しあわせについて、ふたつのものを感じます。
ひとつは、自分がしあわせになりたいというしあわせ。
もうひとつは、いっさいの生きとし生けるもののしあわせを願うしあわせ。
行き着くところは同じだと思うのですが、未熟なうちは別物であるように思います。
自分がしあわせになりたいと思う人のなかには、自分のしあわせと他の生命のしあわせは関係ないと考える人もいると思います。
でも、そういう人でも、自分が本当にしあわせを感じたら、他の生命のしあわせを願うようになってしまうのではないでしょうか?
「ああ、私はしあわせだなあ」としみじみ感じながら、相変わらず他の生命の幸福に無頓着でいることができるものでしょうか。もしそうであるなら、それは本当に満たされたしあわせなのでしょうか。
仮に目の前に理不尽で嫌な上司がいるとして、その上司が本当に幸福になっても相変わらず理不尽で嫌な人間でいられるものでしょうか。
この上司が幸福になるなんて冗談じゃない、私が被害者なままじゃないか…なんて思ってしまうかもしれませんが、そんなことがあり得るでしょうか。
その上司は、しあわせになった瞬間ものすごく優しい上司になってしまうのではないでしょうか。
ちょっと想像できますでしょうか。
目の前の、もしくはすぐに思い浮かべることができる、あの不快な生命。
その生命がめちゃくちゃしあわせを感じる様を想像したらどうでしょうか。
俗世間のしあわせではないですよ。ありとあらゆる生命の幸福を願わずにいられない、本当に満たされたしあわせを感じているのです。
だから不快に感じているあなたの幸福をも全力で願っているのです。
ストーカーみたいな人も、満たされるからそうでなくなります。
そう思えたら、あなたもしあわせな気分になりませんでしょうか。
少なくとも、その不快な存在を無視しようとしたり、その不幸を願ってしまうよりは全然良いのではありませんか?
本当の幸福というものがあるとするなら、それはいっさいの他の生命の幸福を願うことができる状態と言って良いのかもしれません。
そうなってくると、幸福というのは全生命のネットワークで成り立っていると言えるかもしれません。
すべての生命が幸福であってはじめて、各個人の幸福も成り立つということです。
で、残念ながらそれは不可能なのだと思うのです。
全人類が、どこかで誰かと知り合ったり袖触り合って関わって生きているでしょうから、このネットワークから外れる人間はいないように思います。
どこかでちょっと悩んだり苦しんだりして幸福とはいえない状態の他の生命がいたら、それに関わる人もやっぱりちょっと、なんだかこころの底から真の幸福とは言えないのではないでしょうか。完璧に満たされた状態にはなれない。
だから、本当の真の幸福というのは実際のところは手に入らないように思うのです。
で、そうなったら、どうせ不可能なら他の生命の幸福なんてどうでもいいや、と自分だけの幸福を追い求めたくなったりするかもしれません。そっちは実現可能だ、と。
果たしてそうなのでしょうか??
いまの僕には明確なこたえも、その根拠も示せません。
でも「他の生命の幸福は知らないけど、自分はしあわせになりたい」ということは成り立たないように感じられてなりません。
他の生命を思いやることは、本当のしあわせの必須要件であると思うのです。
そんなの知らないよ、と目の前の実現可能な満足感、幸福感を手に入れていく生き方が不幸なのではありません。
目の前の満足感、幸福感をどんどん手に入れて、手に入れて、どんどんしあわせになっていったら、やっぱり他の生命にもしあわせになって欲しいと思い始めるのではないでしょうか。
そのうちどこかで満たされて、自分の目の前の満足感や幸福感よりも、生命全体の幸福ネットワークのようなものの方が気になってくるんじゃないかなあ…なんてことも想像してしまいます。