カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

「親類小花作之助」のことと「権之丞惣領秋作」についての追記。

2007-02-21 09:40:06 | Weblog
 追記めもです。。。

(*Wikipedia「松濤権之丞」2007年10月3日の権之丞による投稿は、このWebページの作成者によるものです。)

松濤権之丞(まつなみ ごんのじょう)
(天保七年生~慶応四年四月末頃歿)

 伝承されている話によれば、権之丞の父親は「前田(加賀藩?)のさる家老」だという。母親の名前は「波通(はつ)」(都立青山霊園にある、権之丞次男の泰近が建立した「松濤家之墓」の墓石には、「泰近祖母 波通」が明治の初めに亡くなったという記事が見える)。妾腹だったために寺へ預けられた。寺である年齢まで育てられたという。松濤家の家紋は「抱き茗荷」であるが、住職の姓が「松濤」で家紋が「抱き茗荷」という寺は、芝・増上寺前の妙定院、芝・西応寺町の○○寺、浅草の○○寺などがあり、権之丞は今挙げた寺のいずれかにいたようである。寺の所在地が江戸と推測される根拠は、鈴木明氏の著書『維新前夜』(小学館)の中に、「権之丞は江戸出身者」と書かれていることによる。鈴木氏が何に基づいて書かれたかは不明。
 権之丞が何歳まで寺にいたかはわかっていないが、やがて御家人株を買って幕臣(御家人)になったらしい。はじめ神奈川御役所附上番、次いで外国奉行支配定役格同心となった。文久元年十二月、幕府は外国奉行水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、日本領であることを宣言したが、権之丞はこれに随行(外交史料館に残る権之丞渡仏時の外交文書に「権之丞の親類」として名前が出てくる小花作之助も外国奉行支配定役元締助として随行している)、咸臨丸で渡島して調査に当たった。翌二年、忠徳の帰府後も、八丈島からの移民とともに残って島を管理した。島での様子については、文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸(上)』(中公文庫、1993年)第十八章「小笠原島の開拓」に詳述されているが、例えば、同書392頁には、権之丞に関するエピソードとして、中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸した話が紹介されている。そして、権之丞は、文久三年五月一日、ホーツン事件の罪人を連行して小笠原島を出帆し、五月十一日に横浜に着船(『幕末軍艦咸臨丸(上)』394頁)。
 文久三年十二月二十九日(1864年2月6日)、横浜鎖港談判のための遣仏使節の随員として、権之丞は、定役格同心という身分で、フランス艦ル・モンジュ号に乗り込み、横浜港を出航した。一行は途中エジプトに寄り、スフィンクスの前で記念写真を撮影。(この旅行については、尾佐竹猛著『夷荻の国へ』(講談社学術文庫)や、先述の鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリイ)などに詳述されている。)前述の、外交史料館に残る外交文書には、この渡仏の際の権之丞の留守引受名前として、「同役 菰田謙輔」「親類 小花作之助」の名前がある(『続通信全覧』〈類輯之部10 修好門〉477頁、雄松堂出版)。一行は、元治元年五月十七日にパリを出発し、七月十八日(1864年8月19日)、ピ・オ汽船会社のガンジス号にて横浜港に帰国する。なお、『遣魯傳習生始末』という本の194頁に、この一行の帰国の時に、同心町に住んでいた権之丞の老父が、大塚箪笥町にあった、マルセイユで黄熱病のために客死した随員の横山敬一(前掲書『遣魯傳習生始末』によれば、彼横山敬一の実家の横山家は加賀前田藩家老横山家の親戚筋にあたる家であったという)の家を訪れたという記述がある。すなわち、「松濤の老父は使節一行の横浜安着を報じ、且つ安心すべき旨を告げて辞去した。(中略)松濤の父はわざわざ同心町より、大塚箪笥町まで訪れたのであるから、安着を語る以外に、特殊な用件があったものと解される。すなわち松濤は当時パリより横山看病のため、マルセイユに下りたる一人であるから、老父は横山の死を篤と承知していたものと言わねばならない。しかし、横山家のただならぬ雰囲気を察知し、弔慰の言葉も言えずに、ただ安心すべき旨を告げて辞去したものと察せられる。」と書かれている。
 フランスから帰国した後の権之丞については、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応三年十一月には古谷作左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になったという。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当するようになる。今の東京都足立区の五兵衛新田に新撰組組長近藤勇を訪ねたのも、捕縛された近藤勇宛に書簡を送ったのもこの頃のことらしい。

                **

(1)勝海舟から権之丞宛ての書簡

急便を以て申入れ候。さて船橋・松戸・流山辺へ脱走の者、甚だ多勢相集まり居る候旨、粉々相聞え候。猶亦(なおまた)御尽力、精々取締り方、然るべく候。尤も官軍も追々入府(江戸入り)従って御処置振り相貫き、条理相立ち、聊(いささか)も不審の廉(かど)これ無く候様、呉々も御取り斗らい然るべく候。若(もし)万一ホウ(「火」偏に「包」)器(ほうき)等持参の者もこれ有り候はば取揚げ置き、自民へ対し暴挙これ無く、手に余り候はばひそかに召捕り御処置等も苦しからず、御恭順の処へ対し軽挙これ有り或いは殺伐の事これ無き様、呉々も御心得専一に存じ候。右再応申入れ候。頓首

三月十五日 安房

権之丞殿
其外御出役衆

(2)権之丞から近藤勇宛ての書簡

昨日は不慮の事件、御察し申し候。就いては江戸御趣意の旨、御同様、異心なき趣、御演舌の由、承知仕り候間、勝房州よりの達書、御待ち具し候いて確証を以って十分に仰せ立てられ候様仕りたく、別紙は房州の直書に付き分明相分り申すべく候。此の段、取り急ぎ
粛白

四日

(以下は、封筒に書かれているもの)
大久保大和様 松濤権之丞
   御所一披

[*なお、江戸東京博物館の落合先生より、上の読み起こしについて、読み誤りがかなりあることをご指摘頂きました。]

                **

 恭順工作の仕事はかなり大変だったようである。結局、権之丞はこの恭順工作の最中に落命する。権之丞の最期については次のような話が伝わっている。

[伝承されている話]
 慶応四年のある日のこと、勝海舟のもとから、江戸の小石川茗荷谷の窪地にあった権之丞の屋敷に使いが来て、「館山にいる榎本武揚たちを説得したいので手伝って欲しい」とのこと。権之丞は馬に飛び乗って、館山へ向かった。その帰り、上総姉ヶ崎の某所で、会議中に刺されて死んだ。享年34歳。

[「幕末維新史事典」(新人物往来社)151ページ]
 慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)、松濤権之丞(幕臣)二心あるとの疑いによって、撤兵頭取並松田や組頭らに斬殺される。

[「旧幕府」所載史談会記事(明治33年3月18日於上野東照宮社務所)江原素六談]
(前略)
私(江原)は死を決して脱兵をまとめようと思い、上総木更津へ参りました。このときの撤兵頭は福田八郎右衛門、第一大隊長は私、第二大隊長は堀岩太郎、第三大隊長は増田直八郎、第四大隊長は戸田掃部、第五大隊長は真野げん(金偏に玄)吉でした。(中略)4月17日は丁度権現様のお祭り日ゆえ一同でお祭りを致し、福田八郎右衛門がまず作戦計画を致しました。そもそも上総へ脱走しましたのは、江戸では何事もできず、一大勢力を作るには上総に屯集して、宇都宮地方の官軍の背後を襲うか江戸に逆さまに入るかというような方法を取らむと計ったのです。(中略)こういう次第でついに計画は決し、木更津は不都合ゆえ、国府台(鴻之台)地方へ押し出して居らむと海岸を沿うて船橋へ参りました。(中略)第一大隊は八幡の法華経寺、第二は船橋、第三は姉ヶ崎に屯集しましたが、第四第五は上総の萬里谷に滞陳し戦争は急に終わる様子もございませんでした。(中略)油断は少しも致しませんで、番兵を配置し、哨兵線をしきて十分に警戒しておりました。鎮城府日誌をご覧になれば詳細に書いてございます。こういう様子でしたが、戦争の起こりましたのは、まったく次のような取り扱いから衝突を致しましたのです。その時、田安殿の家来で松濤権之丞という人が来まして、謹慎の実を表するためには兵器を出すべしとの談判でしたが、私共はなかなか聞き入れは致しません。こちらにも見識があるからお帰りなさい、と言って帰しましたが、松濤は前説を主張し、わが隊の増田と激論を致しました。で終に斬り捨ててしまいました。(後略)

[「江原素六先生伝」(大正12年刊)106~107ページ]
(前略)
四月二十八日先生の第一大隊中山法華経寺に入るに及び堀隊は船橋に進み、増田隊は五井に留まる。官軍これを見、兵を動かさずして降さんとし、田安家の家臣松濤権之丞を派遣し、謹慎の実を表するため兵器を官軍に納めよと命ぜしむ。隊長増田直八郎は松濤と激論となり、終に松濤を斬ってその首を木更津に梟す。(後略)

[当時の新聞『もしほ草』に掲載されている記事]
 閏四月六日、歩兵頭松濤権之丞といふ人、上総の姉ヶ崎にて暴人に殺されたり。ある人の曰く、この人は取締といふ役になりて、両総の辺に屯したる脱走人、または百姓一揆の取鎮などに力をつくしたりしが、其ころ脱走の兵士あまたあねがさきに滞留したるよしのきこえありければ、追討のために官軍おほく進発ありける趣を、松濤ききつけて、いそぎ脱走兵の隊長にあひて、源内府公恭順の深意を説諭し、妄りに兇器を動かすべからざるの理を説しに、誰料この脱走人の中に疎漏の頑物ありて、松濤をうたがひて、かれは官軍に通ぜしならんとて其夜ひそかに宿所にまねきよせ、不意に鉄砲をうちかけ、かたなを抜いて左右より斬り殺したり。誠にかわいさうなる事なり。この人はよき人にて世に益あるべき者なるべしと人々もおもひたのみたるを、かくむごきめにあひて、忠義の心もとほらず、非命の死をとげしは、くちをしきことなり。その所のむらさかひに松濤の首をばさらしおきけるが、その夜たれかとりしとぞ。

[権之丞を木更津まで送り届けた徳川海軍の軍艦『蟠龍』の乗組員、蘆田退三の日録より]
(軍艦『蟠龍』は四月二十八日に総督府側へ引き渡さなかった四艦〈開陽、回天、千代田形、蟠龍〉の一つであり、したがって次の日録の記述は、四月二十八日以降のものと考えられている)
 九時四十分、押送艦ニテ海軍所ヨリ松濤権之丞・荒田平之丞来艦、総督(榎本武揚)暫ク議論。之ヨリ終ッテ右両人ハ木更津ヘ上陸ス。御艦ハ即刻抜錨、品海ニ投錨ス。此ノ日、松濤ハ福田ノ宿陣ヘ赴キ面会致シ候節、福田同盟ノ者松濤ノ心中ヲ疑ヒ暗殺ス。

[勝海舟日記より]
 閏四月廿日
 寺井旦司来る。松濤権之丞横死の転末、且、跡目の事申し聞かさる。松濤、二心あるの疑いにて撒兵頭取並、松田並びに組頭□□等、切害に及ぶという。
(なお、勝は、その三日後に、松濤の家〈母波通、妻安子、長男秋作<小花作之助次男秋作か。→明治以降小花家に戻りのち伊藤家に婿入。外務省勤務。>、次男泰近<権之丞実子>〉に十二両を遣わし、組下の者へは三十六両の手当を渡したという。)

 なお、権之丞が無念の最期を遂げた地については諸説あるも、さまざまな伝承記事を総合すると、姉ヶ崎の妙経寺境内と考える説が今のところ一番有力である。

一乗山妙経寺
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/tenji/myoukeiji/myoukeiji.htm

一乗山 妙経寺(みょうきょうじ)
所在地:千葉県市原市姉崎453

《宗派》顕本法華宗

《由来》寛正元年(1460年 室町時代) 日暁上人が開山。五百年以上続く古刹であり、かつては深い緑に覆われた広い境内に多くのお堂が建立されていた。江戸時代には鶴牧藩士の崇拝を集め、鶴牧藩の要職・ゆかりの人々が眠っている。また、多くの鶴牧藩士の菩提寺として現在も引き継がれている。昭和47年、姉崎駅前区画整理計画が認可され、平成6年から墓地移転整備工事が始まり、平成12年6月墓地移転整備工事が完成した。この工事で新たに鐘楼堂、山門等が建立され、現在の景観となる。平成12年6月11日、事業の完成を祝う稚児行列、雅楽が伴う天童音楽落慶法要が営まれた。

《由緒》徳川光圀の紀行文『甲寅紀行』の《妙経寺宿泊》の項には「この寺には日蓮直筆なる長さ二尺の曼荼羅あり、また徳川家より所有地10石を安堵する御朱印が四通あり」と書かれている。

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1 コメント

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新鮮な驚きでした。 (横山 潤一郎)
2007-02-21 11:43:22
貴重なトラックバックをありがとうございました。記事を拝見して、遣仏使節一行帰着後のエピソードを初めて知った次第です。ちょうど10年前にマルセイユまで墓参に行き、再度の墓参の話を家族としたばかりなので、今回のコンタクトも何かのご縁なのだと感じ入りました。まずは御礼まで。

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