まったく言葉として整理できてないことを、
ここに書きながら整理していこうとして
書きます。
人間というものについての考察、私の、私という人間についての考察です。
いままでも書いてきたように、
いのちが生きていて、
私はそれによって生かされている感覚。
ここでいう「私」は、今コレを書いているこの私、という者です。
それは、アタマで思考してる私。
この私のアタマは、いのちが生きていることで、存在できている。
私のすべては、アタマだけじゃない。
「いのち」があって、
もしかしたら「魂」があって、
思考する頭脳「アタマ」があって、
感じる「心」があって、
心とはイマイチ違いそうな「感情」もあって
最近めっきり現れない「エゴ」もあって
「円満な人格」で触れたように、色んな要素の「私」もいて、
他にも、アタマの私が認識できていない、
色んな「私」がいて、
「いのち」でも「魂」でもない、他にも大いなる何かが私を構成しているかもしれない。
要するに、
私、と言ったって、
どの私?
ってことになってくる
…もうアタマから煙が出そう(笑)
少なくとも、
これを書いてる私は、
いのちによって生かされている。
「いのち」が生きているんであって、
この私が生きているんじゃない。
この私は、アタマでつくってる私。
その私は、
いのちからすれば、後付けの付属品みたいな
大脳新皮質が発達しなければ現れなかったはずの私、みたいな…。
でも、これを書いてる私にしたら、
その付属品こそが私の全存在なわけで、
それを私のアタマ自らが、自らのすべてを、後付けの付属品と認識するのは、
容易なことじゃない
…もうナニ書いてるの私?大丈夫??笑
読んでくださってる方、いらっしゃるかしらん
いくら後付けの付属品と理解しても、
それこそが理解の主体の私にしたら全存在なわけで、
これは大変なこと
でも、それが受け入れられると、
たとえば
どんな望まないネガティブな感情に苛まれても、
それはあくまでも私という人間のすべてからすればごく表面的な一部、後付けの付属品の私のものに過ぎず、
私という人間のすべてからすれば
なんというか、
たいしたことじゃない
私のいのちという大いなるうねりのなかでは、
私のアタマと感情は、なんというか、
微々たるもの
でもこれを書いてる私にすれば、それが人生のすべてにもなりかねない、大問題
いのちは、魂は、常にうごめいて止まらない、留まらない、大いなるうねりのように、変化し続けている、
けど、その全体は変わらない
もう何書いてるのか分からないけど、
とにかく私はいのちに生かされていて、
いのちが生きてるんであって、この私が生きてるんじゃない
後付けの付属品の私のアタマ
それが考える思考が、私の人生を形づくるけど、
いのちのうねりの前には、
たいしたことじゃない
そんな感じ
みんな、自然が大事だ、自然と触れ合おう
都会は自然がない、
海に、山に、河に、森に行こう、と言うけど
一番大事な自然は、
いつもあまりに近過ぎて触れてる感覚がないかも
あなたのなかの、うごめく「いのち」が、
なによりも大事な自然なんじゃないだろうか