Seize the day.

May the Force be with us all.

その五百九十二 エネルギー源

2022-02-23 15:53:00 | 日記
志を抱いてある仕事に就いたときに、自分の生きる指針を書き記していた。

「ひとにエネルギーを与えられるような人間になりたい」

なんだ、もうとっくにそういう思想を持ってたんだ。


ここ数年、自分、自分。
自分の幸せ。
自分の救い。
自分の癒し。
自分、自分。

自分ガー 俺ガー 僕ガー 私ガー

ガーガーやかましい。
ガに「我」でも当てはめたくなる。
自分我ー 俺我ー 私我ー…笑

でも、ひとにエネルギーを与えられる人間になりたいって言ったって、
それも「僕ガー」なんですよね。
僕がそういう人間でいたい。
僕がひとのエネルギーになりたい。
どこまでも自分、自分。

自分が幸せを感じたいのは自然なことだけど、
幸せになってどうするんだ?
幸せに取り憑かれた魔物みたいにならないように気を付けないと。

ひとにエネルギーを与えられる人間になるために、まず自分が幸せを感じる必要がある。
そういうことなら、ひとのエネルギーに気を配れるようになったら自分の幸福感はじゅうぶんなのだ。

自分がじゅうぶんに幸せなら、まわりのエネルギー源になれるような存在を志向する。
それも生き方のひとつだと思います。
 

その五百九十一 自他なく

2022-02-19 08:52:00 | 日記
いまこの瞬間、呼吸できているというだけでじゅうぶん。いのちのよろこびを感じて、生命の不思議に満たされる。

それに加えて食事ができて、ましてそれが美味くて。眠ることができて、しかも快適に。気持ちよく排泄もできて。

これらで感じる充足感、満足感、多幸感。
本当にもうじゅうぶん。
自分のために他になにが必要だろうか。
自分のことは本当、もういいと思います。

あとは「他」ですね。利他とか慈悲とか回向とか随喜とか。そんな言葉で表現されるところで生きる。

もっとも、どこまでも渇愛を求める「我」自我、エゴ、スーパーエゴ…色んな言い方がありますが、それらですらもはや「自分」ではない感じです。
自分というものはない。
どれも自分ではない。
我も自我もエゴも目に写る他人もみんな自分ではない。
そうしたものたちのために行動する。
人間でなくても、動物、植物…生命体でなく物質であっても。
そうやって行動して生きることが喜びになる。
で、結局そのよろこびを感じてるのを「自分」と呼ぶしかない。
つまり、どんなに自分以外のために生きても、さいごに喜ぶのは自分。

自己犠牲は違いますよ。それは間違いです。
自他の区別があるから自己犠牲なんです。
自他なく行動する。

どんなに自分のことはもういい、じゅうぶんだと行動しても、本質的には自分がいちばんなのだと思います。
だから、自他なく行動したってどうしても自分最優先になってるはずです。

だから自分のことはどうでもいいんです。

だって呼吸して食事して排泄して眠れればもうじゅうぶんなんですもの。
あとは自他なく、利他です。
で結局それが巡り巡って自分の喜びになる。
自分の喜びはどうでもいいのに、感じてはしまう。
だからその喜びもどうでもいい。
 


その五百九十 呼吸はよろこび

2022-02-18 21:12:00 | 日記
本当は呼吸は無上のよろこびなのだと思います。

何度か書いてきたように、生きるというのは
「いのち」のはたらきです。
心臓が拍動するから生きるのではない。
呼吸するから生きるのでもない。
食べるから生きるのでもない。
まず「いのち」があって、そのいのちの要求にしたがって心臓ができ、肺ができ、脳みそができ、思考が生まれる。順番が逆なのです。受精卵には心臓も肺も脳もない。

いのちが尽きるから死ぬのです。
いのちが尽きるから、心臓も肺も胃腸も機能を停止するわけです。

このブログを書く僕の脳みそも、いのちによって生かされているに過ぎません。

そんないのちの働きが、
僕という生命体そのものです。
いのちは生きるしか選択肢がない。生きたいという意思があるかどうかもあやしいものです。
そんないのちにとって、酸素が入ってくる「呼吸」は無上のよろこびであろうと思います。
もっとも、生きたい意思と同じく「よろこび」というものを感じるのかは分かりませんが「快」はあるでしょう。少なくとも「不快」なわけはないと思います。

本来はそれでじゅうぶんなのだと思います。
いのちが生きるよろこび。
他になにが必要でしょうか。
いのちはただ生きるだけです。そんないのちに生かされているのが、これを書いている僕です。

一呼吸ごとに無上のよろこびを感じられないとしたら、アタマが働き過ぎなんだと思います。
呼吸する。空気が入る。それがよろこびでなくてなんであろうか。

なんて、昔の僕の記事を読んだことがある方は「どの口が言うんだよ…」と呆れられるかもしれません。
でもいまは本当にそう感じます。
無常なのですよ。人は変わるのです。
 

その五百八十九 Seize the day.

2022-02-18 10:41:00 | 日記
ブログのタイトルなどを変更してみました。特に理由はないんですがなんとなく横文字がオシャレかな、と(笑)


「Seize the day」
要するに「いまを生きる」という意味だそうです。

結局は誰もがそれしかできないと思います。呼吸して体を動かすことしかできない。逆に言えば、誰でもそれはできます。

いまこの瞬間は、誰もがめちゃくちゃ自由です。意識すら置けないこの一瞬という瞬間。自由も不自由も幸不幸も感じる暇のない、その瞬間瞬間の積み重ねが、意識できる時間となり、人生となっていくだけです。

先日のWさんの言葉を借りれば、問題のない人生というのは「快食・快眠・快便」ということでしょう。
そして、人生に成功というものがあるなら、それは「毎日楽しいこと」だと思います。

いまこの瞬間、誰もがたいしたことはできません。立ったり座ったり、食べたり寝たり…せいぜいそれぐらいじゃないでしょうか。細々と指先を動かす毎瞬の積み重ねがこのブログの文章です。
誰もができることを積み重ねる。その瞬間の積み重ねが人生です。
それだけのことなら、できるだけ楽しくやりたいと僕は思います。



その五百八十八 甘酸っぱい

2022-02-14 21:24:00 | 日記
バレンタインデーですね。毎年この日は大変なのです。なるべく大きめのカバンで出勤しますがいつも帰りはチョコレートでパンパンになってしまいます。

嘘です。かつて一度もそんなことはありませんでした(泣)なんなんですかね、バレンタインデー、って。特に子供の頃は、モテと非モテが浮き彫りになるだけの残酷な一日に過ぎませんでしたね。
昔、仲の良い男友達と歩いてたら、僕が好きな女の子がはにかんだ真っ赤な顔をして近付いてきました。手には紙袋。まさか…!

みなさまの予想通りです。
僕には一瞥もくれずに、一緒にいた友達に渡すと全力で走り去っていきました。
僕の友情も走り去りましたね(笑)冗談です。別に彼との友情に影響はありませんでした。

そんなバレンタインデーですが、忘れられない思い出があります。
小学生だったか中学生だったか…休み時間が終わって教室に戻り、次の授業の準備…と机のなかに手を入れると、なんとプレゼント包装された箱が!
マジかよ…一体誰??イタズラかもしれませんからね、下手なリアクションはできません。その日は家に帰るまでうわの空でした(笑)

家に帰って開けてみましたが、チョコレートのパッケージがきれいに包装されていただけだったんです。送り主はいまでも不明なままです。アレはなんだったんでしょうか。
シャイな女の子がこっそり…なんて考えてしまいますが、
そんなシャイな子が、どこで誰に見られるか分からない教室のなかでわざわざプレゼント包装されたものを僕の机まで運べるわけないんですよね。けっこう大きめでしたし。
しかしイタズラにしてはちゃんとした美味しいチョコレートだったし、種明かしも何もないドッキリなんて面白くもなんともないですよね。
うーん。もう何十年も、この謎は頭を離れません。男はアホですね。笑
離婚の傷を忘れることは一生ないと思いますが、机のなかにバレンタインチョコレートを発見したときのあのドキドキを忘れることも一生ないと思います。過去の思い出なんてそんなもんです。

それにしても送り主はいったい誰だったのだろうか…お返しも一生できないままでしょうね。甘酸っぱい思い出です。いまでも思い出すとドキドキしてしまいます。笑