Seize the day.

May the Force be with us all.

その六百三 「自分」という幻想

2022-03-29 00:33:00 | 日記
このブログを書き始めた初期の頃は、

自分のなかにある「エゴ」がいかに肝心の自分の人生を良くない方向へ導いているかについてよく考察していました。

エゴを否定することはありませんが、僕にとってもはやエゴはまともに相手をする存在ではありません。


「自我」という言葉もありますね。

エゴ=自我と表現する人もいる一方で、僕は自我という言葉はエゴとは違う意味合いで認識しています。
自我の確立、なんて言い方もあるぐらいで、自我はある時期、生きていくうえで重要な役割を持つこともあると思うのです。
つまり、そんなとき、自我は大切なものなのだと思います。

いまの僕にとっては「自我」も、エゴとは異なるにせよ、もう用を成さない気がしています。


そしてスマナサーラ氏が語る動画を見ているなかで、
「自分」という概念すら考え直すモチベーションを持っています。

自分というものは、僕が感じるあらゆる感覚を認識する主体をあらわすという意味しかないものであって、

ただそれだけのものである、ということ。

自分はこういう人間である、とか
自分の考え、とか
自分の意見、とか

そうしたものはすべて幻想である、と。

「自分」という幻想。

すべて瞬間のなかで変化しとどまることがないのものを、わざわざ意識で固定化して「自分」という認識をつくる。

それをやめれば、なんということもないことだらけ…ということは、なんとなく理解できる。

いままで「自分」と認識していたものは幻で、
ただの感じる主体である…

そんなことに興味をもっています。
 

その六百二 ため息も大事

2022-03-26 07:19:00 | 日記
少し前に、呼吸によろこびを感じることを記事にしました。新たな酸素を運んでくる「呼吸」は、いのちのよろこびであろう、と。
それはいまでも感じますが、気のせいでもあるかもしれませんね。新たに酸素が入ってくる細胞のよろこびを感じるなら、滅していく細胞がなにを感じるのかも感じられるはずです。それは哀しみかもしれないのです。

しかし、ちょっと前に記事にしたように、いのち尽きるとき最後には結局すべてが愛おしく感謝でおわるとするなら、滅してゆく細胞も愛と感謝とラベリングされるもので包まれているのかもしれません。

そうだとすると僕の全身の細胞は愛と感謝と喜びに満ちていることになりますね。

まあ、目に見える真実は分かりませんから、その程度でとどめておこうと思います。なんとなく、全身の細胞が愛と感謝と喜びで満たされていると感じられるなら、それは結構なことです。



ここ数日で感じていることに、思ったより力が入ってしまうことが多いということがあります。
呼吸しかり。

吸うときに横隔膜が収縮して、吐くときに弛緩するわけですが、
弛緩しきれていないことが多い。つまりいつもちょっと、横隔膜が筋収縮したままになっている。

それに気付いて横隔膜を緩ませきる、つまり横隔膜の完全な弛緩によって息を吐き切ることをすると、
他にもあちこち「リキミ」があることを自覚する。僧帽筋や上腕二頭筋が意図せず少し筋収縮してたり、意外と全身のリラックスというのは難しいと感じます。
寝転がってリラックスしてスマホ見てるつもりでも、意外と頸に力が入ってることが多いです。

横隔膜が弛緩した結果、息を吐き切ることができるのであって、
横隔膜が緊張したまま息を吐き切ろうとするとむしろお腹を固めてしまうかもしれません。


無意識に大きなため息をつくのも活元運動の一種なのかもしれないですね。
無意識の大きなため息は、横隔膜を弛緩させているであろう、と。

嫌なことがあって横隔膜が緊張しっ放しなのを、なんとか緩ませようという身体の要求がため息なのかもしれません。
となると、ため息はとても大切な行為だということです。あーあ、ため息ついちゃった…なんて思うことはない。

お腹からして緊張しっ放しだなと思ったら、めいっぱい横隔膜をゆるませるつもりで息を吐く。
大きく、とか、長く、とか思わないで、ただ横隔膜がゆるんだ結果のぶんだけ息を吐く。


いまを生きる、ということは、ひとつひとつの呼吸をしっかりするということ。

しっかり吐き切ることができずに他ごとに意識を持っていかれてしまうことばかりなのが人間ですが、やっぱり横隔膜も収縮したらちゃんと弛緩させたいものです。
 
 

その六百一 円のなかにいる

2022-03-20 21:19:00 | 日記
ヴェシカバイシスという言葉を初めて知りました。

術技の稽古のなかで知ったのですが、こういうのです
ふたつの円の外周が、お互いの中心を通っている。
これがたくさん連なったものが「フラワーオブライフ」というものだそうです。
これらが本質的にどういうものかはともかく僕の稽古において、

武術や格闘技の世界で「円」という概念や言葉はよく出てきます。

今回、この、円ふたつがお互いにそれぞれ外周が相手の中心を通っている…というイメージは僕のなにかを変えつつあります。

いくら円をイメージしようとしてもどうしても自分の手足が動く範囲についてイメージしてしまっていました。つまり、前方寄りです。なにしろ戦う相手に対しての手足の動きですから。
するとその円の中心は自分の体軸上ではなく、前方の仮想重心の方になります。相手と自分の真ん中へんですかね。このとき、その円の外周は僕と相手の体軸の真ん中を通ってます。
言葉で伝えるのは大変ですね

ヴェシカバイシスのイメージを持つにはそもそも、自分の円は、その中心が自分の真ん中、それこそいわゆる丹田にある円がイメージできなくてはならない。
今回僕は、ヴェシカバイシスのイメージから逆に、初めて自分のそういう円をイメージできてる気がしています。これだけでもずいぶん動作感覚が変わります。柔らかく、なにに障ることもない感覚。まあるい。

そして、人混みを歩いていてヴェシカバイシスをイメージしたとき、なんともいえない感覚がありました。
周囲にいる人と自分が、別々の異物として外周がぶつかったり当たったりしているのでなく、

どこの誰とも知らないその相手と、すでにお互い中心を取り合っている感覚。関わり合っています。

この感覚を、突き蹴り、組み合うときに持てたらどうなるか

そもそも仕事などの社会的な人との関わりにおいても

それ以前に家族との関係でも

目の前のこの相手と、お互いの円の外周がそれぞれ中心を通り合っている…

面白そうです。
 
とりあえずようやく下腹というか丹田というか肚というか、それを中心にした自分の円というものがなんとなくイメージできた。自分は円のなかにいる、という感じ。

つまり球ですね。
球理に至れるだろうか。
 

その六百 球理と慈悲

2022-03-16 16:02:18 | 日記
スマナサーラ長老が慈悲の瞑想についてお話しされている動画で、東西南北上下の全方向に向けて、その方向にいる生命の幸福を願う瞑想をしていると、自分という認識がなくなっていく、ということを仰っていました。

術技の稽古で、球理という言葉があります。お腹を中心に球である感覚。
その球は、自分という肉体だけの感覚ではなく、自分が居るその空間全体に及び、相対する相手もその球のなかであるという感覚らしいです。
「らしい」と書いたのは、僕は全然それを感覚として掴めていないからなのですが(泣)

その球理を追い求める先生方の言葉のなかで、拡がりというものがあります。
己の肉体を中心として、空、前方、後方、左右、そして地面。
つまり慈悲の瞑想でいう東西南北上下。
そのすべてをうまく認識できると、バランスがとれる。
大抵の人は誰かと向かい合ったときに「相手がいる方向」「前方」に意識が偏る。
この時点でバランスを失い、相手や前方のなにかに依存してバランスをとることになる。
そこそこ稽古しても、せいぜい視界に入る範囲の方向しか意識できない。
だいぶ稽古しても、聴覚でとらえる周囲の音、そのもとである方向への意識ぐらいで、それだって相手との接触によってすぐ消し飛んでしまう。

東西南北上下をバランスよく意識すると、自分の肉体という重みがなくなって「浮」の感覚になる。

ふむふむ。つながりというか同一性を感じます。仏教と術技の。

スマナサーラ長老が仰っていたのが、
東西南北上下どれかの方向に、ずーーっと、その方向にいる生命の幸福を…と拡げていくと、どこかでその意識が追いつかなくなる。つまりその方向への意識がどこかで限界を迎える。そのとき、自分の自我も認識できなくなっている、と、そんなことを仰っていた。


言葉には限界があってお伝えするのは本当に難しいですが

空がきれい、とか
夜空が美しい、とか
そういうとき、自分という認識はありませんよね。本当は「私はいま私が見ている空がきれいと感じている」「私はいま私が見ている夜空が美しいと感じている」なのですが、そんな認識すらないでしょう。ただ空がきれいであり夜空が美しいのです。
つまりその瞬間は「滅私」なのです。

自我があるとロクなことになりませんね(笑)
東西南北上下、すべての方向にある生きとし生けるものが幸せでありますように…と、そう想いながら全方向にバランスをとれたら、術技的にも身体が整うかもしれんな…と、やや慈悲としては邪かもしれませんが、そんなことを考えました。

いまこれを書いていて、もうスマホの画面方向にめちゃくちゃバランスは偏っています。
それをお腹のなかにいったん戻して、スマホの画面を見て文章を考えているなかで偏りなくバランスをとる…というのですらなかなか難しいものです。

そして、そんなこと考えていても、暖かくて日差しが気持ちいいな…となればずいぶんバランスは取れます。
だって、暖かいのも日差しが気持ちいいのも、そこに「我」の意識がないから。
でもそこに「この気持ちいい環境がずっと欲しい」とか「夜にはまた気温が下がって暗くなる」となるのは、「我」の我欲によって起きた感情。


と、アレコレ思考がとっ散らかっているのは、自我を中心とした散漫であって、

自我がなくなっていく方向の全方位集中とは違うんだろうと思います。