4回にわたって長々と生命エネルギー、業についての見解を述べて参りました。もういい加減このタイトルの記事はおしまいにしようと思います。
ある状況の原因が、その肉体以前に為した「業」によるものかどうか、それともその肉体で為した行いに原因があるのか、どうやって判断するのでしょうか。
なんでもかんでも、その原因はそういう過去の「業」であると決めつけるのもどうかと思います。
人間というのはとにかく無知でアホでわがままでどうしようもない生き物だと思います。如理に見ず、如理に理解せず、如理に観察せず、あるがままに見ず、わがままに見て、道理のないことを求め、道理にないことを求めてそれがかなわないと不満を抱く。道理はどういうことか理解できていないかもしれないと謙虚に考える前に、「自分は正しい」と思い込んだりする。そう思い込んでいることに気付かないことすらある。
もしかしたら自分にも間違いはあるかもしれないけど誰でもやるちょっとした間違いなはずだから許される、とか言い訳をして自分の間違いを棚に上げる。間違いは間違いだし、誰でもやるちょっとした間違いだと考える根拠が間違っていたりもします。
自分の間違いはちょっとしたことで問題のないものだと棚に上げて、もっと重大そうに思える他の生命の間違いを責め立てたりする。自分の間違いを棚に上げている自覚がないこともある。
他の生命を責め立てるのは、こころのなかでであっても慈しみがないなら間違いです。慈しみは必須であるという見解です。
そんな人間ですから、やること為すこと間違いだらけだと思った方が妥当でしょう。間違ったことを行えば、望まない結果を招くでしょう。
だから、望まない状況について「これは業のせいだ」と、あまり安直に考えない方が良いと思うのです。もしかしたら、この肉体で為したことに原因があるかもしれないと真剣に考えてみる。ただ、生まれつきのことはすべて業に因があると考えるのが妥当ではないかと思います。
それで、気を付けるべきだと思うのが、
原因がよく分からないこと、納得しがたいことを都合よく業のせいにするのは、
そうすることでこころが汚れず、こころ清らかに、優しい気持ちですべての生命が平等であることを如理に理解し、謙虚に、人格を向上することに役立つ、そういう場合だけにするべきだということです。
その肉体以前に為した過去の業を、
こころを汚し、傲慢になり、あるいは卑屈になり、「これはよくない」と思うことを為す言い訳に使ってはならないということです。
そもそも業は「因」です。その因をつくるのは「為す行い」です。なにかを為した、その行いが業となるのであって、
「業そのものが、なんらかの行いを為す因である」という道理は私には見出せないのです。業が因となってなにかが「起こる」のであって、業に、それをもつ生命になにか行いを為させる強制力はないという見解です。業がそれをもつ生命になにか行いを為させる働きがあるという、そういう道理は私には見出せません。
たとえばある生命が、ある異性を見て好ましいという感覚を生じるとします。つまり、魅力的だと感じるということです。
そこまでは、業が因であるかもしれません。
それで、その異性と親しくなりたいと考えるとします。このあたりは、既に業の範囲を越えてくるところでしょう。親しくなりたいという感情の生起までは微妙なところですが、親しくなるためにはどうすればよいだろうかと考えたらそれは行いです。
「その異性と出会う」という業の果を受けて、そこから新たにその肉体で為した「思考という行い」です。行いは「因」となります。行いが「果」であるという道理は見出せません。
突然、通り魔に襲われて身体に損傷を負うとします。その出来事は業によるものかもしれません。
しかし、その通り魔を憎むというのは「行い」です。
通り魔に襲われて身体に損傷を負って不快を生じる、というあたりが業の守備範囲の限界であって、その先は、その生命が為そうとしない限りできない行いです。
その通り魔に怒りを覚えても、それをおさめてこころ穏やかにいる、というのも「行い」であって、業の果ではありません。
なにがあってもこころ穏やかでいられる性格特性、思考特性をもっていることそのものは業の果かもしれませんが、そこからその生命がどういう思考を実際にするかは新たな「行い」です。
そういう見解ですから、為す行いの理由を業に求めるという道理は成り立ちません。業を言い訳にしてなにかを為すことはできないという見解です。為す行いはすべて、その肉体においてその生命が選択したことです。業のせいではありません。業によって不可避に"起きた""生起した"「動機」はあると思います。動機は為すのではなく生起するものであろうと思います。それは業のせいと言ってもよいでしょう。
しかし、その動機を実行にうつすかどうかは業のせいではありません。業のせいであれば果の結実に選択の余地はなく、仮になにかを為す因が業としてあるなら、その生命は一切なんの選択の余地もなくその行為をすることになります。そんな道理は見出せません。
そういうわけで、為す行いは、ひとつも業のせいにはできないということです。
業を都合よく使って、より善い人間になるということです。
業を都合よく使って悪を為してはならないという見解です。
ある生命を不快に感じて、それはなんでだろう、それはソイツがコレコレこういう理由でなんだか嫌な奴だからだ、だから不快に感じるのはまっとうだ、ソイツがいなければ快適なのだ。ああ、なんだかますます腹が立ってきた…なんてやってしまってはならないということです。
ある生命を不快に感じて、それはさておき優しい気持ちになる思考をするということです。なんで不快に感じたのだろう、と考えるなら、生命を不快に感じることがいかに道理を外れようとするわがままなことか、という視点で理由を探し、戒めることです。
どんな理由があるにせよ、ある生命を不快に感じ、それを思考にして、その生命を嫌悪していく、その先には、幸福は見出せないのです。そのような道理は見出せないのです。
その生命、ある生命は自分のことも含みます。
つまり、業をもってしても、あらゆる悪行は正当化できないということです。暗いと感じる思考はすべて悪行です。悩むことも苦しむことも。それを正当化できる根拠はどこにも存在しないということになります。
他の生命に対する、暗いと感じる思考。
自分に対する、暗いと感じる思考。
幸福になりたいのなら、許されるものはひとつもありません。
言い訳はいくらでもできますが、幸福になる道理としてひとつも成り立ちません。
そういう行いをしても構いませんが、それはまた新たな生命エネルギーとなります。それはどんな種類の生命エネルギーになるでしょう。善業となるか、悪業となるか。そのエネルギーの結実は、どんな果となるでしょう。
本当に長い記事になってしまいました。
ここまでお読みくださった生命に功徳がありますようにと誓願いたします。
これで「生命エネルギーに関する見解」というタイトルはおわりにするつもりです。
ですから【おしまい】としました。
しかし、またなにか書きたくなるかもしれません。そういう情動が生起する業があるかもしれません。
それを実行に移すことが誰かの役に立つと思えるときは、この肉体の選択として実行に移します。そのときはしれっと【おしまい】が"⑤"になっているでしょう。
それは業のせいではなく、新たな意思です。それはまた未来への業になるでしょう。それが善業になれば良いな、善果を結実すると良いな、とは思いますが、そこはひとつの肉体ぶんの寿命も経験せず、勉強もしていないこの脳みそには計り知れません。
ですが、誰にうしろめたくもない行いです。それをすることがよいことであろうと思うこと、それをするのがよくないとは思えないこと、そういうことを為していくことが大切であろうという見解にある生命が記した記事でございました。
生きとし生けるものがしあわせでありますように
前回までの内容に興味がある方は下のリンクからご覧になることができます。
これらの見解により
暗い気持ちは悪行である
欲をともなう明るい気持ちも考えものである
欲をともなわない、他の生命への慈悲喜捨による明るい気持ちが最上である
生きとし生けるものがしあわせでありますように