久々に開高さんのことを思い出した。いま、その原文に当たる余裕はさっぱりないのだけれども、たしか開高さんの小説だかエッセイだかに、昼間の暑熱で身体に染み付いた疲れはなかなか夜の寝床でも解消できるものではなく、早くからずっと寝床に横になっているのにいつまで経っても寝付けず、あらゆる外界の音に対して耳だけがどんどん冴えわたってゆく、という一節があったような気がしているのだが、はてさて、なんの作品だったろう。昨晩はずっとそうだった。今日も一日仕事なので早く寝付かねばと焦れば焦るほど、求める眠りは遠退いていった。それでも明け方近くやっと少しうとうとできたかもしれない。その浅い眠りのなかで、昨日がちょうど父の日だったからか、病気でややわけがわからなくなりかけの頃の父が、懐かしい笑顔で夢に出てきた。
画像は『珠玉』。
今朝、ペダル漕いで仕事場に向かいながら、同じような青い衣を纏ったたくさんのひとたちに行き逢う。青き衣。青の意味を具さには知らないが、私は〈青きコート〉にも特別なイメージを感じてしまう。そういえばナウシカに〈その者、青き衣纏ひて金色の野に降り立つべし〉とあったけれども、世の中を救う役割を果たす者があのなかに居たかもしれないとか妄想しつつ仕事場へ。一日仕事して、夕方、国立西洋美術館に立ち寄る。帰宅して、予約録音しておいたTBSラジオ〈安住紳一郎の日曜天国〉を聞く。番組ゲストはみうらじゅん氏。
仕事のあと。有楽町で『野のなななのか』鑑賞四回目。東京上映最終日。インデアンカレーで夕飯。カレー食べながら飲むここの水はやたらと美味い。何べんもお代わりして、なにか特別な水でも使っているのか訊くと、普通の水道水との由。カレーに秘密があるらしい。帰り、郵便局で短歌10首投函。
結局、雨の一日。仕事のあと、有楽町へ。。仕事の上でというわけではないけれども、この1週間はいろいろなことがあって心が少々疲れたので、心の洗濯をしたくて有楽町スバル座に足が向かう。地下鉄有楽町駅に降り立ち、上映前の空き時間つかってTOKIAの地下のインデアンカレーで夕飯。小脇には『熱風』最新号を携えて。
これから、『野のなななのか』三度目。
いつも淋しい雨の降りゐる歌集『庭』その木戸を押し夜毎訪ひゆく 岡部史
歌集『庭』は今は亡き河野裕子先生の歌集。そういえば、先週水曜日の東京平日歌会のあとの飲み会で、河野裕子先生の話題もたくさん出たのだった。今朝、岡部さんの一首をしみじみ見ていて、河野裕子先生はそういえばこんな一首も詠まれていたなあとふと思い出して、久しぶりに歌集『ひるがほ』を開いた。
うつそみを夜毎出でゆく魂魄は葬り処の土にまみれて帰る 河野裕子
一昨日の東京平日歌会のあと、S氏、T氏と「久しぶりでせっかくだから」と浅草橋駅近くの四国料理(土佐料理)の居酒屋〈げんさん〉に入り短歌の話やら何やら楽しく語って軽く飲んで軽く食べて、別れた。そのときのはなしの一つに「栗木先生は句集をよく読まれていて歌作に生かされている」というものがあった。
じつは、私の出した詠草。
神々の黄昏にて水は束ねらる桃色電話のとなりのグラスに
これは、俳人攝津幸彦氏の〈蛇口にて水束ねらる寂光土〉と〈愛はらはらと桃色電話に愛国者〉という2つの俳句作品から着想したもの。
俳句と短歌の相互作用、なかなか面白いです。
昨日は浅草橋で東京平日歌会があり、久しぶりに出かけてきた。参加者38名、詠草提出者37名。歌集をひとりで読んでいても短歌に触れていることにはなるけれども、やはり刺激という意味で生歌会に勝るものはないのかもしれない。面白かったです。みなさま、ありがとうございました。
なお、私の出した詠草は以下のとおり。
神々の黄昏にて水は束ねらる桃色電話のとなりのグラスに
「水は束ねらる、とは凝りすぎ」「酒の場面か」「よくわからないので作者に訊いてみたい」など、意見を頂きました。
メモです。
俳人攝津幸彦氏の文章「わが主張」より。
本物が歳月を得て実はインチキであったと判るのは絵にもならないが、インチキがそれを重ねることで段々本物に近づくといった構図はなかなか俳諧風でよろしいと、静かに酒を飲んでいた。今でも、インチキを無駄や無意味という言葉に置き換えて楽しむ事がある。
先日、本当に久しぶりに2日続けての休みを貰ったので、最近〈自分がこの世に存在する理由は何か〉と問うてきて止まぬ実家の母の許に出かけてじっくりしんみり朝から深夜まで2日間かけて話をした。ふだんの電話やメールでは充分にできていないたくさんの思いを目の前の私に向かってことばに乗せることができたせいか、母はすこし気分が楽になったらしい。そのなかで私が気づいたことは、遠藤周作氏がいろんなところで書いたり言われたりされていた〈寄り添う心〉がすべての鍵かもしれないということ。結局、社会は〈寄り添う心〉が絡み合ってできているのかもしれないし、生まれてきた個人のひとりひとりが目指すのも〈寄り添う心〉の獲得なのかもしれない。偉大な芸術作品にひとが感動するのは、その作品に大きな〈寄り添う心〉が内在するからなのかもしれない。かなしみにも、よろこびにも、くるしみにも、つらさにも、たのしみにも、いかりにも、おもしろみにも、多様に寄り添う広い心。