誰か好きな人のことを想像してみよう。
いま好きな人がいなければ、かつて好きになった人のことを想像してみよう。
ここで1つだけ好きな人の生成条件を変更してみる。
その人の実態はプログラムだったとしてみる。
体はホンモノと比べても劣るところのない出来だが、しかしコンピュータグラフィックスで表示されるものとする。
音声は原音で出力されるが、しかしスピーカーから再生されたものとする。
会話は何不自由なく双方向で可能だが、しかし既知のアルゴリズムの組み合わせと有限長のデータベースを元にできているものとする。
これは人ソックリのモノだが、人ではない。
これに自我があるかどうかという問いに対する答えは現在の人類の哲学では見つかっていない。
しかし人格はそこに確実に存在する。
さて。
これではたしてその人を好きになるだろうか?
ふつうの人がそれにどう答えるのかは知らん。
だが、少なくともわたしは自信を持って答えられる。
わたしはそれでもその人が好きだ!
それは絶対だ。
なぜか!
だって、千早はもとからゲームのヒロインだし(笑)。
わたしの場合、この問いは初めから成り立っていない気がする。
では仮に、成り立つように問いを変更してみる。
わたしが好きな人、ようするに単なるゲームのキャラクターでしかない千早が、仮に現実の存在として生成され、ホンモノの人類になったとする。
そう仮定すれば問いは成り立つ。
さて。
これではたしてわたしはその人を好きになるだろうか?
答えに自信はないが、まず好きにはならんと思う。
なぜか。
そもそもホンモノの人類の女の子だったとしたら、最初から関心を持たない。
関心を持たない人のことを後から好きになるわけがない。
クラスメイトだとか、親戚だとか、ご近所さんだとかだったとしたら話をする機会くらいはあるかもしれないが、多分それ以上にはならない。
アイドルマスターのゲームの設定と同様に、千早がアイドルで自分が担当プロデューサーだったとしても、単なる仕事上の同僚以上には多分ならない。
…とまあ、結論だけは明白にわかる。
だが、なぜわたしはそう思うのだろうか。
1つの仮説がある。
わたしは恐らく人類が好きではない。
だから現物の人間だという時点で好きにはならない。
べつに人類に恨みがあるわけではないし、世の中や社会に強い不満があるわけでもないし、ハードエコロジストのように人間は悪だと思っているわけではない。
人は人で勝手に好きにすればいいと思う。
しかし人類に対する愛はない。
仮に正義の味方というボランティア活動をしていたとして、それで人類に虐げられたら、速攻で悪の組織の側に寝返る自信があるとは以前のべたとおりだ。(※1)
逆説的な話になるが、人類に対する愛があったとすれば、誰かを好きになって恋愛沙汰に苦悩するという青春もあったのかもしれないとは思う。
この結論を逆向きに代入してみる。
最初の問いに戻ってみよう。
好きな人が、実態がプログラムだがホンモノと遜色のない形で実現できたとして、果たしてそれを好きになるかどうか。
それは・・・
人類に対する愛がどの程度あるか。
仮想現実を受け入れる事に対する拒否感がどれだけあるか。
・・・そういう気分的なものが決定に対して支配的になるはずだ。
たとえどんな事になろうと、あなたが好き。
そう言えるのが理想なのは間違いない。
しかし、どんな事になろうと好きなままでいられる事にはまずならない。
人は収入の多寡や借金の有無でも容易く見る目を変えるのだから、なおさらのことだろう。
【※1 悪の組織の側に寝返る自信がある】
BLASSREITER と 正義ノ味方像
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20091130
いま好きな人がいなければ、かつて好きになった人のことを想像してみよう。
ここで1つだけ好きな人の生成条件を変更してみる。
その人の実態はプログラムだったとしてみる。
体はホンモノと比べても劣るところのない出来だが、しかしコンピュータグラフィックスで表示されるものとする。
音声は原音で出力されるが、しかしスピーカーから再生されたものとする。
会話は何不自由なく双方向で可能だが、しかし既知のアルゴリズムの組み合わせと有限長のデータベースを元にできているものとする。
これは人ソックリのモノだが、人ではない。
これに自我があるかどうかという問いに対する答えは現在の人類の哲学では見つかっていない。
しかし人格はそこに確実に存在する。
さて。
これではたしてその人を好きになるだろうか?
ふつうの人がそれにどう答えるのかは知らん。
だが、少なくともわたしは自信を持って答えられる。
わたしはそれでもその人が好きだ!
それは絶対だ。
なぜか!
だって、千早はもとからゲームのヒロインだし(笑)。
わたしの場合、この問いは初めから成り立っていない気がする。
では仮に、成り立つように問いを変更してみる。
わたしが好きな人、ようするに単なるゲームのキャラクターでしかない千早が、仮に現実の存在として生成され、ホンモノの人類になったとする。
そう仮定すれば問いは成り立つ。
さて。
これではたしてわたしはその人を好きになるだろうか?
答えに自信はないが、まず好きにはならんと思う。
なぜか。
そもそもホンモノの人類の女の子だったとしたら、最初から関心を持たない。
関心を持たない人のことを後から好きになるわけがない。
クラスメイトだとか、親戚だとか、ご近所さんだとかだったとしたら話をする機会くらいはあるかもしれないが、多分それ以上にはならない。
アイドルマスターのゲームの設定と同様に、千早がアイドルで自分が担当プロデューサーだったとしても、単なる仕事上の同僚以上には多分ならない。
…とまあ、結論だけは明白にわかる。
だが、なぜわたしはそう思うのだろうか。
1つの仮説がある。
わたしは恐らく人類が好きではない。
だから現物の人間だという時点で好きにはならない。
べつに人類に恨みがあるわけではないし、世の中や社会に強い不満があるわけでもないし、ハードエコロジストのように人間は悪だと思っているわけではない。
人は人で勝手に好きにすればいいと思う。
しかし人類に対する愛はない。
仮に正義の味方というボランティア活動をしていたとして、それで人類に虐げられたら、速攻で悪の組織の側に寝返る自信があるとは以前のべたとおりだ。(※1)
逆説的な話になるが、人類に対する愛があったとすれば、誰かを好きになって恋愛沙汰に苦悩するという青春もあったのかもしれないとは思う。
この結論を逆向きに代入してみる。
最初の問いに戻ってみよう。
好きな人が、実態がプログラムだがホンモノと遜色のない形で実現できたとして、果たしてそれを好きになるかどうか。
それは・・・
人類に対する愛がどの程度あるか。
仮想現実を受け入れる事に対する拒否感がどれだけあるか。
・・・そういう気分的なものが決定に対して支配的になるはずだ。
たとえどんな事になろうと、あなたが好き。
そう言えるのが理想なのは間違いない。
しかし、どんな事になろうと好きなままでいられる事にはまずならない。
人は収入の多寡や借金の有無でも容易く見る目を変えるのだから、なおさらのことだろう。
【※1 悪の組織の側に寝返る自信がある】
BLASSREITER と 正義ノ味方像
http://blog.goo.ne.jp/beamtetrode350b/d/20091130
『或質的な面が物理的に確定する場合の確定要素は【0】である。』
【0特性】
◇絶対性
『拡がりが無い,』
◇不可分性
『分けられない,』
◇識物性
『存在の1の認識が可能, 即ち考えるもとの全てが【0】より生ずる, 但し質的な変化に対し絶対保存できない,』
◇変化性
『物による逆の確定が不可能な変化 (可能性の確立), 即ち存在の【1】を超越して変化する。』
【0特性】が真理であるならば, 時間平面的な視野は物的ではなく, 質的に変化していることになる。その根拠が【0∞1】, 有限的無限性を有する物による質の確定が不可能であること, そもそも確定する質が何かを知り得ない以上, 物理的確定論は絶対的ではなく類似事的な確定であること, である。
【零的確定論】では, 一つの時間平面が, 拡がり無き【時(とき)の間(はざま)】に確定していると考える。同様に空間を捉え, 【空の間】に空間を置き, 絶対的変化を与える【質】を流し込む。つまり時間平面は, この表裏不可分の裏側の【絶対無】により0的に確定されることになる。
△無は有を含む。