
前回記事にした、どれもが一時的な自分であるという考え…
もちろん、変わらない自分、という表現が妥当なときもあると思う。
昨日、どれも一時的な自分であるという視点で、仕事で関わる人たちを見ていて、
色々と思うことがありました。
そして、我が身を振り返ることも。
「自分は正しい」という信念は、危険を孕むと思いました。
正しくあろうとすることは大切だと思いますが、
ことさらに「自分は正しい」と思うとき、
そこにはすでに軋轢や葛藤があるように思います。
でなければ、
なにもなく順風満帆なときにわざわざ
「自分は正しい」と思うことは、あまりないのではないでしょうか。
我が身を振り返ったときに、自分の正しさ、自分は間違ってない、と思いたい、思おうとするとき、そこには軋轢や葛藤があったように思います。
すべて一時的な自分であるとするならば、
仮に正しい自分というものがいたとしても、それもやはり一時的なものなわけです。
だけれども、自分は正しい、というとき、その言葉の背後にあるのは
「まわりが・世の中が・あいつが、間違っている」
まわりも、世の中も、あいつも、
一時的な人間でできているわけですから、
ある特定の場面で、どちらがより正しいというようなことはあるでしょうが、
それは「自分は正しい」ではなく
「あの場面で自分の為したことは…」であって、
しかも、正しい・正しくないと判断している自分も一時的な自分に過ぎないとするならば、
果たして誰が正しい・間違っている、などと決めつけることのできる人間がこの世にいるのだろうか…とすら思ってしまいます。
私は正しい、と、他を断罪しているその言動自体どうなのか?と。
そして、さらに危険を感じたのが、
昨日、そうした人を見ていて「無明」という言葉が浮かんだことです。
ひとに対して無明を感じるとき、
自分はそうではない、と思っているとしたら、それもやはり危険なことであろうと思うのです。
仮に自分は無明でないとしても、
かつては無明であったわけです。
ひとに無明を感じることは仕方ないとしても、その感じ方はどうなのか?
おのれは無明でない、それこそ、自分は正しいとでもいう感覚を持っているなら、
要注意だなと思いました。
ところでいま、無明という言葉をググったら
『仏教用語で「無知」のことです。
“何も分からない” ことではなく、“すべて分かったつもりでいる” ことをいいます。』
“何も分からない” ことではなく、“すべて分かったつもりでいる” ことをいいます。』
おお…まさにコレですね。
分かった気でいる。だから、自分は正しいと思ってしまう。
間違うこともあるし、間違う自分を客観的に認識できないこともあるのに…
仮に。
無明の対義語であるという「光明(こうみょう)」「法性(ほっしょう)」の境地に至ったとて、
やはりそれも一時的な自分と認識した方が良いのでしょうかね。
そのへんは難しそうです。
いずれにせよ
自分は正しい、などと思ってしまっていることを自覚したら
その想いそれそのものが間違いかもしれないと、
仮に正しいとしても一時的な自分に過ぎないと、
一時的にまた間違う自分もいると、
そのように認識したいと思っています。
そんなこの私も、一時的なものかもしれませんが(笑)
他人の無明に、非難がましい気持ちを抱いたら、その時点で本人も無明なのではないでしょうか
少なくとも、かつてはその本人も無明であったわけですから、誰を非難もできないように思います。
そんなとき、そこにあらわれるのが「慈悲」という感覚なのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていたら、見出しの写真にしたポスターに出会いました。
うん。そうだね。知らなかった。
なんにも分かってなかったよ。
めちゃくちゃ和む☺️
最近、ふと目にしたもの、聞こえてくる言葉は、ちゃんと自分に向かってのメッセージなんだと思うことがあります。
受け取るか受け取らないかだけで。
ええ、私も何にも知らなかったよ。わかってなかった😅
「正しさ」に囚われているときって怖いですよね。
今日もうんうんと考えさせられながら、読ませて頂きました。
いつも深いブログ、ありがとうございます
ね。かわいいネコだな…と、
思わずパシャリ(笑)
かわいいネコだけど、書いてある言葉は深いんだなあ
こんなポスターがふと目に止まったことも、メッセージかもですね。
正しいって言葉は、本当に使い方に注意ですよね。
ところで、こちらに書いてしまってなんですが
今日も姉さんの記事、詩…
とても素敵でした。
優しさが溢れてる感じで。いつも癒されますわぁ…(´∀`)