Seize the day.

May the Force be with us all.

その五百四十八 最善を紡ぐ

2021-11-30 23:39:00 | 日記
少し前にも書きました、最善を紡ぐということ。

それはどういうことなのか、日々考えています。


自然な感情というのは大事なものです。
わけもなく湧き上がる様々な想い、感情は、まさにその人そのものです。
決してないがしろにしてはならないし、
目を背けてもよくない。

腹が立つ、人を憎む、敗北感に打ちひしがれる、
そんな望みもしない想いや感情…ものすごく大切だと思います。それこそがその人であります。

一方で、善い人生にとって良くないとされる感情、想い、人生態度、人生姿勢のようなものもあります。

「怒り」などはそうですよね、仏教では人生の猛毒だとされているようです。

かといって、抑圧はなによりも良くないと思うのです。



最善を紡ぐ、ということのためには、

やはり考えに考えた智慧が必要だと思います。

人生において時として怒りの感情が湧くのは自然なことだと思います。
抑圧はだめです。
でも人生の猛毒なのです。

どうしたらいいのか。

よくよく、考えるべきです。

怒りがあることを否定も抑圧もしてはよくない。抑圧や否定は最善ではない。
抑圧するよりは、発散した方が善い。

では、感情の発散は最善か。

以前、私はここ止まりでした。
人間は感情の生き物なのだ。感情は素直に出すべきだ。喜怒哀楽、感情豊かなのが一番だ、と。
もちろん、発散の仕方は節度が必須だとは思っていました。
湧き上がる怒りのままに行動したら大変なことになります。だから、健全な発散の仕方を…と、それが人生の修行のひとつだ、と思っていました。
腹が立ったことを、楽しい話のネタにして笑い話にしてしまおう、とかね。


さて、いま。


考えに考えて、思うのは、

たしかに人間は感情の生き物なのであって、そこに余計な思考をすると、色々とこじらせることがある。
だから感情を素直に出す、認める、というのはとても大切で尊いと思う。

生兵法は怪我のもと、というように、
中途半端な思考は拗れのもとかもしれない。

どこまでもどこまでも、果てしなく深く深く。
それこそ、愛と感謝のままに、内側世界に眼を開き…でもよい、とにかく、よーくよく考える。


怒りは湧く。
では、それを素直に出すことが本当に最善か?
否定も抑圧もしなくていい、
ああ、こういう出来事があっていま、私は怒っているな、と認める。
その怒りはもっともだな、と認める。

では、それを、分かってくれる人に話して言葉にして発散することは最善か。
独り言でも、口にすることは最善か。
表情に怒りを滲ませることは最善か。
歩き方や、物への触れ方に怒りをこめることは最善か。

怒りがあることを認めたうえで、

なかったかの如く気持ちのよい態度を表明することは「できない」のか「やらない」のか。

「できる」のに「やらない」のは、最善か。

自然な感情だから、どこかで表に出さないと…というのは、最善か。本当にそうか?

おのれのこころのなかだけで、処理できないのか。それは抑圧になってしまうか?
抑圧でなく、健全に、一切おもてに出すことなく内側だけで処理できないか?

そうやって、健全に内側だけで処理して、おもてには気持ちのよい態度だけでいることは、なにか抑圧があるか?本当にそうか?本当にできないか?本当にそれは抑圧か?抑圧でないかたちではできないか?



最善を紡ぐ、というのは、そういう思考の果てに選択するものだといまの私は思っている。


腹の立つ出来事がある。
なんだこのヤロー、と口にすることもできる、けど、それは最善か?
その先にある未来はなにか?


想いを発散する、感情豊かにいる、

それがまっとうで最善かのように私は思っていたが、

そうでもないといま思う。

その先にある未来はどんなものか、考えると、けっこうすぐ分かることもある。

やはり、気持ちのよい態度の先には、気持ちのよい未来がある。出来事は選べないが、感情のままにいることが必ずしも最善ではないな、と思う。
素直に発散することが最善ではないな、と。

抑圧でなく、否定でもなく。

そういうことができる。

私の場合は、これだけの経験をして、考えに考えないと、そこに至れなかった。

都度都度の最善とはなにか、

これからも考えていきたい。
 

その五百四十七 見捨てることはあり得ない

2021-11-30 13:52:00 | 日記
万物は流転し、諸行無常であって、

この「自分」というものもすべて一時的なものであり、

自分というものは無数にいる…


そういう人生モデルのなかで、どう生きていくのかはやはり自分で決めていくしかないと思う。
人によることなので、そんなこと決めなくても問題ないということもあるだろうと思う。
あくまで私の場合のことです。


ありとあらゆる人格を認め、様々な自分を自覚し、思考がとどまらない者として、いかに生きてゆくか、ということを考えたときに、

どんな自分でもオーケーなのだということ。
それはとても大切な自覚だと思う。

それはつまり、考えに考える自分で善いということ。

ありとあらゆる自分が湧いてくる。
それらと対話したり、その自分について考えたり


そうしたなかで、やっぱり欠かすことができないのが、

「慈悲」ということです。

繰り返しますが、これは私の場合の話です。
私が、自分の人生を考えたときに、

この「慈悲」というものを欠かせば、どういう未来を引き寄せていくのか。
慈悲があるなかで、どんな未来を引き寄せていくのか。

考えに考えたときに、どう考えても、

慈悲のない未来よりは、慈悲のある未来の方がよいであろうなと感じます。


こういうことを考えたのは、

自分が少しずつ元気になっていくなかで、この先どう生きていきたいのかを考えた、そのなかでのことです。

どうしたいもないなあ、と
いまのままで実はじゅうぶん満たされているし、幸せを感じるし、

うーむ…このままで実はよいのか…

となったときに、

ふと、家族というものに思い至りました。
私が生まれ育った家族。

そもそもそれが、私の「こうしたい」に合致していなかったということ、

いまもその願いは叶っておらず、

考えれば考えるほど、その願いがかなうことはないことが分かっていくということ

それがどんどん明確に分かっていく。


そうしたなかで、

それはそれで仕方ない、そこはあきらめて、
今後の自分の人生だ…

と、そのとき。

その家族について

すなわち我が両親について
自分の母について、父について

どうするのか。


まえは、この両親はもう仕方ない、自分の人生だ、となって

両親について考えていなかった。
もう知らん、という言葉では少し違和感もあるが、概ねそんな感じでもあった。


誰かを見捨てて、自分本位ななかでは、

決して真の幸せはないだろうな、と、

いま、本当に心の底から感じる。

それができるか否かは別にして、

誰のことも見捨てては、それは必ず課題となって自分の身に降りかかってくるであろうと、
私は我が身を振り返って感じる。


あの両親の関係はどうにもならない。
父の個性、母の個性、それぞれを活かして夫婦として噛み合うことは想像もつかない

もちろんそんなことがあれば最高だが、
あのふたりがお互いに悟りを開きでもしないことには…
と感じる。

だが、見捨てることはできない。
根拠は言葉にできないが、おそらく間違いなくそうであろうと感じる。

おのれの人生のために、適切な距離を置くことは必要だし、

ときにはやるせない息子の想いを伝えることも大切かもしれない。

いずれにせよ、

距離を置いて接しないにせよ

あのふたりへの慈悲は欠かせない。
見捨てることはあり得ない。

それは、両親を対象に限ったことではなく、

誰のことも見捨てることはあり得ない。
見捨てているのと同じ行動であったとしても、

その無明が明けるようにとの願いを込めた慈悲の感情がなくなることはあり得ない。

この先、どんなふうに生きていくにせよ、

それだけは間違いないのではないかな…と、

そんなふうにおもいます。
 

その五百四十六 流れ流れてとどまらない

2021-11-25 22:54:00 | 日記
ぜんぶ一時的な自分であって、

自分というものは存在しない…なんてやってると、

もう思考が流れ流れて、とどまることがなく

ぜんぶの思考がどうでもよくて、

同時に

ぜんぶの思考が素晴らしく愛おしい

そんな矛盾したものが同時存在するような

わけのわからない状態です


それにしてもこの動画

私にとってはまさに、異次元の動きとでも言いたくなる


こんな動きができるようになりたいと憧れます

流れ流れてとどまらない

それってつまり 無常ですね
 


その五百四十五 食レポ

2021-11-25 13:16:00 | 日記
うん、フツーに美味かった♡

でも、さすがにもう、4コでも多いな…
歳とったな…3コで良いですね
できればドーナツは1コぐらいにして、飲茶とセットが良いですかね
ミスドのチャーハンとか麺類、めっちゃ美味しいんですよ。ご存知でした??


突然ですが、仏教は難しいですね。

バラバラなことを言ってるようにも思えてしまいます。

苦行じゃない、と言いながら
貪りはいかん、とかね

貪りを制御するのは僕にとっては苦行です。

さて、昼寝ですかね。貪るように眠りこける予定です。

写真は何かって?ドーナツ持ち帰り用の袋ですよ。
まだ食うのかっ いや、違います。
やや常識というものが気になる最近、
さすがに4つ店内というのは気が引けて
最初のパイ以外は持ち帰りって注文したのでした。

だから袋のなかは空です。
てへぺろ。


あー、おいしかった。
 
 

その五百四十四 オッサンひとりで

2021-11-25 12:50:00 | 日記
いつもやや真面目気味なことばかり書いていますが

私、実際のところは相当ふざけたオッサンです
バレてる人にはバレてるかもしれませんが


さきほどミスドを通りかかりましたらね

ピカチュウが目に入りまして

ピカチュウには興味はないのですが

この見た目からどんな味がするのか!?と

その好奇心に抗えず

見出しの通りですワ。

しかもコレ、すでに一個食べたあとの写真ですからね
濃厚チョコレートパイ、だったかな
少しお皿が汚れてるのはその名残です

そして見出しの写真のとおりのテーブルを前に

こうしてスマホでブログを書いてるわけですね

見た目はもうヤバいでしょうね
僕が子供連れで店にいたら

「目を合わせちゃダメだぞっ」てなもんです

いや、ウソです
僕はこういう少しズレた人が好きなので
避けたりしません

さて

食べてから、食レポ的なものも書いてから更新すべきか

食べる前に更新して、落ち着いて食べるか


残念ながら私は

食べるときは何も気兼ねできないのです

あとで食レポを書こうなんて考えてたら

せっかくのドーナツちゃんを心ゆくまで味わえないので

とりあえず更新します。

ブログに書かずにいられないほど衝撃の味だったら、またアトで更新します。

仏教では

貪りはいかんと仰せですが

このテカった見た目からどんな食感があらわれるのか

とても抗えたものではござらんのです

4つも食うのかよ って思ったあなた

10年ほど前までは、すでに30代であったにも関わらず店内で10個近く食べたもんですよ

ずいぶん食が細くなったものです