に専念したからだ。それも、アメリカの納税者から5兆ドル出費させ、43年も続く冷戦(Cold War)の全戦略をあらかじめ準備され、必ずしも何も達成しなかったのは、意図されたことだ。

それゆえ、我々が見るNew World Orderは、教室に座っている何千もの子供たちを含め、生きたまま、広島と長崎で燃やされる何十万人もの一般人の苦しみに、その全戦略の基礎をおいていた。






これら幹部達は、順番に大量殺人を要求する大規模なテロリズムなしでルールはできない、という、彼らの主人(ヨシフ・スターリン[Josef Stalin])に精通していた。




同様に、ヴァンデンバーグ[Arthur Hendrick Vandenberg, 1884–1951]上院議員(共和党の忠実な反対勢力のリーダー)が言った、

「我々は、『連中』をひどく怖がらせなければならない」  (1977年8月、アメリカンヘリテージ誌引用)。




アーサー・ヘンドリック・ヴァンデンバーグ

(つづく)

【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100411.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100413.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100419.html


関連

広島 ネブラスカ、長崎 フロリダ By Henry Makow, Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12080043

「冷戦」: 五兆ドルのイルミナティの無用な仕事 by Henry Makow Ph.D.
http://satehate.exblog.jp/12090152




広島はなぜ破壊されたか by Eustace C. Mullins その2


THE JEWISH HELL-BOMB ユダヤの地獄爆弾



原子爆弾は、ニューメキシコ州のロスアラモス国立研究所で開発された。その最高機密プロジェクトが、マンハッタン計画と呼ばれたのは、その影のディレクター(バーナード・バルーク)がマンハッタンに住んでいたことから、他の多くの主要人物にならってそうつけた。



バルークは、活動の首脳に、レスリーR・グローブス[Leslie R. Groves, 1896-1970]少将を選んだ。彼は以前ペンタゴンを建設しており、バルークが呼べば必ず集まるワシントン政治家の間で良い評判を得た。



ロスアラモスの科学ディレクターは、ロバート・オッペンハイマー(商人の服を着た富裕な家庭の御曹司)だった。



「Oppenheimer; the Years Of Risk」、ジェームズ・クネトカ[James Kunetka]著、Prentice Hall社、NY、1982の、106頁に、クネトカが書いている、



「バルークは、特に上席科学顧問の地位にあるオッペンハイマーに興味があった」。

プロジェクトは約20億ドルにのぼった。世界の他のいかなる国も、そのような爆弾を開発する余裕を持つことができなかった。原子爆弾の最初の核実験成功は、トリニティ(1945年7月16日、午前5時29分45秒、ロスアラモスから200マイル南)で行われた。

オッペンハイマーは、その光景に我を忘れた。彼は悲鳴をあげて毒づいた、「私は、死神になった。世界の破壊者だ」。



いかにも、これはマンハッタン計画の世界を破壊するという究極の到達地点のようにみえた。この爆発実験が、本当に、全世界を破壊する連鎖反応を引き起こすかもしれないという、かなりの危惧が科学者の間でおこった。オッペンハイマーの勝利の歓喜は、今、全世界を支配したいという彼ら(訳註:ユダヤ人)の5000年の願望を満たすことができる究極の力を手に入れた、という彼の実感から生まれた




THE BUCK PASSES TO TRUMAN  トルーマンに引き渡す(引用注:「トルーマンへの責任転嫁」)

トルーマンが原子爆弾を日本に落とすという決定に用意万端であるにもかかわらず、実際、彼はジョージ L.ハリソン[George L. Harrison, 1887-1958](ニューヨーク連邦準備銀行総裁、1909-スカル・アンド・ボーンズ)からなる名門グループ、国家防衛研究委員会(The National Defense Research Committee)より忠告された。


上では右から二人目、下は左端





ジェームズ・B・コーナント(ジェームズ・コナント)[James B. Conant, 1893-1978]博士(ハーバード大学学長)は、より効果的毒ガスを開発することに第一次世界大戦を費やし、そして、1942年、ドイツのありとあらゆる生き物を殺したかったウィンストン・チャーチル[Winston Churchill]から、ドイツで使用する原子爆弾を開発するよう依頼をされた。





ドイツが降伏する前に、コーナントは爆弾を仕上げることができなかった。さもなければ、彼の履歴書にもう一つ別の句が加わっただろう。



トルーマン委員会での彼の尽力は、日本に原子爆弾を投下することを忠告し、前歴に科学戦のプロと追加され、「第二次世界大戦で最も悪名高い戦犯」というふうに、1957年に合衆国請求裁判所に提出された書類にある彼の記述を認めた。

戦争の後、ドイツの大管区指導者(ガウライター;Gauleiter)として、彼は私の本、「The Federal Reserve Conspiracy(邦訳『世界権力王像の秘密』) 」、世界的に有名なキリスト受難劇(Passion Play)の地、南ドイツのオーベランマーガウで発表されていた1万部、の焼却を命じた。



また、委員会には、カール・コンプトン[Karl Compton, 1887-1954]博士(1930-1948、マサチューセッツ工科大学学長)と



ジェームス F・バーンズ[James F. Byrnes, 1882-1972](国務長官代理)がいた。30年間、バーンズはワシントンのバーナード・バルークの召使として知られていた



ウォール街での利益をつぎこみ、バルークはサウスカロライナ州で贅を尽くした邸宅を造った。それにHobcaw Barony(訳註:Hobcawは先住民の言葉で『水の間』)と名前をつけた。サウスカロライナ州で最も裕福な男として、典型的な北部の渡り者は、政治的にも財布のひもを締め支配した。その時、日本に原子爆弾を落とさねばならないことを、彼の召使バーンズをつかって、バルークはトルーマンに指図する立場にあった。


Hobcaw Barony


LIPMAN SIEW  リップマン・シウ

マンハッタン計画が第二次世界大戦で極秘事項であったという事実にもかかわらず、1人の男に多くのことが限定され、この計画について、すべてを観察し、すべてを知ることを許した。彼は、リップマン・シウ[Lipman Siew]という17才で政治亡命者としてアメリカに来たリトアニアのユダヤ人だった。



彼はボストンのローレンス通りに住んでいたことから、ウィリアムL・ローレンス[William L. Laurence]を名のることを決めた。ハーバード大学で、彼はジェームズB.コーナントの親友になり、彼から個人指導をうけた。

ローレンスがニューヨークに行ったとき、バーナード・バルークの私的広告代理人で有名だったハーバート・バイアード・スウォープ[Herbert Bayard Swope, 1882-1958](NYWorld紙の記者)に雇われた



バルークは、World社のオーナーだった。
1930年、ローレンスは、ニューヨークタイムズ社の科学欄編集主任になる、という申し込みを受け入れた。彼は名士録にこうある、「たった一人の広報活動の記者として原子爆弾プロジェクトの首脳陣から選ばれた」。最高機密プロジェクトの広報活動記者であったかどうかは説明されてなかった。ローレンスは、1945年7月16日、爆破実験の歴史的な爆発において出席した、ただ一人の民間人だった。




1ヵ月未満後に、彼は宿命的な長崎爆撃航程におけるB-29の副操縦士席に座った。




William L. Laurence(Lipman Siew )



WILL JAPAN SURRENDER BEFORE THE BOMB IS DROPPED?  爆弾が落とされる前に日本は降伏するか?

世界中いたるところで新しい恐怖政治を予定している共謀者たちに一瞬多くの不安がよぎった。日本は、平和を求めていたからだ。  来る日も来る日も、戦乱の中にとどまりつづけることなんて、あまり有り得ないことのように思えた。1945年3月9、10日、325機のB-29爆撃機 は、東京を35平方マイル(約56.3km2)燃やした。絶間ない猛火で10万人以上の日本人が死んでいるところから飛び去った。




日本で最も大きい66都市のうち、59都市は、ほとんど破壊された。178平方マイル(約461 km2)の都市部での生活は燃やされ、50万人は火災で死んだ。そのせいで、2000万人の日本人は家を失った。




4つの都市だけは、破壊されなかった。それは、広島、小倉、新潟と長崎。そこの住民は、原子爆弾の実験ための目標都市として取っておかれたとは知るよしもなかった。

バーナード・バルークの主張によると、レスリー・グローヴス少将は、京都を爆弾の最初の標的として要求した。陸軍長官スティムソンは反対し、日本の古都である京都市には何百もの歴史的木造寺院があり、軍事的目標物はない、と言った。ユダヤ人は、日本人にとって大きな文化的重要性ゆえに、きっちり、それを破壊したかったのである


THE HORROR OF HIROSHIMA 広島の恐怖

広島の住民が彼等の頭上をB-29が爆弾を落とすことなく飛ぶのを見続ける間、科学者が彼らのために確保した戦慄すべき運命を少しも知らなかった。ウィリアム・マンチェスター[William Manchester]は、『American Caesar』、Little Brown 社、1978年版の中(437頁)で、ダグラス・マッカーサー将軍を引用している。



[引用ここから]あそこにもう一つの日本がある。そのことに、マッカーサーはその実在を疑った数少ないアメリカ人の1人だった。彼は、ペンタゴンと国務省をなだめるような身振りで注意をうながし主張し続けた。将軍は、日本軍からでない急変が東京から来ると予測した。将軍は正しかった。ヒロヒト自身が先頭に立ちハト派の連携は日本の首都で形作られた。さらに、平和交渉は、国の苦しみを終える唯一の方法であると1945年の春に結論し5月の早い時期、日本外交官の6人の評議員は、連合国と調停する方法を探した。使節は、「我々の抵抗は終った」ことを最高の軍当局者に知らせた。[引用終わり]

同書359頁で、ガー・アルぺロビッツ[Gar Alperowitz](訳註:歴史学者)が、1945年に要旨(MAGIC summary)を準備することを担当した、カーター W.クラーク[Carter W. Clarke]准将を引用している。彼は、1959年の歴史的インタビューの中ではっきりと述べていた、


「我々は日本の商船を沈めて、孤独に飢えさすことを加速して、絶望的な投降で倒した。そして、我々がそれをする必要がなく、それをする必要がないということを知っていたとしても、2つの原子爆弾の実験としてやつらに使った」。



トルーマン大統領が爆弾を落とすという決定の唯一の権威として彼自身指し向けたのだが、実際、彼はワシントンにいるバーナード・バルークの召使ジェームスF・バーンズから全影響をうけていた。ガー・アルぺロビッツの立場によれば、 「バーンズは、暫定委員会の審議におけるすべての爆弾関連の問題に関して、アメリカ合衆国の権威である大統領(個人的代理人)と話した」 (196頁)。 デイビッド・マカッロー[David McCullough]によるトルーマンを賞賛する伝記の中で、「バレンタイン」のように描いた、「トルーマンは、米国国務長官のステティニアスを知りませんでした。大統領は、外交政策の経歴を持っておらず、彼自身の専門家のアドバイザーもいませんでした」、と認めた。


[訳註:参照]Truman Is ‘Valentine’
President Truman had a "grand time" at a Valentine party last night. He received a red rose as a valentine gift.
トルーマン大統領は、昨夜、“華々しい”バレンタインパーティーを催した。彼は、バレンタインの贈り物として赤いバラを受け取った。




広島と長崎の悲劇は、ひ弱で未熟な大統領(完全にバーンズとバルークの影響を受けていた)が、彼自身、残忍な大虐殺を犯すために操られることを許したということだ。広島の暗雲への導入部に、我々はそれを見つけることができる、「トルーマンは、バーンズの影響を受けて、かなり反対方向に行動していた。バーンズのための原爆は、外交(原爆外交)のための駆け引きの道具だった」(ixページ)。



(つづく)

【翻訳:タドン】
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100421.html
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/day-20100422.html







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2 コメント

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ロスチャイルド家やバルークなどのイルミナティ銀行家たちの話がでてこない (odeko)
2015-08-11 10:46:18
素晴らしい記事ありがとうございます。

男系長子が
後を継ぐルールから外れてまで
「ネイザン」が当主についたのか?!
それは
結論的には
普通じゃなく「異常」人格者だった・・・!!から

騙す
嵌める
裏切る
はては・・・
殺人!!まで

「平気」でおこなう奴だった!!
2015年 9月2x日、世界が終わるというデマ警報! (忍法無名)
2015-08-13 03:56:41
こんにちは
イルミナティによる人工地震計画-5月11日、5月22日に、
日本で巨大地震を発生させる目論見は失敗しました。

しかし断末魔の偽ユダヤ・メーソン・イルミナティの連中は、
9月末頃にアメリカ近海に(人工)隕石落下を起こし、
大津波を発生させたいらしい。

その対策の為の警報動画が出来ました。
これは予め『デマ』だと前置きしているところがミソです。
下記に例文を示します。
是非、拡散宜しくお願いします。


★☆★☆【 緊急!!9月2x日、世界が終わるというデマ警報! 】

この情報はデマです。
デマ情報に惑わされないように、あらかじめ「デマ」だと
皆さんで知っておいて下さい!!

2015年9月2x日頃、世界の終わりとなる超弩級の
災害が起こり、世界が終わります。

これはデマです。仮に何らかの災害が起こったにせよ、
まだ世界の終わりにはなりません、

2015年9月2x日、世界の終わりデマ警告(ver.1)
https://www.youtube.com/watch?v=nqbJrWeir84

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