原石鼎

一枝の椿を見むと故郷に
 『頂上の石鼎』 深夜叢書刊
『二冊の鹿火屋ーー原石鼎の憧憬』 邑書林

炎天や白扇ひらき縁に人  原石鼎  大正9年 

2018年07月17日 | 7月・石鼎俳句鑑賞
 西日本豪雨の被災地でボランティアが炎天下黙々と働いておられる姿を見ると頭が下がる思いがする。
 被災地のみならず、連日の猛暑に熱中症の発症が急増している。
 やむなく外出を控え、冷房に閉じこもっていたが、テレビでは、炎天下の街中を、然も暑そうに扇子を使って行き交う人々が映し出された。

 これを見て、石鼎の「炎天」の句にはたと合点がいった。
 そういえば、クーラーのない時代、朝から晩まで外の暑さと同じ状態にいるわけだから、縁側に出て扇子、しかも涼味ある白扇を使うのはもっともであった。
 日本の家屋なら、暑気を凌ぐことが第一義であり、もとよりビルの一つもない頃とて風通しも満点であったろう。
 それでも、炎天というやりきれない暑さに人はささやかにも独り静かに抗するのである。

 以前はこの句が何やら涼しげで、ピンと来なかったのは、俳句的概念で「白扇」を季語として感じることが先立っていたのだろう。猛省するばかりである。

「炎天や」と、切字「や」でもって、「白扇開き縁に人」との空間を大きく引き離しているところが、見事である。
 石鼎の句は現場証拠そのもの。
 本当に見たものをそのまま描写するという姿勢に徹して、「炎天」という季題の機能を十二分に働かせているのである。

(草深昌子=「青草」主宰・「晨」同人)

いちさきにつもる枝見よ春の雪    原石鼎 昭和6年

2018年03月18日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 春の雪は溶けやすいというイメージがあるが、思わぬ大雪となることもあって、一概には言い切れないのが自然現象のありようである。
 だが掲句は、やはり淡雪であろう。
 はかなげにも、見る間に積もりはじめた雪の美しさに作者自身がもう目を瞠っているようである。
「いちさきにつもる枝見よ」という、やや急き込こんだような言い方そのものでもって、読者もまた引き込まれるように束の間の美しい光景を見せてもらえるのである。
 紅梅であろうか、椿であろうか、いずれにしても純白の雪に垣間見えるのはほんのり赤い花の枝のように思われる。

 この句を含め石鼎の3句が、現代俳句協会から発行された『昭和俳句作品年表』(戦前・戦中篇)の昭和6年の部に掲載されている。

  いちさきにつもる枝見よ春の雪     原石鼎
  雛買うて杣雪山へ帰りけり        〃
  鯉はねて画室濡らせし雪夜かな      〃


 この他、昭和6年には、「昭和の名句」として名高い作品が屹立している。
 この年は、かねてから高野素十と写生論の違いのあった水原秋櫻子が、「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表して、高濱虚子の「ホトトギス」を離脱した年として記憶に残るものである。

  わらんべの溺るるばかり初湯かな    飯田蛇笏
  金剛の露ひとつぶや石の上       川端茅舎
  生涯にまはり燈籠の句一つ       高野素十
  紅梅の紅の通へる幹ならん       高濱虚子
  みちのくの伊達の郡の春田かな     富安風生
  降る雪や明治は遠くなりにけり     中村草田男
  今朝咲きしくちなしの又白きこと    星野立子
  そら豆はまことに青き味したり     細見綾子
  水仙や古鏡の如く花をかかぐ      松本たかし
  夜の畦を偃ふ梅ありて行きがたし    水原秋櫻子
  吸入の妻が口開け阿呆らしや      山口青邨
  かたまって薄き光の菫かな       渡辺水巴

 現代俳句の基礎ともいうべき昭和2年からの十年間の時代は、石鼎の40歳代、まさに壮年期にあたるものである。
「春の雪」、「雛」の句にも絵画的センスがよく出ているが、〈鯉はねて画室ぬらせし雪夜かな〉には、俳画展を度々開くなど、絵を書くことに熱中していた石鼎を浮き彫りにしている。

(草深昌子=「青草」主宰・「晨」同人)

そぞろ出て日永に顔をさらしけり(苦吟)   大正3年

2018年02月28日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 一年で一番日が永いのは夏至の頃であるが、実際の暮しの中では二月も末頃から日が永くなったことを感じる。
 春分が過ぎると、のんびりした気分もピークとなっていよいよ日永を実感するものである。
 さて、石鼎はその日永を、ただちょっと外へ出てみたまでのこととして詠いあげた。
「そぞろ出て」という間の取り方の巧さ。
 日永がまるで顔に触れて感じるもののように、ほおーっと息をつかせて、気分を一新させている。

「日永」と言えば、

  永き日のにはとり柵を越えにけり   芝不器男

 不器男の名吟が浮かび上がってくる。
 大正15年、不器男23歳の作品である。

 思えば、鶏がふいに柵を越えたのと、石鼎がふと外の空気に触れに出たのと、その感覚は同じではないだろうか。
 不器男の作品では、鶏が柵を越えるときの滞空時間のようなものがスローモーションに見えてくる。
 そして、その後には駘蕩たる時空があるばかりというものであるが、石鼎もまた、そぞろ出たあとは、じっと立ち尽くすことによって、時空そのものを表出しているのである。
 表現はまるで違うように見えて、天性の才ある人の日永の感受の仕方はほとんど似ている。
 日永の空気を一瞬打ち破ることにおいて、いっそう日永の倦怠感を感じさせるというものであろう。

 石鼎は28歳、「苦吟」の前書きをもって一句の味付けをいささか渋くしている。

 同じ大正3年に、もう一句。

    独身
   日永さに春菊摘まんなど思ふ      大正3年

 これも「独身」の前書きが絶妙に効いている。
 日永さをやや持て余すものながら、その情感はむしろ瑞々しい。
 前書きのおかげで「春菊」がいよいよ新鮮、色彩に一つロマンが加わったようである。
 春菊を摘んだと言わずして、「摘まんなど思ふ」と言われると、作者の気分がそのまま読者に乗り移ってくる。
 さらに、摘まんかと思う、でなく「など思ふ」というあたりも心憎いばかりである。

 ちなみに、
 大正3年は、高濱虚子がホトトギス誌上に「大正2年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と記した年である。

   花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月   大正2年
   淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守     〃
   蔓踏んで一山の露動きけり        〃
   筑紫路はあれちのぎくに野分かな     〃
   磯鷲はかならず巌にとまりけり      〃

 大正2年の石鼎は、吉野の村人の期待に応え、熊本医学専門学校へ編入せんとしたが、俳句を止めなければ学資は出せぬと父に拒絶され、ついに医学を断念、放浪生活に入っている。

 境涯を知れば、「苦吟」、「独身」というやるせなき心情を、「日永」という季題に仮託したものと言えるかもしれない。
 だが、はじめに鑑賞してきたように、境涯を被せない方が、純粋に日永の情が感じられて好ましい。
 むしろ、前書きは無くもがなであったかもしれない。

 何れにせよ、石鼎の生涯のうち、「日永」を詠ったのは、この年のこの2句のみである。


(草深昌子=「青草」主宰・「晨」同人)

草庵や屠蘇の盃一揃    大正14年  

2018年01月18日 | 1月・石鼎句鑑賞
 「草庵や」という打ち出しに、正月を迎えた厳粛な佇まい、すっと伸ばした背筋のほども見えるようである。
 正座の前には、朱塗りであろうか黒塗りであろうか屠蘇器の一揃いが正しく置かれている。
 屠蘇を入れる銚子には年神様よろしく水引が結ばれ、屠蘇をいただく盃は大中小の三つが美しく重ねられている。屠蘇台には松竹梅が大きく彩られていることだろう。
 「一揃」とは、あたりの邪鬼を一切祓って、いまここにあるのは淑気そのものだと言い切っているのである。
 草庵といえば、文字通り草の庵、粗末な家ということであるが、この草庵こそは石鼎にとって最も胸の張れる居場所であったに違いない。
 隠遁というほどではないが、脱俗的生き方がわが家を草庵と言わせるのである。
 草庵であることが、目出度いのだ。
 質素であっても、伝統に繋がって生きる者の豊かさに自負を匂わせている。
 ひそかにも満ちたりた思いがふつふつと込み上げたことであろう。
 年配の趣すら感じられるが、この年、石鼎は39歳。
 一年数カ月前には、関東大震災の大ショックを受けたばかりであった。以後に来たした神経衰弱も、ここには鎮められている気配である。

 関東大震災の前、大正10年には、明るい正月風景が詠いあげられている。

  打ちあげし羽子翻るとき日の光    大正10年
  外れ羽子の大注連に添うて落る時
  つきあげし羽子の白さや風の中
  外れ羽子の斜にとんで風の中
  遣羽子の聊かの色を好みけり
  遣羽子の影いづれともなく逃げし
  色羽子の咲くごとく生きて松へくだる
  
 「屠蘇」の句も、「羽子」の句も、としどしの正月を迎えるその心は、天地への敬虔なる思い一つのように感じられる。

  天地をいたはりみるや去年今年   昭和7年

 神経衰弱に端を発したかのような病気の正体は何であったのだろうか。
 石鼎の年譜を見ると快方に向かっては又悪化するというような記述に終始している。
 天地が健やかであれば石鼎もまた健やかであり、天地が病めばまた石鼎も病むというようなところが正直な日々であったろうか。
 石鼎の精神は常に、天の神地の神に投じられていた。
 自身の養生と同様に、天地へ寄せる心根も又一途に慈しむものであったのであろう。


 (草深昌子=「青草」主宰・「晨」同人)

貝屑に蛼なきぬ月の海   原石鼎   大正5年

2017年10月21日 | 10月・石鼎俳句鑑賞句
 貝屑は貝殻であろうか、人々が食べ捨てたものでありながらさっきまで生きていた貝の成分がそこはか付着していそうなもの、そのあたりに蛼(こおろぎ)がいてもいい。
 だが、この「貝屑」は、生きている貝に思われてならない。
 例えば、取るに足らないちぎれちぎれの和布を「若布屑」というように、この「貝屑」もまた、こまごましたものではあるが、今もって命を保っているものではないだろうか。
 そんな貝屑の中に混じって、蛼がひそやかにも鳴いたというのである。
 浜辺の索漠たる光景ながら、ここには月の明りがたっぷり注がれていて、冷やかな夜気の中に反響する命の共存がいとおしい。
 蛼の声はどこまでも澄み切っている。
 この蛼の声を絶妙に聞かせるのも、「月の海」という大いなる展開、際立った省略があってのことだろう。

 大正5年というと、石鼎は三十歳。
 ホトトギス社で高濱虚子の口述筆記などの手伝いをしていた頃である。
 翌、大正六年には、 

  うろを出し金魚にひろし月の池

もある。
 蛼に「月の海」、金魚に「月の池」、何れも、哀れにも小さなるものに対して、揺るがぬもの、大いなるものを打ち出している。

 ところで、虚子は、昭和二十三年刊行の『石鼎句集』に序文を寄せている。
「石鼎君を思うと、すぐ吉野時代を思い出す。それが石鼎君の最も優れた作品である許りでなく、俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於いて輝いた時代を形づくったものとして尚私の記憶にある」として、吉野一連の20句が掲げられている。
 その中に、

  花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月
  花の戸やひそかにや山の月を領す
  山畑に月すさまじくなりにけり

まさに「山の月」が浸透している。
この他にも、深吉野時代には、

馬盥の底穿くばかり山の月
  夜々あやし葎の月にあそぶ我は
  或夜月にげんげん見たる山田かな

等がある。
 春であれ秋であれ、吉野の月は文字通りすさまじく描かれていて、石鼎の感動が月の明りにひしひしと伝わってくる。
 いや、月光は、石鼎の若さ、石鼎の生気そのものと言ったほうがいいかもしれない。

 昭和二年、四十歳のとき、石鼎は麻布本村町に新居を構えた。

  月明の障子のうちに昔在

 もはや、しみじみと落ち着いている。
 この「昔在り」には、当然、深吉野の月と過ごした昔があることであろう。

  門の燈をそがひに仰ぐ無月かな

「無月」であっても、石鼎は「仰ぐ」のである。
 石鼎の眼に、かの皎々たる吉野の月がかかっていないわけはない。


(「青草」主宰・「晨」同人 草深昌子)

囀や杣衆が物の置所   原石鼎   大正2年

2017年03月20日 | 3月・石鼎俳句鑑賞
 木樵の人たちが、斧や鋸を置くところといえば、例えば切株の周辺であろうか。
杉山であろうか檜山であろうか、山深きところの日向に寄せ固めたひとかたまりのものが、まるで宙に浮いたように感じられる。
その宙に浮いたところ、ぽっかり透けたような虚空が、そのまま春の鳥どちの囀りどころである。
逆に言えば、囀りどころが、そのまま杣衆の休みどころでもあるだろう。

「囀」と「杣衆が物の置所」が見事に呼応している。
この一体感が、しじまを破って鳴く鳥どちの音色を、美しい言の葉のように響かせてくれるのである。
思えば、「ソマシュガモノノオキドコロ」という一続きの語感からすっきりとした気分をもらっているのかもしれない。囀のよろしさに唱和するようなフレーズである。

まこと、一字一句が的確におさまって無駄と言うものがない。
文字通り、抑えの効いた下五が、余韻を引いてやまない。

石鼎と言えば吉野の句と決まっているのが不満で、「原石鼎全句集」を開くときは、いつも大正10年あたりからというのが私のささやかな抵抗であったが、久しぶりに素直に、虚子の言う「俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於て輝いた時代を形づくった」という吉野の句群を読み直して、今更に尋常ならざる明るさにことごとく唸らされたものである。
石鼎はまだ27歳、28歳の若さである。
俳人はその最も初期の作品において生涯の価値を持つということの典型であろう。

吉野時代の句は当然のことながら、杣山、杣人が多く素材になっている。
直接「杣」の一字を用いたものに限っても、秀吟は枚挙に遑が無い。

   樵人(そまびと)に夕日なほある芒かな
   杣が往来映りし池も氷りけり
   腰もとに斧照る杣の午睡かな
   杣が蒔きし種な損ねそ月の風
   粥すする杣が胃の腑や夜の秋
   杣が戸の日に影明き木の芽かな
   星天に干しつるる衣や杣が夏
   杣が幮の紐にな恋ひそ物の蔓
   苔の香や午睡むさぼる杣が眉
   老杣のあぐらにくらき蚊遣かな
   蚊帳つりてさみしき杣が竈かな
   杣が頬に触るる真葛や雲の峰
   杣が子の摘みあつめゐる曼珠沙華
   鉄砲を掛けて鴨居や杣が秋
   秋風や森に出合ひし杣が顔
   髭剃りて秋あかるさよ杣が顔
   諸道具や冬めく杣が土間の壁

 春夏秋冬にわたり、杣の老いも稚きも、杣の暮しとその周辺に及ぶ観察はいかにも行き届いている。
石鼎は杣人も対して、ある種の憧れのような尊敬の念を持っていたのだろう、そうでなければ、「杣衆」とは言えないであろう。
「杣」の句々を読むうちに、「杣衆が物の置所」には、作業道具もさることながら、大きな弁当などもあるのではなかろうかと、いっそう温もりを覚えてきた。

 そんな杣の諸道具を思うちに、鉞(まさかり)の名句が思い出される。

   鉞に裂く木ねばしや鵙の声

「鵙の声」以外のなにものでもない「鉞に裂く木ねばしや」だと思う。
あらためて、掲句に戻ると、この句もまた「囀」以外の何物でもないことに気付かされる。
人の世にある諸相が、自然の諸相に映し出されることにほかならないことを、石鼎はばっちりとしかも言葉を惜しんでつかみ取るのである。

             (草深昌子=「晨」)

福寿草今年は無くて寝正月    原石鼎   大正11年 

2017年03月20日 | 1月・石鼎句鑑賞
大正10年、石鼎は35歳。

 この年、石鼎は小野蕪子発行の「草汁」を譲り受け、5月「鹿火屋」と改題して、虚子の許しを得て主宰となった。
「鹿火屋というのは山中で秋になると鹿や猪などが闇夜に田畑を荒しに来るのを防ぐため、山人が小高みに小さな番小屋を立て終夜火を焚き銅鑼を代わり合って叩く。それが山にひびいていとど秋の夜長の淋しさを増す。その淋しさを生涯忘れまいとして誌題とした。」と「鹿火屋」に書きとどめている。

 石鼎の生涯は、この決心の通り、淋しさをひしと抱きしめて離さないものであった。
「鹿火屋」主宰になることも決して手放しの喜びではなかったであろう、それは必然のように、石鼎の淋しさが引き受けさせたものに違いない。
 しかし、このことが病弱であった石鼎の命を、最期まで俳句の命としてまっとうされる原動力になっていった。
 そう思うと、やはり「鹿火屋」主宰原石鼎の誕生は運命的であった。

 その大正10年が明けた大正11年のお正月は、寝正月であった。
寝正月と言えばそれで済むものを、枕上に見当たらない「福寿草」をあえて書き上げるところが、石鼎の旺盛なる俳諧精神をうかがわせる。

 では、次の年から数年間ほどは、どんなお正月であったのだろうか。

      正月2日感冒に臥して月の終り漸く床を払ふ
   元日の満月二月一日も         大正12年
   松上にしばし曇りし初日かな      大正13年
   草庵や屠蘇の盃一揃          大正14年
   竹馬の羽織かむつてかけりけり      〃
   萬歳の戸口を明けて這入りけり     大正15年
   遣羽子や下駄の歯高く夕べ出て       〃
   正月退院、二月湯河原に療養
    ほの赤き梢々や春の雪         昭和2年


 やはり、病気との縁は切れなったようである。
 それでも、「竹馬」の句のおもしろさ、ことに「萬歳」の句の悠揚迫らぬ味わいにはめでたさがこみ上げてくる。

 お正月の句はともかく、この数年のわが愛誦句を掲げて、今年もまた、石鼎の淋しさをわが淋しさとして寿ぎたいと思う。

  神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな      大正11年
  白魚の小さき顔をもてりけり         大正12年
  音たてて落ちてみどりや落し文        大正13年
  ささなきのふと我を見し瞳かな        大正14年
  暁の蜩四方に起りけり            大正15年
  火星いたくもゆる宵なり蠅叩         昭和2年


               (草深昌子=「晨」)

 我庭や鶏頭の陣秋海棠の営   高浜虚子

2017年03月01日 | 石鼎資料
 表題の虚子の句はこれまで発行されたどの虚子句集にも記載されていない。この句は、石鼎がホトトギス発行所に勤めながら参加していた「無名吟社」の集まりの中で雑誌を作ろうという話が持ちあがったときに虚子が祝意をこめて送ってくれた句なのである。この句によって新たな雑誌は「鶏頭陣」と命名された。

 当時の顔ぶれは小野蕪子をはじめとして、弁護士の作間雨葉、今更名合孟、沢田例外、猪股其水、武富斉、鈴木春亭など。ほかに、猪股電火、三苔魄居などの、東京日日新聞社内のメンバー、そうして原石鼎が居た。

 この初期の「鶏頭陣」を手にしてみたいと思ったが、国会図書館から検索できる全国の図書館には見当たらなかった。そんな折に何気なく繰っていた『近代文学研究叢書』の石鼎編に、初期の「鶏頭陣」の目次が記録されていた。

 しかも、そこには(「鶏頭陣」の題と題句の定まった日)という項目があった。発行日は大正6年10月。わたしは、この雑誌を是非手に取ってみたいと思った。『近代文学研究叢書』に項目が挙がっているということは、「鶏頭陣」を読んだ人がいるということなのだ。その読んだ本が、編纂した昭和女子大の図書館にあるのではなかろうか。

 最近の国会図書館の検索機能は非常に進歩してきたのである。それは国会図書館にはない書籍についても検索できるのである。要するに国会図書館で書籍を検索すれば、日本全国の図書館が検索できるのである。

 ところが、大正6年に発行された「鶏頭陣」を所有しているかもしれない、昭和女子大の図書館は書籍公開をしていないのである。国会図書館の係りの方にも伺ってみたが、直接行って聞いてみるのが一番はやいのではないかということだった。

 不安内の場所、それも学内の人しか利用しない図書館に辿りつくには、いくつもの関門がありそうで、ついつい手をこまねいていた。しかし、行動を起こさなければ先に進めない。

 何度か昭和女子大図書館のWEBを開いているうちにメールアドレスを見つけた。そこから得た回答は無いということだったが、係りの方が、当時『近代文学研究叢書』の編纂に関わった方に連絡をしてくださって、その「鶏頭陣」は直接二宮の原石鼎の生家から借りたものだったことを教えてくれた。

創刊号だったのだから、全コピーしておけばよかったと思っているという書き込みもあった。しかし、創刊号であることを教えて貰っただけでも収穫である。そんな折にネット古書店に原コウ子から井沢元美への手紙が売りに出されたのが目に留まった。それも、中身は「鶏頭陣」についてであった。

 もう、それは買わねばならない。思っていれば寄ってくるものなのかもしれない。さらにその昭和女子大の先生からも、研究所の引っ越しをしなければならなくて、整理していたら当時のメモが出てきたと、というメールが入ってきた。不思議な縁である。

サンデー毎日

2016年11月04日 | 『二冊の鹿火屋』






最近頂いた記事。なんと私もまだこの世に居なかった時代の石鼎の記事。

このときは波郷は23歳ごろ。鳳作は20歳、そうしてこの作品の掲載された8月の一か月後の9月に篠原鳳作は亡くなっている。石鼎は鳳作の(蟻よ)の句に以下のような鑑賞をしている。


   蟻よバラを登りつめても陽が遠い    鳳作

人口に膾炙されているこの句は絶筆と言ってもいい作品である。この句に対して石鼎は、次のように語ってる。―――どこかにある一種の光色的に美的な部面のある光景を童謡めいた叙法で現したもので、光景としても、作者の心持に訴えているものも、決して悪くない。薔薇の一番高いと思わるる花の頂きへ登りつめた一疋の蟻が、そのよるべなき触覚に求むる対照として「太陽の遠い」ことを叙された点は大いによい.―――

鶏冠にもえつく日あり秋の晴    原石鼎  大正9年

2015年10月13日 | 10月・石鼎俳句鑑賞句
 石鼎の句についてはいつも、「間違っていたらどうぞ教えてください」というような気持ちで実作者としての率直な鑑賞を書いている。
今回もそんな句である。

 「ケイカンニモエツクヒアリ」と読むが、「鶏冠」はトサカのことである。
 あのニワトリの頭部についている肉質の冠状の紅いところに秋晴の澄み切った日ざしが燃えているというのであろうか。
 秋日の赤とトサカの赤をだぶらせたところは、すぐに納得させられたが、トサカの形状がはたして「もえつく日あり」にどれほど利いているだろうか。

 そこで、『原石鼎全句集』を閉じて、原石鼎著自選句集『花影』を開くと、ここには、
  鶴冠にもえつく日あり秋の晴
とあるではないか。
 河出書房発行『現代俳句集成』も、「鶴冠」と出ている。
 「鶴冠」とは何ぞや、冠鶴(カンムリヅル)という鶴の種類はあるらしいが、鶴冠という熟語は見当たらない。

 原石鼎全句集に戻ると、掲句の前は下記のようになっている。

  鶏頭の花なる如き実なるかな       大正9年
  夕さればしづまる風や秋日影
  秋晴やよごれながらに城きよし
  鶏冠にもえつく日あり秋の晴

 〈鶏頭の花なる如き実なるかな〉があるので、はたと思い当ったが、鶏頭の花は別称「鶏冠花」ともいう。
  調べると、鶏冠は、「からあい」とも読むそうで、「韓藍」と書くとよくわかるように、中国から渡来した鶏頭の花の古名であるそうだ。

 そこで掲句は、トサカならぬ鶏頭の花と解したい。
 素直に、〈鶏頭にもえつく日あり〉でなく、〈鶏冠にもえつく日あり〉としたのは、「冠」の一字を生かしたかったのであろう。
 ここはやはり、トサカと早とちりされても、鶏冠であらねばならかった。
 天上へ向けてすっくと伸びた、あの鶏頭の輝かしい頭でっかちのてっぺんにチリリと日が燃えたような印象が明らかである。
 鶏頭のいのちのさまを見せられたようで、俳句そのものにも勢いがついている。

 鶏頭の花は燃えるように赤いというのは常套の見方であるが、常套に似て非なるところが、石鼎としての物の見方である。
 何をどう見たか、どう見えたか、そこがはっきりしているから景が立体的である。
 それは、鶏頭の花が一寸見のものでなく、日々折々に親しんであるものであればこその写生であろう。
 「もえつく日」を詠いあげたあとで、下五にダメ押しをするように「秋の晴」をもってくるところも、大胆である。
 要は秋晴を諷詠しているのである。

 ところで、鶏頭といえば、正岡子規を思い出さずにはいられない。

鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

 その境涯に思いを返すと、この鶏頭花はいっそう鮮烈である。
 大正9年といえば、子規去って、10年いや20年近くになる頃であるが、さほど遠い昔のことではないだろう。
 石鼎には、まだ子規のぬくもりがそこにあるように感じられていたかもしれない。

(草深昌子=晨)



   

北園克衛

2015年10月12日 | 石鼎余滴
 詩人北園克衛(きたぞのかつえ)が石鼎の龍土町の家に大正十一年から十二年の二年間下宿していたことがある。
 北園克衛(明治三十五(1902)年十月二九日 -昭和五十三年(1978)六月六日)は本名橋本健吉、実兄は彫刻家の橋本平八である。現在の伊勢市朝熊町一一八五)に生れた。二十三年間の長きに渡って、エズラ・パウンドと文通していた。その作品はモダニズム詩人、前衛詩人として知られ、上田敏雄、上田保とともに、日本で初めてのシュルレアリズム宣言をした人物でもある。

 しかし、私がその詩人の存在をより認識したのは、ある時の古書店の中だった。それぞれ著名な古書には定価以上の価格が付けられていたが、北園克衛の著書は他の著名人の中で群を抜いた価格だった。そればかりか、北園克衛の著書だけ鍵付きの硝子ケースの中に収められていて、気軽に手にとることも出来なかった。それをきっかけに、ただ石鼎と縁のある詩人というだけではなく、詩壇に大きな足跡を残した大詩人だったことを知ったのである。

 大正十年その二階に須磨子さんに変わって北園克衛 さんが暫く泊った。二軒の家を持っていても二階は締切になっているところへ、石鼎の姉の息子生越辨之輔が勤めを持ちながら学校へ通うというので上京してきた。その甥と橋本健吉(北園克衛)さんと勤め先が同じで共に大学へ通っている関係で克衛さんを二階へ連れてきたのであるが、はじめて会った克衛さんは無口で、ちょっと親しみにくい、傷つきやすい青年という感じがした。

 しかも二階にいるといっても平家の方の門から出入りしないので顔をあわせることなどほとんどなかったが、日曜など克衛さんの吹く哀傷を誘うようなハーモニカのひびきがこちらまで流れてくる。その頃から克衛さんは盛んに詩を作って鹿火屋にも発表した。須磨子さんと相前後してのことで、其の後共に詩壇の第一人者で活躍せらたのも不思議な縁である。(原コウ子著『石鼎とともに』明治書院刊)
 

詩人であるという事項からでも繊細な表情を想像するが、コウ子の文章もまたそれを裏切らない描写である。そうして次の石鼎の二句を重ねるとさらに、その印象が輪郭を現わすのである。

   などハモニカかくもかなしく梅雨の闇 石鼎(大正十年)
   鳴きながら噛むハーモニカ梅雨の闇

 同時期に発表されているこの句には、前書きも何もないのだが、コウ子の文章と併せ読むと、ハーモニカを吹いていたのは北園克衛と思って間違いない。石鼎晩年の昭和二十三年三月号の鹿火屋に寄稿されている北園克衛のエッセイにも「ハモニカ」が出てくる。


私がこの『鹿火屋』にものを書くのは二度目である。二十数年前、石鼎先生が麻布の龍土町に居られた頃のことである。掲載されたものは詩で、たしか.「破局」といつたやうな題であった。その頃私は生越君と先生の家の離れの部屋をかしてもらつてゐた。その頃の私は明笛(みんてき)を吹いたりハモニカを吹いたり、今にして思へぼ相當うるさく生活してゐたわけであるが、先生は非常に寛大で、何も言はれなかつた。ときたま主屋の方へ顔を出すと、先生のあの特徴のある堂々たる口髭が眼についた。

文学の話をする程、私はまだ生長してゐなかつたし質問が出来るなどといふ状態にもなつてゐなかつた。さういふわけで、私は先生の文学とは開係なしに意味なく暮してゐた。その頃、奥さんは非常に美しかつた。田舎から出て来て間もない私には、まぶしくて、よく顔が見られなかった。

ある夏、その奥さんから浴衣をいただいたことがあつた。その浴衣は黒のあらいたて縞のもので、筒袖になつてゐた。『寝衣にしなさい』といつて、いただいたのかも知れない。龍土町の思い出のフヰルムはほとんどち切れてしまつて、いくらも残つてゐない。だがそのきれぎれのフヰルムは、私の記憶に小春日のやうに温く、光つてゐる。   (北園克衛「鹿火屋」昭和二十三年三月号)


 まだ文学の話をするほど成長しなかった十九歳の青年ではあるが、確かに石鼎と向き合ったことはあるようだ。石鼎が北園に何をしているのか、あるいは何がしたいのかと問えば、詩を書いてみたいと答えたのではないだろうか。そうして石鼎は、書けたら雑誌に載せてあげるから持ってきなさいと言ったのは容易に想像出来る。実際、「鹿火屋」大正十一年八月号には早速本名の橋本健吉の詩が登場した。

 無題        橋本健吉

地球はまた/すばらしい/音をたてゝ/限りなき/軌道を/ひたはしる

人間は/流れに生息する/バクテリアの如く/地球と/混和(あ)ひて/目にもとまらず/ひたはしる/すばらしい勢で/ひたはしる

噫/人間は知らない/人間はわづかに/その生を抱いて/黙々とそら耳をつぶす

私は又/ひろごる/樺色の土なる/其の無限の/香を知る/すべてを/包含する/偉大なる正純の香を/知るヽヽヽ

赤熱せる/おお/太陽の流転の驚異ヽヽ/私は/彼の火花ちる音を聞く/燃えさかる/燦光の/空気を焼く/香を嗅ぐヽヽヽ

私は――でも/静かである/私はそれを/悲しまない

人間は/この/悩ましいミリウを/忘れ果てて/生きる可く/よぎなくされてゐるヽヽヽ

ヽヽヽヽヽ/ヽヽヽ/ヽヽヽヽ/おお/葉裏の/幼虫は/静かに/呼吸をつゞけてゐる/透明な/からだを/波うたせて/うごめく

私は/かく/生くる者をおそろしく思ふ/ヽヽヽヽヽ

真夏の太陽

でも/静かに/てらしてゐるヽヽヽヽヽ      (「鹿火屋」42号、一九二二年八月)

 その後も、「丘/極みなき破局(大正十一年九月)」・「草原の夜(大正十一年十月)・「ある夜の舞踏会(大正十一年十二月号)」・「毒薬(大正十二年一月号)」・「火葬場(大正十二年三月号)」・「電柱(大正十二年四月号)」・「死(大正十二年八月号)」と題する詩が発表された。北園克衛の詩を最初に活字にしたのは「鹿火屋」だったということになる。こうして詩を発表していたのだから、あまり顔も見ないで日々が流れていると言っても、当時の石鼎夫妻の懐裡を暖める存在だったに違いない。石鼎三十五歳、コウ子二十五才、そして北園克衛は十九歳だった。同時期、深尾須磨子や田中豫生も詩を発表していた。

 大正十二年の関東大震災を機に、克衛は関西へ居を移した。再び石鼎夫妻が出会ったのは大正十五年だった。震災を体験した恐怖が石鼎の精神を蝕んで、虚子が精神科医を紹介したのは前年の大正十四年だった。そのときの真鍋医師の診断は麻痺性痴呆症で回復しないということだった。しかし、翌十五年は伊勢まで旅行が出来るまでに回復していたようだ。

 石鼎句集『花影』の年譜には(菘南氏に誘はれ、七月より八月の二ヵ月にかけて伊勢、鳥羽に遊ぶ)と書き込まれている。この鳥羽の旅館で寛いでいたコウ子が、何気なく手摺に凭れながら表通りを見下ろすと、北園克衛とその兄が海水着姿に麦藁帽子を被って通り過ぎてゆくところだった。

 故郷は伊勢ときいていたがまさかここで只今逢うなどとは神ならぬ身の知るよしもない。しかしわたしが二分、三分遅れて手摺に立ったとしたら、この人たちとこのような出あいが永久に出来なかったであろうに、天地万象のあいだにはこのような偶然が数秒の間に起こっていることを思うと、わたしはここでも神を肯定してしまうことになった。  (原コウ子著『石鼎とともに』明治書院刊)

 北園克衛に出会った喜びがその行間から溢れ出ている。同行者が克衛の兄だったと認識したのは、声をかけて近況などの立ち話くらいはしたのだろう。
三度目の「鹿火屋」執筆は、昭和二十四年、『石鼎句集』(昭和二十三年かびや刊)を手にして語る文章である。この句集は還暦を祝って弟子たちが(磯鷲はかならず巌にとまりけり)の句碑を出雲に建立したのと同時期に発刊されたもの。克衛は長い時間をかけて句集の装丁を眺めていた。初めての全句集は、自らの筆書きの『石鼎句集』という文字が置かれている以外には生成りの和紙の表紙がひろびろと在るだけである。

 克衛はその表紙のあまりに無造作な感じから、やがてその装丁が装丁者の侮りがたい感覚で造本されたものであることから書き始めていた。そして、その文末にーー昭和十七年(戰争の聲漸く高まるにつれ句作怠る。)とある。昭和元年以来石鼎先生を訪ねる機会を持たなかった僕には、その意味を知ることが出来ないのは当然のことであるが、先生が再び俳句のために筆を取られる日の来ることを心から祈る。(一九四八年十一月六日)――と括っている。
この文章から、大正十四年に伊勢の旅の途中で石鼎夫妻は偶然海水浴にいく克衛に出合っているが、その縁から、克衛は同じ年の年末に石鼎庵を訪ねてきたのが判る。

 四度目の「鹿火屋」への執筆は石鼎没後の昭和二十八年二月の「ある詩の話」である。このあたりの鹿火屋の、石鼎の句碑建立のための基金の名簿にも克衛の名がある。そうして知足寺の句碑開きには、石鼎庵に泊って参列していた。

 鹿火屋発行所の二階に下宿した時期に、克衛は鹿火屋に詩を発表していたが、俳句を作ることは無かった。しかし、昭和十(1935)年、八十島稔の主宰の「風流陣」に拠って俄に句作に身を傾けている。この雑誌のメンバーは室生犀星、津村秀松・竹村敏郎、村野四朗、岡崎清一郎、田中冬二、𠮷川則比古、扇谷義男、亀山勝、岩佐東一郎などの詩人グループである。面白いのは、この会を立ち上げるにあたって、詩人らしい自由奔放な俳句ではなく、古格を守り、温和に展雅に姿の正しい俳句を作りあうことを約束し合ったことだ。要するに伝統的な俳句を目指していたのだ。

 八十島稔に出会わなくても克衛はいずれ俳句を作り始めただろう。俳句の素養は、克衛が石鼎に興味を持った時から積み重ねられていたのである。例え書かなくても指導を受けなくても、文学というものは、そうしたことから触発されて無意識にその人の中で増殖されていくものだ。「風流陣」に拠って数年後の昭和十四年には俳論集『句経』を出版している。そして、没後には句集『村』が編まれている。

   瓢箪のくびれて下がる暑さかな   北園克衛
   冬瓜と帽子置きあり庫裡の縁
   横笛にわれは墨する後の月 

 その詩に親しんでいる読者には、詩と俳句との落差に驚くのではないだろうか。北園克衛が学生時代に龍土町の石鼎の家に下宿したのは偶然で、そこで石鼎から直接的な影響は受けたとも思われない。しかし、克衛が句集に編むほどの俳句作品が残ったのは、やはり石鼎の家に下宿したことが影響しているだろう。また、北園克衛という詩人が鹿火屋に縁を持ったことが、鹿火屋の人々にもさまざまな余韻を残した。

 神林良吉が句集鑑賞(昭和三十年五月号)の文章の中で北園克衛の詩論をひも解き、福島ゆたかのコラム・唐川富夫の俳論(昭和三十三年七月号)でも北園克衛の詩論を展開させている。同時期、原コウ子が執筆している「思い出」には、二ヵ月に渡って北園克衛が登場した。
(岩淵喜代子)

夜の雲のみづみづしさや雷のあと    原石鼎   大正10年

2015年08月26日 | 8月・石鼎俳句鑑賞
花照鳥語

 原石鼎が「鹿火屋」主宰になったのは、大正十年である。
 大正七年から大阪毎日新聞社の俳句会に毎月出張していた石鼎は、藤田耕雪庵句会など、関西の実業家たちの句会にも度々出席していた。 
 鹿火屋はまるで大阪から誕生したようだと石鼎が言うように、雑誌発行には大阪の強力な経済力に支援されたのであった。

 ことに藤田耕雪は、住友と並び称せられる二大財閥であった藤田財閥、その藤田組の副社長であり、妻の俳人春梢女と共に協力を惜しまなかった。
 藤田の別邸に招かれた石鼎夫妻は、源氏物語に出てきそうな耕雪を前に、生まれて初めての洋食の饗応に胸を波立たせたそうである。
 耕雪は、大正十二年十二月号「ホトトギス」に巻頭六句入選を果たしている。高野素十が初出句にして四句入選で知られる号である。

  水つげば釜音ひそみ除夜の閑   耕雪
  大鯉の背を越す鯉に落葉かな    〃
    
 吉野山花見の帰途、この藤田家の本邸である「藤田美術館」、庭園であった「旧藤田邸跡庭園」、さらに耕雪庵の跡である「太閤園」に立ち寄った。
 かつて淀川畔の綱島御殿と言われた広大な敷地にあって、隅々までも粋を集めた花鳥の輝きにただうっとりとしてしまった。
 長閑けさに浸っていると、石鼎が数年間も月の一旬あるいは一旬半を大阪に滞在したという満足感が伝わってくるのであった。
 
 大正十年、石鼎にはもう一つ、嬉しい出来事があった。

 かの内藤鳴雪が「石鼎さんは龍土でいやすなら、そのうち遊びにゆきやしょう」と石鼎居を訪れたのである。石鼎は麻布区龍土町(今の港区六本木)、鳴雪は麻布区笄町(今の港区西麻布)に住んでいた。
 鳴雪は子規派の重鎮として活躍したが、大正十一年刊行の『鳴雪自叙伝』の語り口もまた円満洒脱である。
 古希の祝賀会のあとは「前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する」と締めくくっている。

 自叙伝刊行の直前にあった鳴雪は、一誌をもつことになった石鼎を大いに激励したのであろう。 
 石鼎は三十五歳であった、思えば子規の没年と同い年である。
 妻コウ子は「鳴雪は疳高い声でいかにも楽しそうに石鼎と話していられたのが昨日のように目に浮かぶ。翁を笄町のお宅まで送ってかえった石鼎は、翁の明るい音声の残っている部屋で、翁を迎えたよろこびの興奮になおひたっていたのもなつかしい」と書き残している。
 鳴雪居住跡は、今や文字も薄れた標が空手道場の前に小さく傾いているだけであった。

 かの日の如く、旧居跡の路地を出て、六本木通りの笄坂や霞坂を上っては下り、やがて龍土町名残の東京ミッドタウンあたりへ出てみると、息が切れた。
 この起伏ある半里の道程を鳴雪翁が進んで足を運ばれたとは、何と有難いことであったろうか。
 
  囀やあはれなるほど喉ふくれ       石鼎
  この朧海やまへだつおもひかな       〃       
  夜の雲のみづみづしさや雷のあと      〃
       
 新緑の盛んなる大都の真ん中をたどっていると、石鼎が最も石鼎らしく、その長身をもって闊歩した時代があったことを実感させられて、絢爛たる句々が自ずから浮かび上がってくるのであった。

(草深昌子=晨)

藤田耕雪

2015年08月24日 | 石鼎余滴
 サントリー美術館の天目茶碗を観に行った。
 いやー不思議な文様、それが曜変と呼ばれる所以なのだ。曜変すなわち窯変のこと。窯の中で変化することからそう呼ばれてきたのだが、これまで見たこともない模様である。暫く脳裏から離れないだろう。

 もう一つ興奮したのは、石鼎が大阪毎日へ俳句指導に行くときは藤田家へも指導に立ち寄っていたが、その藤田家とは、サントリー美術館に展示されているコレクションの保有者藤田家なのである。あるときコウ子も共に呼ばれて洋食の饗応を受けたが、使い慣れないナイフとフォーックに冷や汗をかいたことが『石鼎とともに』には書き込まれている。

 ナイフとフォークで思い出したわけでもないが、近くのレストラン龍土軒でランチにすることにした。このレストランは名前の通り以前は龍土町にあって、石鼎の家とも近かった。日本には数少ないフランス料理の店で、文化人の集まるところだった。一度くらい石鼎夫婦が行っていれば面白いのだが、どうも行ったことがないようだ。

 今改めて確認することになったが、石鼎が俳句の指導をしていたのは、創始者傳三郎ではなく、その次男徳二郎である。妻の春宵女とともに耕雪という俳号でホトトギスにも投句していた。今度雑誌で確認してみようと思う。大正13年から水原秋桜子、阿波野青畝らと課題吟選者に推され、「耕雪句集」がある。(岩淵喜代子)

けさ秋の一帆生みぬ中の島    大正3年   原石鼎

2015年08月04日 | 8月・石鼎俳句鑑賞
 立秋の白帆である。
 「イッパンウミヌ」静かにも弾けるような声調でもって、今朝秋の清らかさを堂々と詠いあげている。
  大正3年、石鼎は、故郷へ帰ったものの父親に認められず、医への道を断念して、杵築、米子あたりの海岸を流離う身となった。
 掲句は、島根県中海であろうか、原石鼎句集『花影』の「海岸篇」に収められている。
 石鼎は、見ることに徹した俳人であるが、その「見る」を、そのまま措辞にして、一句に生かすのもまた得意であった。
 だが、この句は、「一帆見ゆる」ではなく「一帆生みぬ」であるところに、意表を突かれる。
 思いつくままに、「見る」をあげてみると、


   山川に高浪も見し野分かな
   或夜月にげんげん見たる山田かな
   月見るや山冷到る僧の前
   谷深く烏の如き蝶見たり
   見つめ居れば明るうなりぬ蝸牛
   薔薇を見るわれの手にある黒扇
   鹿のゐて露けき萩と見たりけり
   寝ころべば見ゆる月ある大暑かな

 
 物を見るということは、そこに自分の思いがあるということである。
 作者のじっと見ている光景が、そのまま読者の眼に乗り移って、同じ感興に浸らせるものである。

 片や、中の島に現れた「一帆」は、生き物がたった今羽化したかのような初々しい白である。
 「見る」ではたるんでしまう、すっと立ちあがた感じは「 生みぬ」というほかないのである。

  石鼎の認識の迅さが、読者をもはっとさせてしまう見事さ。
  故郷への愛惜が、一気に詠わせしめた一句であろう。
  まさに中の島ならぬ、石鼎の生んだ白である。

(草深昌子=晨)

一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳    原石鼎     大正11年

2015年07月19日 | 7月・石鼎俳句鑑賞
 かつて、水槽に飼っていた金魚はいつもこうだった。
 金魚とはそういうものだと決めてかかっているものにとって、これが俳句になるとは思いもしなかった。
 それがどうした、と言われればそれまでのような句ではあるが、何故だかハッとした。そのハッとが、すでに詩になっている証拠ではないだろうか。
 人間であっても、食い意地のはったものは、餌のある限りは餌を食わんとするものだが、一度口から吐き出したものを再度口に入れようとするだろうか、しないだろう。
 いや、赤ん坊の頃は、金魚同然であったかもしれない。
 いのちの原始を見せられたようで、「金魚の口」でなく「金魚の瞳」というあわれさに、しばし惹きつけられてしまった。

 掲句は、創刊百年記念『ホトトギス巻頭句集』から引いた。
 大正11年7月号「ホトトギス」の巻頭を飾ったのは以下の8句である。

   暮れてなほ浪の蒼さや蚊喰鳥       東京  石鼎
   岩藻皆立ちてゆれゐる清水かな          同
   清水掬んで底の形やしかと見し          同       
   一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳        同
   荒馬のつぎ荒牛や初夏の路            同
   麦笛を懐ろの裡に吹く男             同
   滝を見し心さむさや杜若             同
   抜き捨てし一茎岸に菖蒲池            同

 ちなみに、掲句は『原石鼎全句集』には、「一度吐きし餌に又よりし金魚の瞳」とあり、原石鼎自選句集『花影』には、一度吐きし餌にまたもよる金魚の瞳となっている。
「餌にまたよりし」が断然いいと思うが、どうであろう。
  (草深昌子=晨)