カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

「ジョゼッペ・カスチリョーネ」のことなど。

2006-02-24 13:38:32 | Weblog

 メモです。

 惹かれる歌のこと。

 永田和宏歌集『百万遍界隈』(青磁社)より。

どれもどれもふくみわらいをしているよおたまじゃくしが水槽に太(ふと)る 永田和宏

 読みながら思わず笑いがこぼれてきそうになりました。上句のやわらかで温かいリズムとテンポがじつに心地いいです。やさしい童謡のような味わいのある一首で、好きな作品です。

濡れながら若者は行く楽しそうに濡れゆくものを若者と言う 永田和宏

 三句四句結句での、「楽しそうに濡れゆくもの」こそが「若者」なのだ、と規定している部分が非常に魅力的だと思います。「楽しそうに濡れゆく」からは、ある映画で見たことがある、雨の中、傘も差さずに外に出てきてゲラゲラ笑いあっている若者たちの姿がなんとなくイメージされました。面白い作品だと思いました。

ジョゼッペ・カスチリョーネ老い深くして支那服の膝に射す陽は斜めに射せり 永田和宏

 初句の「ジョゼッペ・カスチリョーネ」に思わず目を惹きつけられました。歴史上の人名を詠み込んだ作品として、すごく魅力的なうただと思います。惹かれます。

                *

「ジョゼッペ・カスチリョーネ」(上の画像は彼の作品の一つだそうです)

 16世紀に中国で活躍したイタリア人の画家。中国名は郎世寧。本名はGiuseppe Castiglione。27歳のときに中国に渡り生涯中国で画家として活躍した。

                *

華世旅行社有限公司のサイト
http://www.chinaworld.com.hk/hkint/hi_0046.html

『第46回●シルクロードからきた花嫁』(by 東 紫苑さん)


<乾隆帝のウィグル妃・香妃>

清朝初期、イタリアのカスチリョーネという宣教師がいたが、今でも西洋絵画の写実的な技法で多くの絵が残されている。カスチリョーネの作品と伝わる「香妃戎装像」という絵がある。女性が鎧兜に身を固める勇ましい絵だ。民国時代、承徳の避暑山荘の蔵から出てきたこの絵には「事略」がついていた。
「香妃は回部の王妃なり。姿色美し。生まれて体に異香あり・・・。」
に始まる香妃の物語である。
「香妃はウィグル部の王妃であった。美しく、生まれながらのかぐわしい体臭があったので、香を焚きしめる必要がなかった。このため人々は彼女を『香妃』と呼んだ。」

<シルクロード、ホージャ兄弟の乱>

乾隆二十二年(一七五七)、新疆ウィグル部カシュガルでホージャ兄弟による反乱が勃発。香妃はホージャ兄弟・弟の方ホージャ・ジハーンの妃だった。その美貌は北京の皇帝の元にまで伝わっていたので、乾隆帝は興味津々だ。清軍はホージャ兄弟をパミール山中に追いつめその首級を取ったことで、反乱は平定された。反乱軍の首謀者だったホージャ一族の女たちは皆生け捕りにされて北京へ送られた。その中に香妃も入っていたのだ。清朝から総大将として派遣されてきた兆恵は、部下たちのうわさで、香妃の美しさを知り、召見し、やはり息を呑んだ。これは乾隆帝がさぞお待ちかねだろうと考え、北京に早馬を走らせた。
「陛下、ホージャ・ジハーンの妃を生け捕りました。噂にたがわず絶世の美人です。」
乾隆帝はその到着を今か今かと待ちこがれた。北京で乾隆帝に謁見した香妃は泰然としており、堂々と胸を反り返らせている。勇者のような威圧感さえあり乾隆帝はその魅力にすっかり夢中になってしまった。ぜひとも自分の物にしたいが無理強いはいけない。先ずは宦官をやって説得に当たらせた。ところが香妃は毅然と言い放つではないか。
「国を滅ぼされ、夫を殺された私にこわいものなんてありません。陛下がどうしても無理強いなさるなら身に付けている白刃を飲んで死にます。」
泡を食った宦官は、転がり逃げるように皇帝に報告に行った。乾隆帝は苦笑いだ。
「おやおや・・。勇ましいことじゃ。まあ良いわ。しばらく落ち着くまでお仕えしなさい。」
ちなみにカシュガルは昔から、シシカバブの鉄串や刃物の産地として知られている。小さな護身刀はいつでも身につけていたのだろう。

宮廷は狭い社会だ。この異国の美女の噂はあっという間に知れ渡った。これを耳にはさんで眉をしかめたのは乾隆帝の生母である太后である。乾隆帝は有名な孝行息子なので母に言われたことには逆らえない。
「陛下、あのウィグルから連れてきたという女は何ですか。刃物を振り回してるそうじゃありませんか。物騒な。大事な息子に何かあったらどうするんですか。」

それでも乾隆帝は母后をなだめたが、太后はやはり安心できない。妖しい異国の女に大事な息子の寝首でもかかれたらえらいこっちゃ。ある日息子の留守をねらって自分の住む慈寧宮に香妃を呼びつけた。
「おまえは皇帝にも屈せず、一体どうしたいんだえ?」
「ただ死ぬことだけが望みです。」
「そうかい。では死を賜おうぞ。」
太后は次の間の梁に紐をぶら下げさせ、香妃の自殺の用意をしてやった。乾隆帝が帰ってきたときにはもう香妃は冷たくなっていたのだ。茫然自失の皇帝は深く悲しみ、その遺体を百人の兵士に守らせて遥かカシュガルまで送り返したという。その隊伍は三年かかってカシュガルに到着した。香妃はカシュガル郊外にある香妃墓に今も安らかに眠っている・・・。

<もう一人の香妃=容妃>

以上がカスチリョーネの絵から広く世間に伝わった香妃伝説である。ところが清朝の史料に「香妃」の名はない。その代わりに容妃というウィグル族の妃がいたことが記録に残っている。今ではこの容妃が香妃である、というのが定説だ。容妃はカシュガルのアリ・ホージャの娘で名はジャムツム。(ウィグル族に姓はなく、名前のあとに父親の名前をつけて姓の代わりとする。)法名はシパルハン、これはウィグル語で「芳香漂う」という意味である。香妃の名はこれに由来している可能性が高い。つまり容妃はホージャ・ジハーンの一族ではあったが、その妃ではなかったのだ。しかも兄のトルドはホージャ兄弟の反乱に反対し、清軍に加わってホージャ兄弟と戦っている。反乱が平定された後その戦功により北京に招待され、晋国公に封ぜられたのだ。そしてそのまま一族で北京に定住した。妹である容妃もこのとき随行している。

乾隆二十五年(一七六0)、容妃、二七歳で入内。和貴人に封ぜられる。ちなみにこのとき乾隆帝五十歳だ。二七歳といえば、当時としては姥桜である。これは作者の勝手な勘ぐりだが、初婚ではないと思っている。当時十代後半で確実に嫁に行く時代に二七歳まで独身であったとなれば、この女性はよほど問題ありだ。しかし容妃の清宮での立ち振る舞いはスマートでバランスが取れている。よってどこかしら問題があった女性とは思いにくい。あるいはこの反乱で本当に夫を亡くしているかもしれないし、ウィグル女性は今でも再婚にはおおらかだから、自然に嫁いだのかもしれない。ともかくこの縁談は政略結婚のにおいが濃厚だ。乾隆帝はウィグル人女性を後宮に入れて寵愛すればウィグル族の心をつかむことができ、辺境の安定につながる。ウィグル族側としても反乱に破れた以上は、中央でなるべく勢力を得たい。そんな双方の思惑の象徴が容妃だったといえる。

<容妃の金髪>

容妃は乾隆五十三年(一七八八)、五四歳で亡くなり、今は天津の北、清東陵の裕陵に眠る。八二年に中国政府の発掘調査があったとき、容妃の遺体には黄金色の頭髪が残っていたという。さらに骨格検査の結果、ウィグル人の体格的特長を備えていることが確認された。そして棺の上にはウィグル文字でコーランの一説が刻み付けられていたのだ。容妃が本当にウィグルからきたことが確認されたわけだ。

乾隆帝は容妃が民族の習慣を維持できるようにいろいろ気を配った。ウィグル式の宮殿を建てて住まいに提供、ウィグル人コックを召して毎日ウィグル料理を食べさせた。このウィグル料理は時には宮廷のほかの人をも楽しませている。王侯や大臣を呼んだ宴会にシシカバブが供されたことが記録に残っているのだ。さらにウィグル雑技団を時折宮廷に呼んでは皆で鑑賞した。実はこのホージャ兄弟の反乱後、容妃兄弟だけでなくかなり多くのウィグル人が北京に強制移住させられている。乾隆帝は西長安街の南側(現在の人民大会堂の辺り)に回回営(回人居住区)を設け、モスクも建てた。容妃が宮廷でホームシックにかかってはいけないから、と宝月楼に上ることを奨励した。宝月楼はちょうど回回営の向かいにあり、そこに上れば同族たちの住む町が眺められるのだ。ちなみに宝月楼は今の中南海の新華門である。

ではカシュガルの香妃墓に眠っているのは誰?・・・と思う人もいるだろう。この時に連行されてきたウィグル女性が容妃一人だけではなく、大量にいたに違いない。そして各皇族、大臣、官僚の家に分けられた中、命張って抵抗した女性もいただろう。香妃伝説はそんな多くの香妃らを集大成したものだ。そしてカシュガルの香妃墓に眠っているのもそんな香妃らの一人に違いない。(了)
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