なにか考えごとをするとき。
それについて考えることで優しい気持ちになれたり、人格が向上していったり、無上や解脱と呼ばれるものに至るために役立ったりするようなこと。
そういうことについて考えたり、そういう考え方をしたいものだと思うのです。
それについて考えることが、そうしたことに対して役に立たないようなこと。優しい気持ちになれず、
それについて考えても人格が向上していかず、
無上や解脱と呼ばれるものに至るのに役に立たない、そういう考えごとをして一体どうするのだろうか。
そういう思考。優しい気持ちになれず、人格が向上せず、無上や解脱と呼ばれるものに至るのに役に立たない思考。そういう考えごとが楽しいと感じられることはあると思います。
人間にはそういうことがあります。
つまり、楽しいということそのものは、
人格の向上にも、優しい気持ちになることにも、
無上や解脱と呼ばれるものに至るのにも、
なんの役にも立たないことがあるということです。
一生懸命に考えごとをして、たくさんの時間を使って知識を増やした結果、他の生命を見下したり嫌に感じたり、見下すものや嫌なものが増えたら、慢が生じていくとしたら、その考えごとや知識、それに費やした時間は一体なんのためのものだろうか。
なにを求めて考えるのでしょうか。
誰だって、幸福で安穏で、誰に対しても優しい気持ちでいられたら、それが一番よいのではないでしょうか。
なにかやりたいことがたくさんある人でも、しあわせで穏やかで優しい気持ちのままそれができたら最高なのではないでしょうか。
ボクシングや格闘技だって、そういう気持ちで純粋に技術を習得して、その気持ちのまま相手と技術を競い合えばよいことです。
なにかを批判するときも、幸福で安穏で優しい気持ちのまま、慈しみをもって、理性で冷静に、如理に行えばよいことです。
間違っていると判断した他の生命を正そうと働きかけるときも、幸福で安穏で優しい気持ちのまま、慈しみをもって、理性で冷静に、如理に行えばよいことです。
でも、それがなかなかできないのが人間というものです。
幸福で安穏で優しい気持ちになれる考えごと、
人格が向上する考えごと、無上や解脱と呼ばれるものに至るのに役立つ考えごと。
いま自分がしている考えごとは、そういう考えごとではないと分かっても、やめることは難しいのです。
幸福になっていかない考えごと、
安穏な気持ちでいられなくなる考えごと、
優しい気持ちでいられなくなる考えごと、
人格が向上していかない考えごと、
無上や解脱と呼ばれるものに至るのに役立つとは思えない考えごと。
そういう考えごとをやめずに続けるための、至極まっとうな言い訳を考えることはすごく得意なのが人間です。
しかし、その言い訳は如理でしょうか。道理にかなっていますか?
わざわざ怒りを増したり、本来なら望むはずのない感情を増すような考えごとをすることも、なかなかやめることができないのが人間です。
おそらくそんな考えごとをしていたら不幸になってしまいそうな、考えごと。それをやめずに続ける言い訳を正当化する。
その言い訳は如理ではない、道理にかなっていないと分かっていても、さらに言い訳を重ねて正当化する。
言葉にすると本当に愚かな、そういうことをやるのが人間です。
生まれたままで悟っているとか、色んな耳障りの良い言葉で未熟な自分を正当化してもダメなのです。
どんなことがあっても安穏で、誰に対しても優しい気持ちでいられる、そんな人格は、鍛えなくてはなることができないものです。
無知でアホでわがままで、あるがままに見ようとせず、如理に理解しようとせず、道理を無視しようとする、鍛えていない人間はそういうものです。
でも、鍛えて、如理に観察し、すべての事象を如理に見て如理に理解し、如理に道理を理解すれば、誰もがなれる人格だと思います。
私のわがままな見解では、一生懸命に考えごとをして、たくさんの時間を使って知識を増やした結果、優しい気持ちが増して、どんどん人格が向上し、解脱や無上と呼ばれるものに近付いていけたら最高なのです。その思考の結果、慈しみが増して、すべての生命に対して優しい気持ちになれる、そういう思考をしましょうよ、というのが、その見解に基づいた私の意見です。
生きとし生けるものがしあわせでありますように