原石鼎

一枝の椿を見むと故郷に
 『頂上の石鼎』 深夜叢書刊
『二冊の鹿火屋ーー原石鼎の憧憬』 邑書林

ブログ《めぐり逢うことばたち》より転載

2009年11月24日 | 頂上の石鼎
めぐり逢うことばたち》は何故か部分リンクが適確にできないので、全部無断でコピーさせていただいた。
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岩淵喜代子『評伝 頂上の石鼎』 2009年 11月 14日
 読書人を自認する人にぜひ一読をお勧めしたいのが岩淵喜代子さんの著書『評伝 頂上の石鼎』(深夜叢書社)。今では忘れ去られた感のある原石鼎(はら・せきてい)という俳人を多角的に追った破格の評伝である。「忘れ去られた」というのは失礼な物言いかもしれないが、俳句に親しんだことのない人には名前は聞いたことがあっても代表的な句さえ思い浮かんでこないのではなかろうか。それゆえに、よほど大きな書店でないと書棚に並んでないだろうし、ましてそれが俳句コーナーに並んでいるとすれば一般の人には手にとられることさえないのではないのではなかろうか。
 が、石鼎のことをほとんど知らなくてもいい。石鼎の句一つ知らなくても挿し障りはない。私自身がそうだったのであるからこそ、読書の醍醐味を知っている人にぜひ読んでいただきたいのである。筆者の石鼎を語る語り口に魅せられ、石鼎その人にいつか会ったことのあるような気にさえなってくるのである。

 この本に触発されて求めた石鼎夫人・原コウ子さんの書かれた『石鼎とともに』(明治書院/1979.12)を読み、あらためてこの『評伝 頂上の石鼎』を再読しつつ、ようやくこの本の魅力のよってくるところが奈辺にあるか少しわかってきた気がするのですが、そうしたことも石鼎の作品を紹介しつつ、また岩淵さんにならって石鼎の跡をちょっと追いながら、おいおい書いていきたいと思っています。

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竹村秋竹編『明治俳句』 2009年 11月 07日
 なんと高岡市立図書館に竹村秋竹編『明治俳句』がありました。

 岩淵喜代子さんの『評伝 頂上の石鼎』を機縁に調べだした竹村秋竹ですが、中川富女のこともふくめ知らないことが多くて、楽しみながら、かつ首をかしげながらの数日を過ごしました。「首をかしげながら」の部分は、説明が必要ですが、後日のことにしましょう。

 実は、先回の秋竹の項、なんども書き足したり書き直したりしています。こっそりと「松山生まれの」という言葉も後で補ったのですが、竹村秋竹は正岡子規を生み、高濱虚子・河東碧梧桐を生んだ近代俳句生誕の地ともいえる松山の生まれなのです。そうなると「坂の上の雲」の世界になってしまうのですが、この松山衆三人、とりわけ子規、碧梧桐との関係のなかで秋竹はその短い生を送ることになるのです。

 そこで冒頭に掲げた『明治俳句』の話題に戻るのですが、この書、子規が「近頃出版せられたる秋竹の『明治俳句』は果して何らの目的を以て作りたるか。(中略)もし余の邪推を明(あきらか)にいはば、秋竹は金まうけのためにこの編纂を思ひつきたるならん。」(「日本」掲載の『墨汁一滴』/三月十日の項参照)と激しく指弾したことで、ちょっといわくつきの本になってしまったようなのです。

 この『明治俳句』、明治34年2月博文館からの発行。平凡な書名のようですが、「維新王政の復興は、明治文学の勃興となり、俳句の革新を促し、以て今日の盛況を見るに至れり。」で始まる自序に見られるように、子規によって始められた新派の方向を見定めようという気負いを、大胆にも明治時代のただ中にあって書名の《明治》に込めたすぐれた俳句集であるように思われます。そこには子規の句を中心に684ページにわたっておそらく8000句に近い秀句が新年、春の部、夏の部、秋の部、冬の部に分類されて掲載されています。
 この試みは、子規自身がわずかに残された余命を感じながらも、成し遂げようとしていたことだっただけに無断先行は許せなかったのではないでしょう。

 いよいよもって竹村秋竹に加えて、子規、虚子、碧梧桐、秋竹の人間関係など知りたいと思うことがたくさんでてきました。この人間関係の中には、秋竹が金沢の寄宿先で知り合い育て、ともに子規庵を訪れた女性俳人中川富女のこともふくまれているのです。

 ちなみにこの竹村秋竹編『明治俳句』(初版本)、大正15年に市内坂下町のKさんが「高岡図書館」に寄贈されたものでした。

〔追記〕 
 なんと――また「なんと」と書いてしまましたが――、この本『明治俳句』の各ページをnet上で見ることができます.

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《竹村秋竹》 2009年 11月 03日
 街角ですれちがった人。“あれっ、あの人どこかで逢った・・・”と思うことがあります。岩淵喜代子さんの『評伝 頂上の石鼎』を読んでいてやはり同じような思いをしました。

 原石鼎(本名・鼎)の簸川中学校時代の寄宿先でもあった教師の竹村秋竹(本名・修)の名です。「余の句好きなるかどをもつて、新任の竹村先生にもとめられ、其許に寄宿す。」(自筆年譜)とあって、そのあとに、鼎の「山陰新聞」への初投句〔1903(明36)年〕や俳誌「草笛」などの話題に《竹村秋竹》の名が出てきます。そのときは、ちょっと目がとまっただけなのですが、あとで、はて竹村秋竹・・・?と気になってきました。

 話は飛びますが、後に詩人として知られるようになる室生犀星の文学出発も俳句でした。(新聞への俳句デビューということで思い出したのです。)こちらは1904(明治37)、「北國新聞」の句掲載です。地域によって違いはあったでしょうが、正岡子規の死後まもない頃ですが彼の影響をうけた俳句運動の新しい流れが前面に出始めた時代といえるのではないでしょうか。

 (俳句の歴史に詳しくない者がこんな話を続けるのは無茶と思いながら、多少続きを書かさせてもらうことにします。)

 犀星は金沢地方裁判所の給仕!として働きながらその上司であった川越風骨や赤倉錦風といった人に俳句の手ほどきを受けたのですが、こうした人々の結社的存在であったのが子規系の《北聲会》でした。当時の指導者は第四高等学校(四高)の教授であった藤井紫影(のち大谷繞石)。――そんなことをたどりたどり思い出していて、ここで、“あっ、そうだった”と思わず記憶のピントが合ったのです。
 この《北聲会》を興した人こそ、当時〔1897(明30)年4月〕、四高の学生!だった松山生まれの「竹村秋竹」だったのです。
(つづく)

〔追記〕
 続稿がいつ書けるかわからないので先取りして言っておくと、犀星と秋竹との間に面識はありません。犀星が俳句に目覚める前に、北聲会の発足の3か月後〔1897(明30)8月〕に、秋竹は東京帝国大学英文科に進学して金沢を去ってしまうからです。
(確認はとれていませんが、年次からいって秋竹は英文科でハーンの教えを受け、帰国後講師となる漱石の顔は見ないまま卒業し、初任地の島根県簸川中学校〔当時、島根県立第三中学校に改名済みか〕に赴任し未来の石鼎〔原 鼎〕と逢うことになるようです。ただし、卒業年次と赴任の年の間に数年間ブランクがあるようです。)
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2 コメント

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Unknown (かぐら川)
2009-11-25 07:07:36
 すみません、わざわざコピーしていただいて。
 書評の態をなしてない「お薦め文」で申しわけありません。文中にさりげなく?書いた「破格の」というところを、敷衍してきちんと書く力があればいいのですが・・・。
 石鼎は、普羅がことさら北陸に居を構えたのとは対照的に、我が北陸とあまり縁のない俳人生を送ったようですが、しいて言えば竹村秋竹と安田平安居が、かすかな北陸との接点でもあるようです。
 実は安田平安居は岩淵さんの本で初めて知った人物なのですが、ちょっと調べようにも手掛かりがない状態です。安田善次郎の四男ということから、おいおい追いかけてみようと思っています。
Unknown (岩淵喜代子)
2009-11-26 01:55:37
そうですか。わたしもこの人を石鼎の弟子としてしか知りません。実は正津勉氏が現在「ににん」で碧梧桐を書いていますが、前田普羅にも興味を持っています。しかし、前田普羅についても、書いたのは中西舗土以外にいないと嘆いていました。

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