少し前にも書きました、最善を紡ぐということ。
それはどういうことなのか、日々考えています。
自然な感情というのは大事なものです。
わけもなく湧き上がる様々な想い、感情は、まさにその人そのものです。
決してないがしろにしてはならないし、
目を背けてもよくない。
腹が立つ、人を憎む、敗北感に打ちひしがれる、
そんな望みもしない想いや感情…ものすごく大切だと思います。それこそがその人であります。
一方で、善い人生にとって良くないとされる感情、想い、人生態度、人生姿勢のようなものもあります。
「怒り」などはそうですよね、仏教では人生の猛毒だとされているようです。
かといって、抑圧はなによりも良くないと思うのです。
最善を紡ぐ、ということのためには、
やはり考えに考えた智慧が必要だと思います。
人生において時として怒りの感情が湧くのは自然なことだと思います。
抑圧はだめです。
でも人生の猛毒なのです。
どうしたらいいのか。
よくよく、考えるべきです。
怒りがあることを否定も抑圧もしてはよくない。抑圧や否定は最善ではない。
抑圧するよりは、発散した方が善い。
では、感情の発散は最善か。
以前、私はここ止まりでした。
人間は感情の生き物なのだ。感情は素直に出すべきだ。喜怒哀楽、感情豊かなのが一番だ、と。
もちろん、発散の仕方は節度が必須だとは思っていました。
湧き上がる怒りのままに行動したら大変なことになります。だから、健全な発散の仕方を…と、それが人生の修行のひとつだ、と思っていました。
腹が立ったことを、楽しい話のネタにして笑い話にしてしまおう、とかね。
さて、いま。
考えに考えて、思うのは、
たしかに人間は感情の生き物なのであって、そこに余計な思考をすると、色々とこじらせることがある。
だから感情を素直に出す、認める、というのはとても大切で尊いと思う。
生兵法は怪我のもと、というように、
中途半端な思考は拗れのもとかもしれない。
どこまでもどこまでも、果てしなく深く深く。
それこそ、愛と感謝のままに、内側世界に眼を開き…でもよい、とにかく、よーくよく考える。
怒りは湧く。
では、それを素直に出すことが本当に最善か?
否定も抑圧もしなくていい、
ああ、こういう出来事があっていま、私は怒っているな、と認める。
その怒りはもっともだな、と認める。
では、それを、分かってくれる人に話して言葉にして発散することは最善か。
独り言でも、口にすることは最善か。
表情に怒りを滲ませることは最善か。
歩き方や、物への触れ方に怒りをこめることは最善か。
怒りがあることを認めたうえで、
なかったかの如く気持ちのよい態度を表明することは「できない」のか「やらない」のか。
「できる」のに「やらない」のは、最善か。
自然な感情だから、どこかで表に出さないと…というのは、最善か。本当にそうか?
おのれのこころのなかだけで、処理できないのか。それは抑圧になってしまうか?
抑圧でなく、健全に、一切おもてに出すことなく内側だけで処理できないか?
そうやって、健全に内側だけで処理して、おもてには気持ちのよい態度だけでいることは、なにか抑圧があるか?本当にそうか?本当にできないか?本当にそれは抑圧か?抑圧でないかたちではできないか?
最善を紡ぐ、というのは、そういう思考の果てに選択するものだといまの私は思っている。
腹の立つ出来事がある。
なんだこのヤロー、と口にすることもできる、けど、それは最善か?
その先にある未来はなにか?
想いを発散する、感情豊かにいる、
それがまっとうで最善かのように私は思っていたが、
そうでもないといま思う。
その先にある未来はどんなものか、考えると、けっこうすぐ分かることもある。
やはり、気持ちのよい態度の先には、気持ちのよい未来がある。出来事は選べないが、感情のままにいることが必ずしも最善ではないな、と思う。
素直に発散することが最善ではないな、と。
抑圧でなく、否定でもなく。
そういうことができる。
私の場合は、これだけの経験をして、考えに考えないと、そこに至れなかった。
都度都度の最善とはなにか、
これからも考えていきたい。