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生命エネルギーに関する見解【おしまい】

2022-11-26 15:45:48 | 日記
4回にわたって長々と生命エネルギー、業についての見解を述べて参りました。もういい加減このタイトルの記事はおしまいにしようと思います。


ある状況の原因が、その肉体以前に為した「業」によるものかどうか、それともその肉体で為した行いに原因があるのか、どうやって判断するのでしょうか。

なんでもかんでも、その原因はそういう過去の「業」であると決めつけるのもどうかと思います。

人間というのはとにかく無知でアホでわがままでどうしようもない生き物だと思います。如理に見ず、如理に理解せず、如理に観察せず、あるがままに見ず、わがままに見て、道理のないことを求め、道理にないことを求めてそれがかなわないと不満を抱く。道理はどういうことか理解できていないかもしれないと謙虚に考える前に、「自分は正しい」と思い込んだりする。そう思い込んでいることに気付かないことすらある。

もしかしたら自分にも間違いはあるかもしれないけど誰でもやるちょっとした間違いなはずだから許される、とか言い訳をして自分の間違いを棚に上げる。間違いは間違いだし、誰でもやるちょっとした間違いだと考える根拠が間違っていたりもします。

自分の間違いはちょっとしたことで問題のないものだと棚に上げて、もっと重大そうに思える他の生命の間違いを責め立てたりする。自分の間違いを棚に上げている自覚がないこともある。

他の生命を責め立てるのは、こころのなかでであっても慈しみがないなら間違いです。慈しみは必須であるという見解です。

そんな人間ですから、やること為すこと間違いだらけだと思った方が妥当でしょう。間違ったことを行えば、望まない結果を招くでしょう。

だから、望まない状況について「これは業のせいだ」と、あまり安直に考えない方が良いと思うのです。もしかしたら、この肉体で為したことに原因があるかもしれないと真剣に考えてみる。ただ、生まれつきのことはすべて業に因があると考えるのが妥当ではないかと思います。


それで、気を付けるべきだと思うのが、

原因がよく分からないこと、納得しがたいことを都合よく業のせいにするのは、

そうすることでこころが汚れず、こころ清らかに、優しい気持ちですべての生命が平等であることを如理に理解し、謙虚に、人格を向上することに役立つ、そういう場合だけにするべきだということです。

その肉体以前に為した過去の業を、
こころを汚し、傲慢になり、あるいは卑屈になり、「これはよくない」と思うことを為す言い訳に使ってはならないということです。

そもそも業は「因」です。その因をつくるのは「為す行い」です。なにかを為した、その行いが業となるのであって、

「業そのものが、なんらかの行いを為す因である」という道理は私には見出せないのです。業が因となってなにかが「起こる」のであって、業に、それをもつ生命になにか行いを為させる強制力はないという見解です。業がそれをもつ生命になにか行いを為させる働きがあるという、そういう道理は私には見出せません。


たとえばある生命が、ある異性を見て好ましいという感覚を生じるとします。つまり、魅力的だと感じるということです。

そこまでは、業が因であるかもしれません。
それで、その異性と親しくなりたいと考えるとします。このあたりは、既に業の範囲を越えてくるところでしょう。親しくなりたいという感情の生起までは微妙なところですが、親しくなるためにはどうすればよいだろうかと考えたらそれは行いです。
「その異性と出会う」という業の果を受けて、そこから新たにその肉体で為した「思考という行い」です。行いは「因」となります。行いが「果」であるという道理は見出せません。


突然、通り魔に襲われて身体に損傷を負うとします。その出来事は業によるものかもしれません。

しかし、その通り魔を憎むというのは「行い」です。

通り魔に襲われて身体に損傷を負って不快を生じる、というあたりが業の守備範囲の限界であって、その先は、その生命が為そうとしない限りできない行いです。

その通り魔に怒りを覚えても、それをおさめてこころ穏やかにいる、というのも「行い」であって、業の果ではありません。

なにがあってもこころ穏やかでいられる性格特性、思考特性をもっていることそのものは業の果かもしれませんが、そこからその生命がどういう思考を実際にするかは新たな「行い」です。


そういう見解ですから、為す行いの理由を業に求めるという道理は成り立ちません。業を言い訳にしてなにかを為すことはできないという見解です。為す行いはすべて、その肉体においてその生命が選択したことです。業のせいではありません。業によって不可避に"起きた""生起した"「動機」はあると思います。動機は為すのではなく生起するものであろうと思います。それは業のせいと言ってもよいでしょう。

しかし、その動機を実行にうつすかどうかは業のせいではありません。業のせいであれば果の結実に選択の余地はなく、仮になにかを為す因が業としてあるなら、その生命は一切なんの選択の余地もなくその行為をすることになります。そんな道理は見出せません。

そういうわけで、為す行いは、ひとつも業のせいにはできないということです。

業を都合よく使って、より善い人間になるということです。

業を都合よく使って悪を為してはならないという見解です。

ある生命を不快に感じて、それはなんでだろう、それはソイツがコレコレこういう理由でなんだか嫌な奴だからだ、だから不快に感じるのはまっとうだ、ソイツがいなければ快適なのだ。ああ、なんだかますます腹が立ってきた…なんてやってしまってはならないということです。

ある生命を不快に感じて、それはさておき優しい気持ちになる思考をするということです。なんで不快に感じたのだろう、と考えるなら、生命を不快に感じることがいかに道理を外れようとするわがままなことか、という視点で理由を探し、戒めることです。

どんな理由があるにせよ、ある生命を不快に感じ、それを思考にして、その生命を嫌悪していく、その先には、幸福は見出せないのです。そのような道理は見出せないのです。

その生命、ある生命は自分のことも含みます。

つまり、業をもってしても、あらゆる悪行は正当化できないということです。暗いと感じる思考はすべて悪行です。悩むことも苦しむことも。それを正当化できる根拠はどこにも存在しないということになります。

他の生命に対する、暗いと感じる思考。
自分に対する、暗いと感じる思考。

幸福になりたいのなら、許されるものはひとつもありません。

言い訳はいくらでもできますが、幸福になる道理としてひとつも成り立ちません。

そういう行いをしても構いませんが、それはまた新たな生命エネルギーとなります。それはどんな種類の生命エネルギーになるでしょう。善業となるか、悪業となるか。そのエネルギーの結実は、どんな果となるでしょう。



本当に長い記事になってしまいました。
ここまでお読みくださった生命に功徳がありますようにと誓願いたします。

これで「生命エネルギーに関する見解」というタイトルはおわりにするつもりです。
ですから【おしまい】としました。
しかし、またなにか書きたくなるかもしれません。そういう情動が生起する業があるかもしれません。

それを実行に移すことが誰かの役に立つと思えるときは、この肉体の選択として実行に移します。そのときはしれっと【おしまい】が"⑤"になっているでしょう。

それは業のせいではなく、新たな意思です。それはまた未来への業になるでしょう。それが善業になれば良いな、善果を結実すると良いな、とは思いますが、そこはひとつの肉体ぶんの寿命も経験せず、勉強もしていないこの脳みそには計り知れません。

ですが、誰にうしろめたくもない行いです。それをすることがよいことであろうと思うこと、それをするのがよくないとは思えないこと、そういうことを為していくことが大切であろうという見解にある生命が記した記事でございました。


生きとし生けるものがしあわせでありますように


前回までの内容に興味がある方は下のリンクからご覧になることができます。



これらの見解により

暗い気持ちは悪行である

欲をともなう明るい気持ちも考えものである

欲をともなわない、他の生命への慈悲喜捨による明るい気持ちが最上である




生きとし生けるものがしあわせでありますように



 
 


生命エネルギーに関する見解④

2022-11-24 17:46:11 | 日記
生命エネルギー、業ということについて、リンクに貼ったような3つの記事を書いてきました。


このような見解ゆえに、以下のような意見があります。

たとえば突然に頭痛を感じるとします。
それは前日に酒を飲み過ぎたことが原因かもしれません。その場合は、二日酔いの頭痛用の薬を飲めば改善するかもしれません。
酒の飲み方を工夫することで、以後の頭痛は発生しなくなるかもしれません。
なんらかの脳神経外科的な原因があるかもしれません。その場合は脳神経外科に通院して調べる方法があるでしょう。調べた方がよいでしょう。

それで、仮にその頭痛の原因が、その肉体以前のときに為した行いにあるとしたら、それはもうどうしようもないということです。頭痛を感じるしかない原因を、その肉体以前につくったということです。

もし宇宙が3回ぐらい生滅する前に為した業が因であるとするなら、3回も宇宙の生滅を経て、ようやくその業因は結実の条件を得て、やっと頭痛という結果を出しているわけです。
もはや、どんな頭痛薬を飲もうが、なにをしようが、その業エネルギーが消滅するまでは頭痛は治まる道理がないわけです。改善のしようがないわけです。

まさしく因が結実しているなら、そこでその因は終極を為しているということです。
ようやくそこでその業エネルギーは終わるわけです。放っておく以外になにもしようがないでしょう。
嫌だ、納得がいかないとわめいたところで、条件が整って因が果を結実することはなんともなりません。

そこで嫌だ、納得がいかないと思うという行いが、またエネルギーとなって、業となって、未来の結果の原因となっていくのです。

で、そんなことは考えにくいですが仮に。
頭痛に感謝だ、とか、色々とやるとします。
善業を積もうということから、そういうこともあるかもしれません。

その行いも、やはりエネルギーとなっていきます。
それがどのような因となるか分かれば良いのですが、なんとも言えないところでしょう。未来に望ましい結果を結実する業となればよいですが、その保証はどうでしょうか。私には分かりません。

で、ただ「頭と認識する部位に痛みの感覚を感じている」と観察だけをする場合は、なんのエネルギーも業も生じないという見解があります。

どうしても嫌だと思う気持ちがある場合は、
「その痛みの感覚を受けて、嫌だと思うような思考をしている」と観察します。

それが、業の望まない結実に対してできる最善であるという見解です。

①の喩えで、走行中の車がもつ動的エネルギーは、燃料がなくなれば失われると書きましたが、涅槃とはそういうことが条件になってくるであろうと思います。
ただ観察する場合は、そこにエネルギーは生じない。業となる原因を生じない。そのような見解です。


納得できないことは色々あるでしょう。

ガン家系という表現があります。ガンになりやすい生まれ、ということです。

ガンのリスクがある行為が色々と言われます。
タバコで肺がんのリスクがある、などです。
タバコを吸わなくても肺がんになる生命がいる。
ベビースモーカーなのにガンと無縁な生命もいる。

タバコが原因で肺がんになる場合もありましょう。その生命は、タバコをやめれば肺がんを防げるでしょう。

その肉体以前に為した原因により、条件が整えば肺がんになるというエネルギーを備えて、その肉体として活動をはじめた生命があるとしましょう。その場合は、タバコが条件でない場合はタバコをまったく吸わなくても関係なく、必要な条件が整えば肺がんになるしかないわけです。

それで、なにがその条件かは知り得ないわけです。


原因もわからず、納得もいかず、望みもしないこと。
なんと努力してもどうにもならないこと。

それはもういくつも昔の宇宙の頃に為した業の果だと思う。そのような見解です。納得のいかないことにこころを汚すことはないのです。

いまからは、優しい気持ちになれること、人格が向上していくこと、無上や解脱と呼ばれるものに至るような、そういう思考をし、そういう言葉を発し、そういう行動をしていくことが最善なのではないかなあと、そのような意見があります。

業が結実を開始してしまったら、もう止めようがありません。

しかし、結実を始める前。条件が整っていないとき。
その業は、まだエネルギーとして漂っているわけです。熱エネルギーに対する冷エネルギーのように、その業エネルギーに対して、まだできることはあります。

善行だと認識するようなこと。
そのような行いをする。
徳が積まれると認識する行いをする。
「これはよくない」と思うことをしない。
「これはよい行いではない」と思う行いをしない。

少なくとも、この肉体でつくる原因、つまり業エネルギーは、悪いものにはならないでしょう。この肉体以前につくった業はどうにもならないのですから、ほかにどう生きようもないのではないでしょうか。


それで、このことは、望ましい果についても同じことが言えるであろうと思います。

なんでこんな恵まれた状況なのだろうかと、原因が分からないようなこと。
それはそのような業を、その肉体以前に為したからであろうと、そのように思い、そこからまた善業を為していくことが重要であろうという見解です。
3回ぐらい前の宇宙で為した善業因によって、いまこの望ましい果を受けているとしたら、いまここから悪業を為したらこの先に対してはあまりよろしくないであろうという見解です。

俺ってなんでこんなにイケメンでモテて金も寄ってくるんだろう、と思って、そうでない生命を見下したら、その見下すエネルギーが未来への因となるという見解です。

私ってなんでこんなにかわいいのかしら、なんでこんなに金持ちの男性ばっかり寄ってくるのかしら、と思って、醜いと感じる生命を嫌悪したり、貧乏な生命を嫌悪したら、その嫌悪のエネルギーが未来への因となる、そのような見解です。

無始なる過去からの数えきれない様々な業の、たまたまいまその状況となる結果を結実する因が、いまここで結実しているという見解です。

それ以外にどんな業因がエネルギーとして待ち構えているか分からないという見解です。

だから、どんな生命も、謙虚に、優しい気持ちで、人格を向上していくことがよいのではないかと思います。

すべての生命が、無始なる過去からの業エネルギーの因を受け継いで、その肉体を形成し活動を開始しているという見解です。

いま幸せである生命は、その過去からのなんらかの善業、あるいはその肉体において為したなんらかの善業の果としてその幸せな状況にあるという見解です。

ですから、幸せな生命を見たら、その因となっている為された善行に随喜するわけです。

いま不幸である生命がいるならそれは、その肉体以前の過去のなんらかの悪業、あるいはその肉体で為したなんらかの悪業の果としてその状況があるという見解です。

もう仕方がないのです。そんな生命を見たら、
「ああ、ここにおいてようやくひとつの悪業因が果を結実して終わりを迎えているのだ」と思い、そのあとには善果がありますようにとその生命のしあわせを願い、なにかその生命のためにできることがあるならしてあげる。

自分にも無始なる過去から引き継いでいる数えきれない悪業エネルギーがあるという見解です。この先、いつどこでそれが条件を得て結実するか分からないのです。そういう意味で、すべての生命が平等なのです。

もちろん善業エネルギーも数えきれないぐらいたくさんあるでしょう。どの業の結実にどのような条件が必要か、それがいつどこで結実するのか、我々には皆目分からない。

そのような見解です。

だからやっぱり謙虚になって、優しい気持ちで慈しみを育てることは欠かせないだろうと思うのです。



生きとし生けるものがしあわせでありますように

悩み苦しみがなくなりますように

喜びがありますように

すべての生命が幸福でありますように



 

 


生命エネルギーに関する見解③

2022-11-23 10:18:58 | 日記
業についての見解をもう少し補足したいと思います。

なお、補足しましたもとの記事は以下の2本になります。

ひとつの宇宙が生じて滅する間の時間は、この肉体からすれば永遠とも感じられるものかもしれません。まして、ひとつの宇宙が生滅し、また次の宇宙が生滅して、さらにまたひとつの…と、いくつもの宇宙の生滅の間、積み重ね、紡いできたエネルギーが業だとするならば、

ひとつの肉体の間に為した因など、広大な砂漠の砂粒のようなものかもしれません。
ある人生において極悪人であったとしても、超絶な聖人君子であったとしても、ただその一生だけでは業全体のなかではたいしたことではない。この見解においてはそういうことが言えます。

それで、たまたま、ある条件があって、砂粒ほどのこの肉体時間において、砂粒ほどのある業の結果を受けることになる。

それにあたった肉体にとっては大変なことですが、業全体としてみれば、たいしたことではないと言うしかないことでしょう。
いくつも宇宙が生じて滅する時間のなかでは。

砂粒とはいえ、その砂粒の寄せ集めで砂漠が成り立つ。ひとつひとつの砂粒の種類、色合いなど、砂漠全体にはまったく影響を及ぼさないに感じるけれども、事実はそうではない。一粒一粒の砂粒が集まって砂漠になるのだから、確実に影響はあるわけです。

それぞれの肉体における時間が、砂漠に砂粒を撒くものだとしたら、砂漠全体を変えようなどとは思わないでしょう。
でも、どうせ目の前に砂粒を撒くなら、好みの砂粒を撒くのではないでしょうか。その砂粒の結果が、自分の好むものでありそうな砂粒を。
わざわざ好まない砂粒を撒くでしょうか。その砂粒の結果が、自分にとって望まないものでありそうな砂粒を。


生命エネルギー、業と呼ばれるものは、あまりに難解なものであると思います。ある一定以上それについて考えると、やや危険でもあると思います。

業というのは所詮ただの「原因」です。
いままでのことは仕方ない。
だけどこれから原因をつくっていくのなら、好みのエネルギーを為すことが最善ではないでしょうか。
その因果の法則すべてを理解しなくても、
色々あっても気楽に安穏に、なにがあってもいっさいの生命に対して優しい気持ちでいられるような、人格を向上していけるような、必ず過ちをおかしてしまうアホで無知な生命であると謙虚でいられるような、そういう状態に納得していられる程度に都合よく理解しておけばいいんじゃないかという気がしています。

次の記事で最後にするつもりです。


生きとし生けるものが幸福でありますように



 

生命エネルギーに関する見解②

2022-11-22 23:53:50 | 日記
業、生命エネルギーに関する見解について、記事を続けます。前の記事はこちらになります。


この「いま」は、いままでの意思エネルギーの結果である、という見解に基づく記事になります。
つまり、いま感じていることは過去の業の結果であるという見解です。

この「いま」を感じているその肉体、その肉体を生かしめている生命が、その肉体物質において、その肉体として活動する、その前までに貯めてきたエネルギー。つまり、業。

そのエネルギーのもつ意思。言うなれば、そのエネルギーがもつエネルギーの種類。それが「業」として、その肉体物質において条件が整うたびに、結果を生じていく。

そのエネルギー自体に善いも悪いもないが、その肉体を「自分」と認識するその意識が、その結果を望ましく感じれば、その原因となったエネルギーを「善」、望ましくなく感じればそのエネルギーを「悪」と判断する。つまり「善業」「悪業」と。

ある肉体として活動しようとする時点で、その肉体を形作るときには既に、そのエネルギーは条件を得て結果を出していきます。
肉体を得る、という条件が整った時点で、そのエネルギーの種類にふさわしい結果が出ます。
俗世間の価値観で「美しい・醜い」といったことや、長身・短身など。どんな肉体になるかということは、そのエネルギー「業」の結果であるという見解です。
あるいはどのような性格というような、もって生まれた内面的なこと。それも、それまでに紡いできた業の結果であるという見解です。

つまり、もって生まれたものは業の結果だということです。無始なる過去から続いてきたエネルギー、そのときそのときに為した行いによって得た様々な種類のエネルギーの出す結果です。どのような因果か、ひとつの肉体ぶんの時間しか経験できないこの脳みそでは理解できないであろうという、そういう見解です。

ですから、いまがどのようであっても仕方がないということになります。

受け入れることしかできません。

そんなの冗談じゃない、という意見もあると思います。これはあくまでも、ひとつの見解です。

この見解においては、いまここから
「さてそれで、これからどうするか」
しかできません。

それまでの業のエネルギーによって、いまの状態があります。
自分の肉体以外で起こる様々な出来事は、自分の肉体を生かしめている生命エネルギー、業だけでなく、その起こる出来事に関係する、その他の様々な生命の業、生命エネルギーの結果も絡んでくるでしょう。

その出来事からどういうことを感じるか、どう反応するかは、その生命の業に基づいた結果ということになります。


それで、熱エネルギーの喩えをしたように、そこに「冷エネルギー」が組み合わさると、過去から続いてきた熱エネルギーの結果は変わります。

業のエネルギーそのものは変えることはできませんが、そこに他種の業エネルギーを組み合わせ、混ぜることによって、その結果を結実する条件が変わってきます。

ですから、仮に「悪業」と呼びたくなるエネルギーにまみれた生を受け、生まれてこのかた本当にひどいと感じる人生であったとして、

その人生はそれまでの業の結実、生命エネルギーの為した結果なのであって、

それを受けてまた悪業エネルギーを貯めるのか、そうしないのかによって「今後」が変わります。

まだ結実していない、結果を出していない業エネルギーがあるわけです。生きているということは、なんらかの業エネルギーがあるという見解です。未結実の業エネルギーが、結果を出せる条件が整うまで、永遠と言ってしまいたくなるほど長いときを待っているのです。

望ましいとは言えない生まれであったとして、それを不満に生きれば、その不満がまたそういう種類の業エネルギーになります。それがまた未来において結実していきます。

いまというのは過去の業エネルギーの結果ですからどうにもなりません。
しかし「いまから」は新たな業エネルギーの産出の時間なのです。そういう見解に基づく記事です。


けれども難しいことです。
望ましいとは言えない生まれがあって、いっさい不満をもたずにいられるでしょうか。
しかしそれでは、また新たに悪業エネルギーを生じていくことになります。


だから、鍛えなくてはなりません。

如理に観察して、如理にみて、如理に理解し、道理を如理に知るならば、いずれは、望ましいとは言えない結果に結実するような業エネルギーを生じるような行いはできなくなることでしょう。不可能になるでしょう。そのような行いをしようという意思が起こらなくなるでしょう。


悪とは、ある行いを為す生命が、その為した行いの結果に対して望まない感情を生じるような、その行いのことでありましょう。実行せずこころに抱いた行いも、行いに変わりません。

その為した行いは「因」、結実する結果は「果」

その因果の法則は、ひとつの肉体の寿命分しか勉強する時間がない我々には到底理解できないように思います。

その果は、例えばアトピー性皮膚炎をもつ肉体が、かゆい場所をかいて快感を得るところではありません。
かいて快感を得たけれど、そのあとでさらに皮膚が荒れてボロボロになる、そこまで見通さなければなりません。

その果は、覚醒剤を使用して空前絶後の快楽を得るところではありません。
その快楽が失せて、中毒症状、依存症になってボロボロになっていく、そこまで見通さなければなりません。

このひとつの肉体分しか時間のない我々に、ある行いの因果がどこまで見通せるでしょうか。

悪因善果が成り立つ道理があると考えるなら、なんでもありかもしれません。

善因悪果が成り立つ道理があると考えるなら、怠らず不放逸に勤め励む理由がないと思うかもしれません。

この肉体において善因を為しても、この肉体以前に為した悪因と混ざって、悪果を結実するかもしれません。

この肉体において悪因をなしても、この肉体以前に為した善因と混ざって、善果を結実するかもしれません。

無始なる過去から延々と、為されたあらゆる行いのエネルギーを貯めては果を結実してまた生み出して、そうやって続いてきた生命エネルギーが業です。延々と、というのは、数百年、数千年、数億年どころか、宇宙がひとつ生じて滅するまでの時間、それがいくつも、宇宙が何回も生じて滅する時間とも言われます。

その計り知れないエネルギーのなかで、この肉体で為した行いがどれほどの効力をもつのか、さっぱり分かりません。この肉体で大変な善行を為しても業に対してはたいした意味がないかもしれません。
この肉体で殺生しても、業にたいした違いは生じないかもしれません。

誰かににっこり微笑む行い、優しい言葉をかける行い、明るく挨拶する行い。そうした積み重ねの人生が、どれほどの業エネルギーを生むことでしょうか。

どうであっても、この見解においては、なんらかの業エネルギーが紡がれてしまうものなのです。
微々たるものであっても。
無始なる過去のとき、微々たるものであったある種のエネルギーが積み重なって、いまのこの肉体での状況があるわけです。

たいした違いのない微々たるものであっても、すべての業エネルギーはなんらかの果を結実するのです。結実のタイミングに当たった肉体にとっては大変な一身上の一大事となる場合もあることでしょう。

そして、そんなご大層に考えなくても、この肉体で為したちょっとした善行が善果を生じない道理もないでしょう。

この肉体で悪行を為せば、やはり少なからず悪果が結実していくのではないですかね。

そして、悪果がないなら悪行してよいとか、善果がないなら善行をしないとか、そんな話はあまりに未熟でくだらないのです。


わがままでなく、あるがままに、如理に。
そのように、感じるすべての事象を観察していけば、智慧があらわれる。道理が分かってくる。
そのような教えに帰依する生命が、その見解について長々と記しました。

長い拙文を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

補足としてさらに2つ記事を書きましたので興味のある方はお読みいただければと思います。



生きとし生けるものがしあわせでありますように



 

生命エネルギーに関する見解①

2022-11-22 20:56:53 | 日記
これから書くことは、ひとつの見解です。
証拠を示すことのできない、ひとつの見解です。

そのような見解であり、私なりのその解釈ですが、言葉にして記すことに大変な困難を感じながら書きました。

様々な学問が関わる喩えを用いましたが、それぞれの学問についてたいした知識を有していませんので、一定以上の知識を有する方からすれば間違いだらけの表現が目につくかもしれません。何卒ご容赦いただければと思います。

とても長い記事になってしまいました。
結局、4回に分けることになりました。それでも長文になってしまいました。




この記事を記している生命、お読みの生命。
その他のあらゆる生命。それらすべての生命は、ある種の「エネルギー」と言えるでしょう。
そのエネルギーがなければ、生命として生き得ない、そのようなエネルギーです。

その生命エネルギーとはなんでありましょうか。
なぜ、ただの物質の寄せ集めであるこの肉体は、感覚器官をもち、そこで感じることができ、感情をもち、思考することができるのでしょうか。
なぜ心臓が形作られ、鼓動するのでしょう。

ある人間がいるとします。
その人間を生かしめている生命エネルギーは、その人間の肉体が受精卵としてはじまったその瞬間から生じたエネルギーでしょうか。

そうではないという見解です。
そのエネルギーは、無始なる過去からずっとエネルギーとして、エネルギーを生み出しながら存在し続けてきたものである、という見解です。

そのエネルギーとは、意思のエネルギーと表現することもできるという見解です。
いま現在の日本語で「善感情」「悪感情」などと仕分けするような、意思のエネルギーです。
怒り、喜び、恨み、悲しみ、欲望…そのようにラベリングされた、意思のエネルギー。

エネルギーをもったものは、条件がそろって整えば、なんらかの結果を出します。

熱エネルギーが発火にじゅうぶんなものとなり、そこに可燃物が近付けば「燃える」という結果を生じます。

走行中の車のような動的エネルギーをもつものに、なんらかの物体が当たれば「破壊」という結果を生じます。

熱エネルギーがあっても、可燃物が近くにあるという条件が整わなければ「燃える」という結果は出ません。しかし、熱エネルギーが滅する条件が存在しなければ、その熱エネルギーは存在し続け、いつか可燃物という条件が整うまで存在し、その条件が整って燃えるという結果を出すまで存在します。

しかし、そこに「冷たい空気」というエネルギーが加わるとします。その混合によって、熱エネルギーは中和され、「燃える」という結果は生じなくなるかもしれません。
しかし、冷エネルギーのちからが弱ければ、燃えはしなくとも、触れたら火傷させるという結果は生じるかもしれません。

走行中の車のもつ動的エネルギーは、燃料がなくなるという条件のもとでは失われ、その結果「破壊」という結果は生じなくなるでしょう。


これらの喩え話からなにを説明しようとしているかというと、業と呼ばれるものについての見解、それについてです。

「業」と呼ばれるものがあります。

それはすなわち、その生命を生かしめているエネルギーのこと、それそのものであろうという見解です。

あまりに長くなりますので、記事を分けることにします。

続きは



生きとし生けるものがしあわせでありますように