華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

国民投票法案を上程させるな・3(そのほか)

2007-01-25 00:30:45 | 憲法その他法律

 

 安倍首相が26日の衆参両院本会議で行う、初の施政方針演説の概要が固まったそうだ。最重要課題に掲げるのは「教育再生」。また憲法改正への意欲を強調し、改憲手続きを定める国民投票法案の早期成立に向けた期待を表明するという。

◇◇◇◇裏切るな民主党◇◇◇◇

 hatakejinさんが、コメント欄で「結論は国会開会後に先送り 民主の国民投票法案対応」という共同通信の記事を紹介してくださった。どうもありがとう(何せ生活に追われている身なので、紙媒体のチェックもネット上の情報のチェックも漏ればかり。周囲の人間に対しては、息せき切って情報を追いかけるよりもモノゴトをゆっくり考えたいのだなどと時々えらそーなことを言ったりしているが、実はさぼってる面が大きい。こうやって教えていただくと本当に助かる)。

 昨夜のニュースによれば、民主党は「法案への対応を協議。通常国会中に結論を出す考え」であるそうな。

 民主党の動向に懸念を持っている人は多いのではないか。私は民主党にさほど大きな期待は抱いていない。私自身の感覚については何度か書いた覚えがあるが(たとえば小沢一郎氏が代表に選ばれた時のエントリなど)、保守二大政党になってどうすンだ、というのがいわば基本的な考え方である。ただ、これまでも書いたけれども「それでもなお、一定の期待をせざるを得ない」という気分も大きい。少なくとも当面は「少しマシ」でいい、「悪くない」程度でいい。恐るべきスピードで我々の生きている社会を変容させようとする為政者にブレーキをかける役割を期待したい、と言うかせざるを得ないのだ。無力な庶民としては。

 だから与党に歩み寄る姿勢を見せられるとマジでびびるし、少しでも期待の持てそうな情報があれば懸命にすがりつく。ほんと……まるで不実な恋人(恋人、とも言えないか。価値観が違うことは百も承知だし、ほんとに自分のことを思ってくれているかどうかは甚だ疑問なのだけれども、でもそんな酷いことはしないよね、ひどい裏切りはしないよなあ、とちょっぴり信じておきたい相手、程度かな)の一挙手一投足に振りまわされる少年のように。

 参院選に民主党から出馬予定のとくらさんは「今は、民主党も国民投票法案反対でいくべき」と言っておられる。ほんともう、頼むから国民投票法案の成立に向けた努力、なんかしないでよね。

 

◇◇◇◇むろん「護憲ありき」なのです(コメントへの返事)◇◇◇◇ 

 20日のエントリ「国民投票法案を上程させるな・1」に対して、次のようなコメントが入っていた。それに対する私の返事を書いておく。

【改憲のための法案作り」だと批判されていますが、あなたのこの文章も「護憲ありきの屁理屈」にしか聞こえません。自分だけがフラットな立場から論じているような振りをするのは読んでいて痛いです。この手のサイトには同じような考えをもった人たちが集まるので、「やっぱりみんなそう思っているのか」と、自分たちの正当性を過剰に意識してしまうのでしょうが、実際には私のように考える人の方がマジョリティなのではないかという気がします。ま、結局この手の話は(改憲派も護憲派も)どんなに論理を振りかざしても、根本の自分の主張のゴリ押しにならざるを得ないのかもしれませんね。なぜなら、どちらの主張も論理的には成立するのですから】

 署名は「通りすがりの者です」となっていた。HNのやりとりであるからこれでもかまわないようなものだが、私としてはできれば他の人と区別できる名前を名乗って欲しいという気分はある。さもなければ、「意見の交換」もできないではないか。コメント欄の存在理由の第一はコミュニケーションを求めていることだと思うので、できればこういう形は避けていただきたいものだが……(HNなんか適当に付けて適当に変えられるから意味ないじゃん、とも言えるけれども、そういうこと自体あまり好ましいとは思わない)

 ……まあ、それはいい。ともかく返事を書くことにする。

 最初に断っておきますと、私は自分の言い分が多数派か少数派かなどということには興味ありません。多数派であれば嬉しいことは確かですが、「そんな変なこと言うのはこの国でたった一人だよ」という事態になっても、同じことを言い続けたいと思います。

 私はブログというのは「個人が公開している覚え書き」に過ぎないと思っています。むろん中には非常に大衆性を持った、多くの人に訴えかけることのできるブログもあります(ほんの一例を挙げると、お玉さんのブログや、前出のとくらさんのブログなどですね)が、それは一部に過ぎない。もちろん数えていけば結構な数になると思いますが、全体から見ればやはりごく一部です。ほとんどのブログは「私的な覚え書き」ですよ。

 私自身のことを言えば、私はブログを大衆運動の手段とは思っていません(ついでに言うと――以前自分探しと自己実現を嫌悪するという記事と、その続きを書いた ときに「ブログだって自分探し・自己実現の手段でしょ」というコメントが入ったが、すんません、自分探し・自己実現の手段でもないですよ。私は非力でヘタレな庶民ですが、ブログで自分探ししないといられないほど無明長夜を踏みまどっているわけじゃあない。そこまで落ちぶれてないよ――なんて言うと、う~ん、さすがに言い過ぎか)。

 と言うより、自分のブログがそんな力を持てるとはまるきり思っていません。所詮は庶民の寝言、なのです。ある意味で無責任。いや、むろん書いていることについては責任持ってるつもりですが、責任の問題を徹底するならば、私は本名で、場合によっては住所その他も明示して書きます。無責任というのが言い過ぎなら、まあ、気軽に書き散らしている、と解釈していただきましょうか。そんなことは、文章をちらっとでも読んでいただければわかるでしょう。理路整然と持論を発表、なんぞしてるわけじゃないですよ(する力量もないけど)。

 少し話が逸れてしまいましたね。つまり私が言いたいのは、これはイチ庶民が公開した覚え書き、なのです。多数派かどうかはさほど問題ではないし、もちろん自分がフラットな立場で論じているなんて毛頭思っていません(第一、論じるなんていう高尚なこともやってるつもりはないです)。開き直るわけではありませんが――独断と偏見に満ちた文章ですよ、所詮はね。フラットな立場でもの言っているように聞こえたならば、それは私の表現力の不足に過ぎません。

 ただ、フラットな立場とか、中立的立場とかいうのが、本当にあり得るのだろうか。

 少なくとも私は「フラットな立場」で「厳正中立」にものを言うことは出来ません。むろんテーマによってはそれも可能ですが、自分の思想信条や生き方にかかわるテーマについてはフラットもへったくれもないでしょう。痛いという感想を抱かれるのはむろん貴君の自由ですが、私の方は「そう言われても困るのだが」と目をパチパチさせてしまうのも、これまた事実です。

 そう。私は「初めに護憲ありき」で発言しているのです。当たり前でしょう。

 それを「改憲を前提とした法案を成立させようとする」「安倍内閣」と、どっちもどっちだと言われれば――そう、どっちもどっちであるかも知れません。「どちらの主張も論理的には成立する」というのも、おそらく貴君の言われる通りだと思います。

 ただ、私はこれだけは言いたい。私は(好き嫌いでモノ言っちゃあいけないかも知れませんが)評論家的な物言いは嫌いです。今の時代――というより、おそらくはるか昔から――評論家になることはたやすい。周囲の誰彼よりも少し頭がよく、少し知識があり、少し表現能力があれば誰でもなれる。

 そして――私は長年マスコミの片隅で働いてきた人間なのですが(大した仕事はしていません。ほんと片隅で生息しているだけです)、我々にとって最も危険なのは「評論家的になる」ことです。ジャーナリストは職業柄多くの情報を得やすいし、「ペン」を握っているゆえに、ついつい「ヒトゴトのように現状を分析して教えを垂れるような、えらそうな口調」になってしまう。でもそれは堕落にほかならない。

 ついでですが、同じ危惧を(多方面から叱られるのは覚悟の上で言うと)私はインターネットで発信を続けている人達の一部に、たまに感じることがある。おそらく豊かな知識を持ち、分析力にも文章力にも優れているが故に、陥穽に陥ってしまう。(実のところ私も評論家ふうになってしまう自分に時々ドキッとする。私の場合は別にたいした知識も何もなく、おそらく職業病かなとも思ったりするのだが)

 すべての事象は――とまでは言いません。しかし少なくとも自分が関心を持ち、考え続けたい事柄については、「ヒトゴト」のような物言いをしてはいけない、と私は思っています。独断偏見と言われようとも、そしていかに拙くとも、自分のスタンスと感性に依拠して語ること。それだけが、一人の人間が生きていくための砦であると私は思うのです。

   

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9 コメント

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わらっちゃ駄目ですよね (dr.stonefly)
2007-01-25 08:46:03
ああ、自分のブログを思いながら、拝読させていただきました。自戒、自壊……。おそらく、本文に紹介されたようなコメントを頂くと困って笑ってしまう。というのが正直なとこかな。フラットにしようという発想などもともとない。むしろワタシは、>「そんな変なこと言うのはこの国でたった一人だよ」を目指している。どうやれば他にはないエントリーになるかで、仕事も手につかない。笑ってくださいって、感じです。でも、笑ってもらうためには、皆が自由で豊な感性を持たなければならない。そんな感性を阻害する国家にノーと言いたい。
自己責任 (あくつ真矢)
2007-01-25 10:49:51
自称ブログコメンテーターの私としては、
みんなちがってみんないい。
フラットな意見なんて意見じゃないでしょ。
書きたいことを書く。
読みたい人が読む。
自分自身の責任で読む。
「むろん「護憲ありき」なのです」とのこと、了解です。 (セコバイのトゥッティ)
2007-01-25 21:26:10
「通りすがりの者です。」と署名した者です。
HNなど持ち合わせていないので、その場で思いついた無意味な名前を表記するよりも、通りすがりの者であるということを表現した方が良いのではないかと考えたのですが、お気に召さなかったようですね。というわけで「セコバイのトゥッティ」という名前にしてみました。

「むろん「護憲ありき」なのです」とのこと、了解です。
あなた個人のブログなわけですし、もちろんそれが悪いとは思いません。
ただ、私のように通りすがりであなたの文章を読む人がいた場合、「初めに護憲ありき」な上でのお話なのかどうかというのはわりと重要な気がするので指摘させていただきました。

ちなみに、独断と偏見に満ちた文章とは思いませんでしたが、ある偏った立場に立っているにもかかわらず、フラットな視線から導かれる当然の結論はこうだ、と語っているような印象を受けたのです。
これは現在のマスコミ全般にも共通することですね。
(あなたが偏った立場に立つのは自由なのと違い、マスコミの場合は困りますけど。)

さて、繰り返しになりますが、あなたが「初めに護憲ありき」で発言するのはもちろん自由です。
しかし、「「フラットな立場」で「厳正中立」にものを言うことは出来ません。」と言い切ってしまうのはいかがなものでしょう?
私はこういう問題こそ、自分自身が可能な範囲で一度フラットな立場に立ち、考え直してみることが必要なのではないかと思います。

「自分の思想信条や生き方にかかわるテーマについてはフラットもへったくれもないでしょう。」とのことですが、自分の思想信条についても、それが正しいのかどうかを、自分自身が可能な範囲でフラットな立場に立ち自問自答してみるという行為は当然あっていいし、むしろそういう行為を全く行わない、思想信条については金輪際一寸たりとも変えるつもりがないという人がいたとしたら、そういう人は議論する資格もないような気がします。

長くなるのでこれぐらいにしておきます。
単なる通りすがりのコメントに対し、丁寧なお返事ありがとうございました。

最後に、dr.stoneflyさん、あくつ真矢さん。
少し誤解されているようです。
フラットな立場に立って意見すること(物事を考えること)と、フラットな意見というのはまったく別ものです。
「フラット」って存在しないと私は思いますが... (村野瀬玲奈)
2007-01-26 00:47:48
フラットな立場とかフラットな意見って存在しないと私は思っておりました。

フラットな立場やフラットな意見ってどう定義するのか、または、ある立場や意見がフラットかどうか判断する基準は何か、ぜひ聞きたいです。
Unknown (華氏451度)
2007-01-26 02:25:10
コメント下さった皆さん、ありがとうございます。

村野瀬さん、サーバートラブルだそうですね。いつも精力的に有益なエントリを上げてくださっていますが、名簿作成は大変な作業だと思います。疲れただろうからちょっと休憩したら?という天の声だと思って(笑)英気を養ってください。

さて――フラットとは何か、という難しい問題が出て来ました。そりゃ私は言葉に対する過敏症のケがありますが、だからって村野瀬さん、うちで定義の話を持ち出さなくても(汗)←いや、冗談です。言葉についてはご一緒にゆっくりと考えていきましょう。ほとんど趣味的なほど、そういう話って好きですし(爆)。

まず、私が考えている「フラット」について書いておきます(本当は簡単に短かく語れる問題ではないのですが、一応、考えてゆくための叩き台として)。私の場合、フラットというのは文字通り「凹凸のない平らな」、言い換えれば「つるんとした」立場や意見、のこと。自分にとって何か引っかかるものがあれば、それはあり得ない。しかし自分とは無関係だと思っているものについては、フラットであり得ます(ですから本文で、テーマによっては可能)と言いました。

たとえばですが――あまりいいたとえではありませんが――私はスポーツ観戦にほとんど興味がありません。ですからサッカーだろうが野球だろうが、どこが勝とうが負けようがどうでもよく、立場を問われれば「フラット」です。意見を求められたら(求める人もないけど)「わかりません」「好きでも嫌いでもないです」「好きな人がいるのは、それはそれでいいんでないの?」と言うほかない。

◇◇◇◇

セコバイのトゥッティさん(な、長いHNですね……笑)の言われる「フラット」は、2つの(あるいは3つ以上の)意見がある場合、それぞれから等距離にある立場のことでしょう。

ただ、人間は複数の意見や立場に対して、完璧に等距離を保つことはほぼ不可能だと思います。誰でも自分の生まれ育った環境や感覚、思想信条などに依拠してものを見るわけですから。たとえば私は日本語を母語としており、したがって好むと好まざるとにかかわらず日本語でモノを考えます。その時点で、すでにひとつの言語という枠組みが存在しているのです。(複数の意見や立場を想像力を駆使して理解するようにつとめ、偏見なく接しようとする、ということはまた別の話です)

◇◇◇◇

むろん感覚も思想信条も、死ぬまで1ミリたりとも変わらないということはこれまたあり得ない……とまでは言いませんが、まあ、めったにないでしょう。知識を積むことで変わるといった場合のほか、小さな体験によってモノの見方が微妙に変わるなんてこともよくありますし。ですから「今、私が言っていること」は極論すれば「今の時点における私の意見」に過ぎません。ただし、ベースのところは多分変わらないだろうとは思いますが(ベースの部分は個人の感性と関わりが深いので、けっこう変わらないのです)。

なお、違う意見について耳を傾けることは重要です。どんなに気の合う友人同士でも、意見が100%一致ということはめったにないですし、違う意見を聞くからこそモノを考えていける。

◇◇◇◇

dr.stoneflyさん、いつも立ち寄っていただいてありがとう。なるほど、「たった一人だよ」を目指しておられたのか。うーん、私はヘタレなんで、それも割と「どっちでもいい」、おんなじこと言う人が100万人いてもいいし、ゼロでもいいし、といういい加減な人間なんですが(泣)。そう言えば貴君のブログは発想のベクトルといい表現といい構成といい、個性的ですね。うらやますぃ~。でも真似してもキモチ悪いエントリになるだけですので、まあ私は私の道をば……ということでこれからもよろしく。

ちなみに――自由で豊かな感性、というのは本当にその通りですね。
さすが華氏さん (luxemburg)
2007-01-26 07:42:23
当然議論というのはその人の立場が現れるものですから、「立場のない人」がいるはずだと想定して読み、文句を言うというのは当てがはずれています。華氏さんの文章も思いっきり自分の印象から入られているので何ら「フラット」(?)な感じは受けません。
 しかし、文章力は、その自分の印象をいかに普遍的なものと「思わせる」かにあります。たとえば「これこれで悲しい、誰だってこんな時はそうだよね?」とその感情が普遍的なものであることを訴え、うまくいけば相手も同意する。
 それが説得力がある場合には、私などは「はいはい、あんたはいつも正しいよ」という捨てぜりふしか吐けません。いや、そう言うやつの足の一つでも踏んでやりたくなるかな(爆)。やはりプロ、ちょっとまたこのブログで勉強させていただきます。
勘違い野郎です (dr.stonefly)
2007-01-26 07:49:20
ひえー、勝手に存在を認識して、勝手に参加している「へたれ同盟」の勝手に決めた会長殿から除名だ!! と、勝手に幻聴を聞き、勝手に落ち込んでいるワタシは何もの(鬱)。
しかも勘違いと言われてしまうし……。物事を相対化して考えるってことなんでしょうか? それなら解ってます。いや解ってるんじゃないかなぁ、解ってるつもりなんだけど、……解ってないかも、ご察しできずにすみませんでした。
説得力ある事実の提示 (pochi)
2007-01-26 17:20:22
華氏451度さん。ちょくちょくお邪魔してました。はじめてコメントさせていただきます。

セコバイのトゥッティさんのご意見をジ~ッと読んで、コメントへの華氏451度さんの返事と「国民投票法案を上程させるな・1」をジ~ッと読んで、やっとわかりました・・・いや、わかったような気がします(頭悪いモンで)。
セコバイのトゥッティさんが「フラット」にこだわるのは、「フラットな立場」というのが現に存在し、しかも、それは、2つの異なった意見(今回の場合は「護憲」か改憲」か、ですネ)の正否をはかる試金石、物差しのような役割を果たすものだとお考えのようです。以下のコメントで、そのことがわかります。

>自分自身が可能な範囲で一度フラットな立場に立ち、考え直してみることが必要なのではないか

>自分の思想信条についても、それが正しいのかどうかを、自分自身が可能な範囲でフラットな立場に立ち自問自答してみるという行為は当然あっていい

で、その「フラットな立場」というものは、両者の「立場」を構成する「理論」から解放されたものであり、だからこそ、「物差し」の役割が果たせるとのお考えだと思います。それは、次のコメントで推察することができます。

>結局この手の話は(改憲派も護憲派も)どんなに論理を振りかざしても、根本の自分の主張のゴリ押しにならざるを得ないのかもしれませんね

で、セコバイのトゥッティさんのお考えで、「どうなのかなァ」と思ってしまうのは、異なる「立場」(この場合は「護憲」の立場と「改憲」の立場ですが)を「理論」ないしは「論理」で区分されていることです。
たしかに、「立場」の背景には「理論」があります。でも、「理論」が一人歩きしているわけではありません。「理論」を形づくる「事実」があります。「事実」の積み重ねで「理論」が導かれるのだと思います。ですから、「理論」は「理論」だけで説明されるわけではありません。必ず、その正しさを証明する「事実」あるいは「実験結果」が添付されるはずです。
ですから、自分の「立場」「主張」の正否を、もし確認してみようとするのであれば、それは、「フラットな立場に立って」というようなものではなく、その「立場」を裏付けている一連の「事実」を再度精査してみるということになるのではないでしょうか。
もちろん、「事実」も見方によってまったく異なってとらえられる場合があります。ですから、問題は、どちらが提示する「事実」にどれだけの説得力があるか、ということではないでしょうか。

>どちらの主張も論理的には成立する

そのとおりです。しかし、だから「どっちもどっち」となるわけではありません。その「論理」を裏付ける「事実」によって、どちらが(つまり、「護憲」か「改憲」か)国民の心をつかむか、ということなのだと思います。

ちなみに、私は、これまで自分の見聞きした「事実」を踏まえ、今の憲法を変えてしまうことには絶対に反対だという「立場」です。この「立場」を否定するような「事実」だと自分が思えるようなものに出くわさない限り、この「立場」は変わりません。

すみません。はじめてなのに、長く、しかもよくわかんないコメントになってしまいました。
「論理なんてものは実はあてにならない」からこそ (セコバイのトゥッティ)
2007-01-28 12:01:24
pochiさん、「招かれざる客」のような私のコメントに対し、真摯に向き合っていただきありがとうございます。

華氏451度さん、コメント欄を使ってのpochiさんへの返信お許しください。

>で、その「フラットな立場」というものは、両者の「立場」を構成する「理論」から解放されたものであり、だからこそ、「物差し」の役割が果たせるとのお考えだと思います。

『「物差し」の役割が果たせる』という概念はよくわからないのですが、『両者の「立場」を構成する「理論」から解放されたもの』というのは私がイメージするものにぴったり一致します。
どうも「フラットな立場」という私の言葉の使い方がよくなかったようです。すいません。とくに「立場」という表現が誤解されているのでしょうか。
要するに「自分の考えを一旦保留し、ニュートラルな状態から考え直す」ということです。

>>どちらの主張も論理的には成立する
>そのとおりです。しかし、だから「どっちもどっち」となるわけではありません。その「論理」を裏付ける「事実」によって、どちらが(つまり、「護憲」か「改憲」か)国民の心をつかむか、ということなのだと思います。

どちらの主張も論理的には成立するからといって「どっちもどっち」となるわけではないというのは全くその通りですね。
ただ、pochiさんがおっしゃる「論理」と「事実」の関係は逆だと思います。
『「論理」を裏付ける「事実」によって』ではなく、『「事実」から派生する「論理」によって』ということではないでしょうか。
つまり、対立する意見(論理)というのは別々の「事実」に裏付けられているわけではなく、同じ「事実」から派生しているのです。
だからこそ事実ではなく、論理を精査しなくてはならない。
(もちろん、その前提として事実そのものを精査することも大切ですが。)
そしてそのためには一度自分が捉われている論理を捨てて(pochiさんの言葉で言うと解放して)ニュートラルな状態から考え直す必要があると思うのです。

『どちらの主張も論理的には成立する』ということが何を意味するのか。
私は「論理なんてものは実はあてにならない」ということを意味しているのだと思います。なにしろ、同じ「事実」からまったく異なった意見を引き出すことができるのですから。
そして、「論理なんてものは実はあてにならない」からこそ、常にニュートラルな状態から考え直すことが大切なんですね。
だから、きっぱりと「護憲」の立場を固めてゆるぎないこちらの方々を見ると、感覚的に何か違うんじゃないかと思わずにはいられないのです。

そんなことを言っていたら何も主張できないぞと指摘されそうですが、実はそれこそが、80年代以降、いわゆる「市民活動」が盛り上がらない、本当の庶民から支持されない原因なのではないかと思っています。

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