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2022/11/18

2022-11-18 17:44:00 | 日記
生きとし生けるものがしあわせでありますように



無上に至るのに必要なことは色々とありますが、

「私」というものは存在しない、と完全に理解することは無上に至るのに必須なことになります。

「私」というものは存在しない、その論理的な教説というのは、気が付いて探してみれば、実はけっこうあちこちに在ることが分かります。様々な書籍、紙媒体、インターネット上にも。仏教に関わる記事が多いかもしれませんが、別に宗教とか関係ありません。

それで、しっかり学んでみると、そんなことサッパリ理解できないし興味がないと思っていた人も、意外とすぐに論理的には理解できてしまう場合があります。けっこう簡単なことなのです。

しかし、それではまだ無上には程遠いのです。「なるほど、そのように考えてみれば確かに『私』というものは存在しないなあ」という理解では。

「私」というものは存在しないと、自分で発見できることが重要です。

本当は「『私』というものは存在しないと感じられることが重要です」と書きたいところなのですが、存在しないことを感じることは不可能なので、それは無理なのです。存在するから感じるわけです。

目の前にトイレットペーパーがありますか?
あるなら、ある。
ないとき。そのとき、あなたは頭のなかでトイレットペーパーを思い浮かべたでしょう?
この場合「トイレットペーパーは存在しない」とは言えません。存在するけど目の前にはない、ということです。

メガネを使用しない人は、自分の部屋にメガネがない、とはあまり思わないでしょう。
「メガネありますか?」と聞かれて
「メガネ?ああ、視力補助のためのあの道具のメガネのことか。それなら、私の部屋にはないな。」と思うでしょう。

ところが日常的にメガネが必要な人は、自分の部屋にメガネがなかったらすぐ気が付くでしょう。「あれ、メガネがない」と。

このような違いです。
メガネを使ったことがない人にとって、メガネは意識もしない物体であって、メガネについて聞かれない限り、ないことに気付くこともありません。
メガネが必要な人にとっての「ない」とは根本的に意味が違うのです。

目の前にポリアストはありますか?
あるなら、ある。
ない…とは言えないかもしれません。
なぜならおそらく「ポリアスト」という名称のものはこの世にないからです。いま私が考えた言葉なのです。ない、と言うためには、ないものがなんであるか、知覚できる必要もあるのです。

「私、自分」というものは存在しないと、そういうような意味で発見し気付くのは大変なことです。どんなに理論的に「自分というものは作り上げた概念、捏造である」と理解したところで、実際にはなくなっていないものです。

なにかの拍子にヒョッとあらわれるものです。
あらわれたことに気付くことも大変なことです。

論理や理論では存在し得ないものをわざわざ作り上げて、それで問題がなければいいのですが、「私、自分」が存在するから無上に至れないのだから問題でしょう。

問題の源は、そもそもは存在しないものです。それをわざわざ組み立てて、それがないという理論は否定しようとする。人間というのはそのようなものです。

とはいえ消そう、なくそう、と思うには「ある」必要があります。なかなか大変なことです。

どうすれば「私、自分」というものは存在しないということが発見できるのか、実感できるのか、その方法については、そのようなことに思い至って気が付いて探してみれば、これもまた書籍などの様々な紙媒体やインターネット上にも教説はあるものです。

ただし頭で理解するときとは違って、発見や実感に至るには、その方法を知ったからといってすぐにできるものではありません。時間をかけて適切な方法で試みていく必要があります。何度試みても、気が付けば「私、自分」が気付かないうちにあらわれているものです。できるまで適切な方法で続けるしかないと思います。


如理、非如理ということで言えば、

「『私、自分』というものが存在しています」というのは非如理な観察で、

「『私、自分というものが存在する』という認識をしてしまう感覚・感覚器官が存在しています」というのが如理な観察だと言えるかもしれません。


やってみようと思ったなら、がんばりましょう。
私にも、まだまだ私があります。


生きとし生けるものがしあわせでありますように

すべての生命が幸福でありますように


 

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