先週卒論手帳を提出したのだがもう帰ってきた。
レポートと違ってスピード感には毎度感心させられる。まぁこの時期は暇になるからかもしれないが、いずれにせよありがたいことである。
前回の講評では、なんで作者のフィッツジェラルドが最後にギャツビーが殺されるというエンディングにしたのかを考えるように書かれていたが、逆にギャツビーが殺されないとしたら、どんなエンディングが考えられるだろう。
1、デイジーが真犯人であることをウィルソンが突き止め、彼女を殺す。そして、怒ったギャツビーがウィルソンを殺す。
ありえない設定だ。ギャツビーが裏の世界で成り上がったであろうことから、人殺しをしてきたことは考えられるが、小説の中のギャツビーは、紳士的で、ロマンティックで人の道に外れたことを、あからさまに行うような人物ではない。、この設定にはかなり無理がある。もし、そうさせたら、この物語は崩壊してしまう。それに、男3人生き残ってしまうと、なんかバランスが悪いし、これはないだろう
2、ギャツビーを殺しに来たウィルソンが返り討ちにあう。その後、誰の差し金でやって来たのかウィルソンに口を割らせ、手下にトムを殺させる。そして、デイジーとめでたく結ばれる。
通常であれば一番あり得る話である。ギャツビーは資産家の息子などではなく一代で、というか、わずか5年でNY郊外に大邸宅を持てるまでに成り上がった男である。常識的に考えて当然、敵もいただろうし、そのための身辺警護として屋敷内には用心棒的な男を雇っていたと思われるが、それではあまりにオーソドックスすぎる。やはり裏の世界で成り上がったとはいえ、ロマンチシズムを忘れないギャツビーのイメージが崩れてしまう。
コッポラの映画の中のディジーは、なんでギャツビーはこんな女に惚れるんだろう、と思わせるくらいのバカ女を演じさせている。まるで純粋でロマンティックなギャツビーとは不釣り合いだと、あえて言いたげでもある。小説を読んでいるとギャツビーとデイジーは本質的に違うことがよくわかるので、たとえ最後に2人が結ばれても、その後の幸福な将来を想像できない。
それにギャツビーはもともと裏の世界の人間であり、表の世界にいる育ちのいい資産家たちと張り合うためには、裏の世界で生き続けなければならない。そんなギャツビーが表の世界に生きるデイジーに恋して、いま表の世界に進出しようとしている。しかしそれはしょせん無理な話、では裏の世界に生き続けるか?それも無理、彼はヤクザでありながらワルになりきれない部分を多々持っていた。
と考えると、行き場のなくなったギャツビーが殺されるようにしたのは至極当然なのかもしれない。
当時はロストジェネレーションの時代だ、同じキリスト教徒が戦場で殺しあう風景を見て、それまで教えられてきた道徳観や価値観に疑問を持ち、どこに向かったらいいのか分からない迷える世代であり、ギャツビーはいまだその古い価値観に従って生きようとしている。そういう時代背景を考えてるとギャツビーは当時の時代にもそぐわない考え方しており、やはりギャツビーが殺されるというエンディングが一番しっくりくるとおもう。
さて、話は変わってこのロストジェネレーションだが、「失われた世代」「迷える世代」「自堕落な世代」といろいろ訳しているが、どれが正しいのだろうか?
僕的には迷える世代が一番分かりやすいような気がするのだが、先生は「失われた世代」と書いている。何が失われたのだろうか?、過去の道徳観や価値観?それなら分かるが、どうも回りくどい。「失われた世代」とか「自堕落な・・・」と訳す人はロストジェネレーションに関して違った理解をしているのだろうか。