カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

取り敢えず。

2018-03-13 20:58:40 | Weblog
メモです。


〈以下、引用部分〉
慶応四年三月十六日、甲府から戻った新選組が浅草今戸の銭座を引き払って布陣していた五兵衛新田を、勝海舟配下の軍事方の一人、松濤権之丞が訪れています。
この松濤は田安家の臣で、幕府内部の恭順工作を担当していたのだけれども、その彼に五兵衛新田を訪れる前日、勝から書面を持って以下の命令が達せられている。

急便を以て申入れ候。さて船橋・松戸・流山辺へ脱走の者、甚だ多勢相集まり居る候旨、粉々相聞え候。猶亦(なおまた)御尽力、精々取締り方、然るべく候。尤も官軍も追々入府(江戸入り)従って御処置振り相貫き、条理相立ち、聊(いささか)も不審の廉(かど)これ無く候様、呉々も御取り斗らい然るべく候。若(もし)万一炮器(ほうき)等持参の者もこれ有り候はば取揚げ置き、自民へ対し暴挙これ無く、手に余り候はばひそかに召捕り御処置等も苦しからず、御恭順の処へ対し軽挙これ有り或いは殺伐の事これ無き様、呉々も御心得専一に存じ候。右再応申入れ候。

頓首

三月十五日

安房

権之丞殿其外御出役衆

書面にある船橋、松戸、流山はいずれも代官支配地で、多くの領民が幕府歩兵に徴発され、長州征伐のさいは、地域の豪商から多くの献金がなされた。
このような土壌の特性が脱走兵の温床となっており、これらが軽挙をしないように鎮撫せよと、勝は松濤に命じているんですよ。

つまり、近藤は松濤から船橋・松戸・流山辺に跋扈する脱走兵取締りの協力を要請され、これに応じて流山へ陣を張った。
ところが四月三日、流山において近藤が香川敬三率いる東山道先鋒総督府軍宇都宮斥候隊によって身柄が拘束され、板橋の本営に連行されてしまう。

そして、松濤が板橋本営に連行された近藤勇へ宛て、

昨日は不慮の事件、御察し申し候。就いては江戸御趣意の旨、御同様、異心なき趣、御演舌の由、承知仕り候間、勝房州よりの達書、御待ち具し候いて確証を以って十分に仰せ立てられ候様仕りたく、別紙は房州(勝)の直書に付き分明相分り申すべく候。此の段、取り急ぎ
粛白

(慶応四年四月)四日

大久保大和(近藤勇)様

松濤権之丞

御所一披

という書簡を認め、先の三月十五日に勝から下された船橋・松戸・流山辺に跋扈する脱走兵取締りの命令書とともに新選組隊士相馬主計に届けさせた。
近藤に、江戸(恭順派)の方針通りに脱走兵の鎮撫に努めていたのだと、勝から達せられた命令書をもって押し通せと奨めているんですよ。

ただ、土方歳三が勝の元を訪れて流山の顛末を語ったのが四日であり、松濤が認めた手紙の日付も四日。
したがって、手紙と勝からの命令書を相馬をもって板橋の東山道先鋒総督府軍本営板橋本営に届けさせたのは、松濤の独断と考えるのが妥当。
つまり、勝はかかわっていない。

もっとも、板橋本営では大久保大和が近藤勇であることがすでに看破されており、流山から付き添っていた野村利三郎とともに、相馬も東山道先鋒総督府軍によって捕縛され、松濤の苦肉の策も水泡にきっしてしまったんですけど。


補足

慶応四年四月三日、下総流山の陣を東山道鎮撫総督府軍の宇都宮斥侯隊に包囲された近藤は、投降したというのが通説。
しかし投降したのではなく、「流山へ布陣している理由を問い質すから越谷本営まで出頭するよう」求められ、これに応じたんです。

このとき、宇都宮斥侯隊は流山に布陣しているのが新選組だとは知らず、近藤も旧幕臣・大久保大和として野村利三郎と村上三郎を従え同行するのですが、越谷本営に着いたさい、「大久保大和守は近藤勇ではないか」と言い出す者が現れた。
それは、彦根一小隊隊長の渡辺九郎左衛門で、彼は京都で近藤を見知っていたんですよ。
これにより、近藤は板橋の総督府に連行されるのだけれども、このさい土方以下を落とすように言い含め、村上を流山へ返した。
そして、この翌日に土方が勝の元を訪れ流山の顛末を語った。

土方が勝の元を訪れた正にこの日、越谷から板橋本営に身柄を移された近藤は、新政府の探索方として従軍していた元御陵衛士の加納鷲雄と武川直衛によって、「大久保大和守は近藤勇」であると看破され、捕縛されてしまったんです。
〈引用部分、以上〉
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