スマナサーラ長老が慈悲の瞑想についてお話しされている動画で、東西南北上下の全方向に向けて、その方向にいる生命の幸福を願う瞑想をしていると、自分という認識がなくなっていく、ということを仰っていました。
術技の稽古で、球理という言葉があります。お腹を中心に球である感覚。
その球は、自分という肉体だけの感覚ではなく、自分が居るその空間全体に及び、相対する相手もその球のなかであるという感覚らしいです。
「らしい」と書いたのは、僕は全然それを感覚として掴めていないからなのですが(泣)
その球理を追い求める先生方の言葉のなかで、拡がりというものがあります。
己の肉体を中心として、空、前方、後方、左右、そして地面。
つまり慈悲の瞑想でいう東西南北上下。
そのすべてをうまく認識できると、バランスがとれる。
大抵の人は誰かと向かい合ったときに「相手がいる方向」「前方」に意識が偏る。
この時点でバランスを失い、相手や前方のなにかに依存してバランスをとることになる。
そこそこ稽古しても、せいぜい視界に入る範囲の方向しか意識できない。
だいぶ稽古しても、聴覚でとらえる周囲の音、そのもとである方向への意識ぐらいで、それだって相手との接触によってすぐ消し飛んでしまう。
東西南北上下をバランスよく意識すると、自分の肉体という重みがなくなって「浮」の感覚になる。
ふむふむ。つながりというか同一性を感じます。仏教と術技の。
スマナサーラ長老が仰っていたのが、
東西南北上下どれかの方向に、ずーーっと、その方向にいる生命の幸福を…と拡げていくと、どこかでその意識が追いつかなくなる。つまりその方向への意識がどこかで限界を迎える。そのとき、自分の自我も認識できなくなっている、と、そんなことを仰っていた。
言葉には限界があってお伝えするのは本当に難しいですが
空がきれい、とか
夜空が美しい、とか
そういうとき、自分という認識はありませんよね。本当は「私はいま私が見ている空がきれいと感じている」「私はいま私が見ている夜空が美しいと感じている」なのですが、そんな認識すらないでしょう。ただ空がきれいであり夜空が美しいのです。
つまりその瞬間は「滅私」なのです。
自我があるとロクなことになりませんね(笑)
東西南北上下、すべての方向にある生きとし生けるものが幸せでありますように…と、そう想いながら全方向にバランスをとれたら、術技的にも身体が整うかもしれんな…と、やや慈悲としては邪かもしれませんが、そんなことを考えました。
いまこれを書いていて、もうスマホの画面方向にめちゃくちゃバランスは偏っています。
それをお腹のなかにいったん戻して、スマホの画面を見て文章を考えているなかで偏りなくバランスをとる…というのですらなかなか難しいものです。
そして、そんなこと考えていても、暖かくて日差しが気持ちいいな…となればずいぶんバランスは取れます。
だって、暖かいのも日差しが気持ちいいのも、そこに「我」の意識がないから。
でもそこに「この気持ちいい環境がずっと欲しい」とか「夜にはまた気温が下がって暗くなる」となるのは、「我」の我欲によって起きた感情。
と、アレコレ思考がとっ散らかっているのは、自我を中心とした散漫であって、
自我がなくなっていく方向の全方位集中とは違うんだろうと思います。