Seize the day.

May the Force be with us all.

その五百八十四 いいかげんでてきとうな

2022-01-29 21:52:00 | 日記
色々と事件も起きますね…

なんというか、やっぱり、

煮詰まるようなのは良くないんでしょうね

真面目は良くない…いや、真面目も大事ですね。真面目すぎると良くない。
突き詰めすぎも良くない。

真面目で突き詰めるのが好きなとこがある人は、すぎやすい気がします。

いいかげんに、てきとうに。節操なく。
そんなテイストを加えてあげないと、どんどん突き詰めて、思い込んで、煮詰まって、
事件でも起こしてしまうようなところまでいってしまう。

僕もちょっと気を付けないといけないです。

真面目に突き詰めるとこがあるもんだから、

いいかげんに…テキトーに…となると、

いいかげんとはなんぞや

テキトーとはなんぞや

どの程度が"良い加減"なのか
どのぐらいが"適当"なのか

突き詰めだす。

ぜんぜん、いいかげんにもテキトーにもなれない。

放っておけばいいって言われても、

放っておくとは?
どうやって放っておくのが正しい?
なんて。

いいかげん、ってのは
いい加減、であって、野放図とは違うだろ?どの程度の加減を「いい」っていうんだ?

テキトーってのは
適当、であって、つまりちょうどいいってことでしょ?テキトーにしてたらちょうど良くならないでしょ。

…そんなふうに、真面目に突き詰めようとする

そして、真面目に突き詰めようとすると、際限がなくて、どっかで煮詰まりだす。

そうすると怒りが湧いてくるように思う。
真面目なもんだから、明快に正解に辿り着かないと納得できない。
その怒りをどうする?

そうやって起こる事件もあるんじゃなかろうか。

それこそ、いい加減に、適当に生きてたら、だんだん生きるのがラクになるのが当たり前でしょう。
長く生きてるのに若いときと苦悩が相変わらずだったり、受け入れられないことが増えたりするんだったら、
なんか加減を間違ってると思った方がいい。なにかが適当じゃない。

長く生きてきたら、

どんどんラクになって、どんどん色んなことを放っておけるようになって、
受け入れられないことが減ってきて、
比較することがなくなってきて、

そして慈しみのこころがどんどん浸透してくる…

それが、いいかげんでてきとうな、
妥当な生き方なんじゃなかろうか。
 

その五百八十三 まさにいま

2022-01-28 11:53:00 | 日記
高校生のときに漢文の先生がくれた写真です。なんとも強烈なジジイですよね(笑)
でも、僕はなんか癒やされるのです。


どんな老人になりたいか、最近たまに考えます。
ただただ穏やかで、いつも微笑みを絶やさないような好好爺…気の良い、善意の塊みたいな。そんなイメージもありましたが、

本人はいたって平和でニコニコしてるようで、実はまわりは迷惑してる…みたいな場合もあるんですよね。世の中そう甘くはないもんです。

どんなおじいちゃんになりたいか、というのは、
実は、どんなおじいちゃんに見られたいか、ということなんじゃないだろうか。
つまり、人からどんな風に思われる人になりたいか。

それを抜きにして考えると、
別にどんなジジイになっても構わない気がしてきます。


本人はいつもニコニコ平和だけど、言動がすごい鈍感で無神経でまわりはいつもイライラしたりガッカリさせられている、なんて人。
そんな風にはなりたくはないです。

一方で、
以前あこがれていた知り合い達は、60、70代なのにとにかく元気、エネルギッシュで、若者と格闘技で汗を流し、しかも本当に強くてそこらの選手じゃ互角になってしまう。
スキルス胃ガンを含む複数回のガンを乗り越えた怪物ジジイもいる。
けれども最近気がついたことは、彼らは若者の如く相変わらずまわりとぶつかる。老境に達しながら、受け入れられていないことが多い。よく言えば、どうにもならないことと戦うエネルギーがある。
ああなりたいかと考えると、いまでは否、なのです。
どうにもならないことと戦うほどエネルギーが余っていることは素晴らしいと思います。ならば、そのエネルギーはもっとよいことに使いたい。


まわりからどう思われたいかを考えて紡ぐ人格はハリボテみたいなものかもしれません。
どんな老人になりたいか考えるのも悪いことではないでしょうが、
「いま」を紡いで生きる先に老境があるわけですから、なによりやるべきは「いま」に最善を紡ぐことなのだろうな…と、まさにいま記事を書いていて思いました。
 

その五百八十二 すぐ影響される

2022-01-24 09:22:00 | 日記
わりと影響を受けやすい方だと自認しています。
動画でスマナサーラ長老という方を知って、さっそく影響を受けています(笑)

とは言え、その影響というのは、あの人だったらどう考えるだろう…こんなときどう言うだろう…という推測に基づくものなのですけどね。

そんなわけで最近は、動画で見た感じの長老の口調で

いまが幸せ?苦しい?
まあ、どっちでもいいんじゃない?
どっちにしたって、そんなにこだわることでもないんですよ。
だってどちらにしたって一時的なことでしょ?永久に続くわけじゃないんです。
その幸せも苦悩もいつか消えてなくなっちゃうんだからね。

みたいな感じです。

なにもそんな深刻に悩まなくてもね…
いまの幸せだって、いつか消えちゃうんだからね。そんな浮かれちゃってもまたその先には苦しみがあるんだからね…

そんなことをあの笑顔で言いそうだなあと勝手に想像して楽しんでます。
 

その五百八十一 清濁併せ呑む

2022-01-20 01:28:00 | 日記
生きることは苦である
生きることは虚しい
生きることはしんどい

そう素直に認めていながら、
なんだか知らんけど満ち足りて
そこはかとなく楽しい気分があること

逆に言えば

満ち足りて幸せでありながら、同時に、

そのすべてを虚しいものとして否定してしまうようなところが私にはある。


あらゆるものを否定しながらも、
そこはかとなく充実していた心持ち。
それを久しぶりにここ最近感じております。

それは即ち、そこはかとなく充実していながら、
あらゆるものを否定する心持ちでもあるのです。

だからどうしても、私の言葉には時として毒が宿る。
しかしそれは同時に、
どんな毒のある言葉を用いてもそこに正反対の意味を宿すことができる、ということでもあるのでしょう。

否定は良くない、抑圧は良くない

それは確かにそうだと思うのですが、否定は良くないという想いは否定の抑圧であり、抑圧は良くないというのは抑圧の否定なのですよね。

なんというか、
一周まわってもうなにもかもどうでも良いと言えるかもしれません。
閉じてしまっても良い。抑圧も良い。否定も良い。
どうせ一時のことです。閉じればいつかは開き、否定も抑圧もいつまでもは続かない。

清濁併せ呑む、とでもいうか…

毒も栄養も血肉にする度量、といいますか。

そんなことも必要かと思います。

 

その五百八十 力を抜いて

2022-01-17 19:51:00 | 日記
ひとつ前の記事で書いた、

人生はどう頑張っても結局は虚しくて苦しくて、最後はぜんぶパーだと、
そして、
そんな人生を明るく楽しく生きるということ。

ぜんぶを否定して、かつ同時にぜんぶを肯定する。
ぜんぶを受け入れて、かつ同時にすべて否定する。

それがどんなイメージなのか、僕が思わず肩の力が抜けてしまうように腑に落ちた動画を貼ります。
とても長いのですが、この記事の内容に絡むのは35分あたりから58分までぐらいです。

48分あたりと52分あたりが僕的には最高でした。
もしかしたらお釈迦様ってけっこうふざけた感じの人だったんですかね?笑
スマナサーラ長老が楽しい感じで喋るから、そんな想像までしてしまいました。