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ほかの国々のように?

2012-06-17 14:44:49 | メッセージ
宣教 サムエル記上8章1~22節   

本日はサムエル記上8章より「ほかの国々のように?」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。この個所は、「イスラエルの民が、ほかの国々のように、自分たちのために裁きを行う王を求める」記事であります。

①エリとサムエルの事例
先週は、3章より「主の預言者サムエルの召命」の記事を読みましたが。その後サムエルは主の言葉を曲げず、まっすぐにイスラエルの民に語り続け、7章15節にあるように「生涯、イスラエルのために裁きを行った」のであります。サムエルが主の預言者として果たした働きは高く評価されて然るべきといえましょう。
しかし、そんなサムエルも年老いてまいります。いろいろな症状が身体にも出て、もはやイスラエルのために裁きを行うことは難しいと判断したのでしょう。彼は自分の二人の息子をイスラエルのために裁きを行う者として任命いたします。「しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」というのですね。父サムエルは裁き、主の言葉を曲げることはなかったのですが、彼の息子たちは金銭を要求し、受け取って不正な裁きを行い、主の言葉、戒めを曲げていたのです。
先週の3章のところで、祭司エリと二人の息子たちの記事を読みましたが。祭司エリの二人の息子たちも父の祭司職を継承しますが、祭司とは名ばかりでした。息子たちは祭司の職権を利用してならず者のようにささげ物を搾取し、主へささげものを軽んじました。また不道徳な悪行を繰り返しては聖所を汚しました。主に対して甚だ大きな罪を犯していたのです。エリはイスラエルにおいて立派な祭司でありましたが、自分の息子に対しての宗教的な教育や指導という面においてはある意味甘かった、目が行き届かなかったのであります。そのような後悔もあってか、祭司エリはまだ幼いサムエルに主の教えと戒めをまっすぐに伝えました。そうしてエリのもとでサムエルは祭司や預言者としての素養を身につけていったのであります。
ところが、この預言者サムエルもまた、自分の二人の息子たちに対して主に仕える者としての心得や務めについて継承し得なかったのです。残念なことにサムエルもまたエリと同様、子らに関して苦い思いをすることになってしまうのです。
今日は折しも父の日でありますが。偉大な祭司や預言者であったとされるエリやサムエル、しかし父親としてはどうだったのか?一番身近な自分の子どもとの関わりが欠落していていたとは言えないか。このことは他人事でなく自分のこととして聞いていく時、ほんとうに考えさせられるものであります。

②ほかの国々のように?
子育てといえば、ちょっと話はそれますが。先日、夜回り先生として知られる水谷修さんがご講演をなさったその内容の一部が新聞のコラムに紹介されていました。水谷さんは、今の日本社会の現状について、「私たちの社会は攻撃的な社会になっている。会社などでいらいらした夫は、家庭で妻や子にあたる。妻は子どもにあたる。そして、子どもは家庭でも学校でも否定されてしまう」と、このように語られたそうであります。
否定されて育った子どもは自分を肯定することが出来ません。そこから様々な歪みや障壁が生じてくるでしょう。これは個人に留まらず、社会全体のひずみとして現れてくるわけですが。しかし、それは何も現代社会特有のものではなく、すでに今から3000年前のイスラエルの民も又、そのような攻撃的社会の中にあったといえます。

サムエルが預言者として、その働きをしっかりとなしていた時、彼は主の言葉を曲げず、まっすぐに民に語り、主に立ち帰り、主にのみ仕えていく勧めがきちんとなされていました。それによって外から責めてくるペリシテ軍の外圧に屈することはなかったのであります。しかし、サムエルが老齢になり彼の息子たちが父の務めを引き継ぐようになると、先ほど触れましたように、息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂をとって裁きを曲げ、イスラエルはサムエル以前の状態に戻り衰退します。そうして異教のペリシテ軍をはじめ他の軍事的な勢力をもつ周辺諸国の脅威にさらされていったというのであります。民はそのような不安定な状況の中で、ますます自分たちに与えられた神の祝福と恵みを見失っていくのです。
そこでイスラエルの民が欲したのは、「ほかのすべての国々のように、自分たちのための王を立てる」ということであったのですね。士師や祭司と王とではどう違うのでしょうか。
士師や祭司は、神と人の間に立って民を導き、裁く人々です。一方の王は、その権力によって民を支配し、国を存続させようとする存在です。ですから、この「ほかの国々のように、王を立てて」というのは、力と権力で民を統制し、イスラエルという国家の確立を第一の目的としていたのです。
内部の衰退化と外圧によるあつれきという二つの脅威にさらされていたイスラエル。そこで民が求めたのは「ほかの国々のように王を立て、軍事的に強い国となる」ということでありました。けれども、それはまさに「イスラエルの民をこれまで何度となくその危機から救い出し、導かれた主なる神を棄て、自分たちが立てた王の権力に従っていく」ということを意味していたのであります。結局イスラエルの民は、そのような「攻撃的な社会」の中で、主の愛と慈しみに留まって生きる恵みを、自ら手放していったのです。
現代の社会にありましても、よその力ある国にならい、王のような権力者を立て、それを讃えて、外からの脅威を解消すべく軍事力で対抗するという現状が実際あるわけですが。しかしどうでしょうか。日本が敗戦後、軍国主義的な道をあゆまず、いかなる戦争もせず、又他国の戦争に参戦することがなかったからこそ、まがりなりにも戦争のない平和が築かれてきたのです。日米安全保障条約やアメリカの核の傘に日本は守られていたから外国から侵略されることがなかったのだと、おっしゃる方がたもおられるかも知れませんが。そうでしょうか。アメリカの言う事を聞いて日本がイラク戦争(侵略的な戦争)に参戦していていたとしたら、日本の犯した罪は問われ続け、テロの脅威にさらされることになったのではないでしょうか。日本がまがりなりにも直接的に軍事力でもって参戦できなかったのは、憲法9条の平和のしばりがあったおかげです。主イエスは「武力を取る者は武力によって滅びる」とおっしゃいました。武力によって平和が築けるなどあり得ません。今、シリアで内戦が起こっていますが。映像で見る限り壊滅寸前であります。この日本の平和も、今、国会議員たちが憲法改正を狙い、日本もほかの国々のように戦争ができるような国にしようともくろんでおります。それは攻撃的な社会を助長していくことであり、与えられた平和を自ら手放してゆくようなことです。愛国心教育、かつて戦争を正当化する歴史改ざん教育と、どんどん私たちの日本も、このイスラエルの民のように「ほかの国々のように、戦争ができる国づくり」に向かっているということに、主にあって関心をもち、国の首長たちが誤りないように祈っていく必要がほんとうにあります。

③「王を立てる」とは。
もう一つ、イスラエルの民たちには自分たちの現状に対する不満や不安が極度に募っていたのではないしょうか。そこに、神に対する不信があったことは確かです。
先行きの見えない時代にあって、早く先行きの見通しがつく即答が欲しい、そんな焦りのような思いの中で、彼らは白黒、敵味方をはっきりとさせ、歯に衣着せず公言し、自分たちの不安や不満を解消してくれるような王を求めたのであります。
私たちもよく、すばらしいリーダーを立て、組織立てることで、あらゆる自分たちの問題が解決されるように思いますが。実際のところ果たしてそうなのでしょうか。イエスさまが預言なさったように、終末的世相の中で政治の混乱がいたるところで見られる昨今であります。これは今日の時代に生きる私たちにも当てはまることです。不安定な先行きの見えない苛立ちの中で、人々(世)は力をもっているような人や指導者を求めます。その指導者が敵対勢力を明確に示し、それをぶち壊す、倒すことこそ社会が変わることだと主張して、それが人々の不安や憤りのはけ口となり、すっきりした気分になり、なんだかその指導者が何もかも解決してくれるような思いになってしまう、そんな幻想を抱くのです。いつの間にか人々はその権力に取り込まれてしまい、もう後で振り返っても手遅れ、元には戻れない状態になってしまう。かつての日本の犯した侵略的な戦争も、そういうかたちで人々が権力に取り込まれていくなかで起りました。

10節、サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えました。それはイスラエルの民が王をもつことによってこの先起こる警告でありました。
それは、主の民として生かされ、与えられていたものが、王制国家になることでその支配下におかれ、取りあげられていくという内容でありました。
第一は、「王が戦争のためにあなたたちの息子を徴用する」という事です。
第二は「王のためにあなたたちの娘を徴用し、料理女、パン焼き女にする」という事です。
第三は、「王があなたたちの最上の畑(土地)を奪い、家臣に分け与える」という事です。
(今月の26日はバプテスト連盟女性連合で、沖縄を覚える「ぬちどう宝」の日ですが。古来より受け継いできた沖縄の人々の土地や畑が米軍基地のために徴用されている、これが沖縄の現実であります。)
第四は「王があなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、家臣に分け与える」という事です。
第五は「王のために、あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれたた者や、ろばを徴用し、働かせる」という事です。
第六は「王は、あなたたちの羊の十分の一を徴収する」という事でありますが。まあこのように、イスラエルの民が自分たちのために、ほかの国々のように王を立てるということは、まさに民が王の統治と支配のもとにおかれ、自分たちが神から与えられてきた恵みの賜物を、王のために、又戦争のために否応なく徴用され、徴収されてしまうということを意味していたのです。それは又、王の私利私欲や野望による戦闘的な戦争に組する義務を負わされる、ということであります。
主はサムエルの口をとおしてイスラエルの民に次のように言われます。
17節「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ」。
当初イスラエルが王を立てた時は、王と祭司とが権利と権限を分担して国を統治していたのですが、その形態が次第に崩れ、絶対王権に変わっていき、サムエルが主の警告の言葉を語ったとおり、民は王の奴隷となる苦難の時代がやがて来るのです。イスラエルの民は主にある自由を選ぶことなく、強制され王の奴隷となることを自ら選んだのです。

④真理とは
最後に、私は今日のところを読む中で、この世の王と神の国の王について思わされました。祈祷会Ⅱの時にも出されたことですが。ヨハネ福音書18章の終りの箇所に、ローマ総督ピラトによってイエスさまが尋問を受ける、そのやり取りが記されております。ピラトはイエスに「それでは、やはり王なのか」と問うと、イエスはこうお答えになります。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く。」
その後、ピラトは「真理とは何か。」と言って、そのやり取りは終わっています。

神の国の到来を信じ待ち望む者は、このイエスさまが最後におっしゃった「真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」という言葉の意味を知っています。ローマ総督という世の王のような立場のピラトは、その真理を知る事はなかったのです。私たちはこのイエス・キリストをして真理の御声に聞き従います。その真理であられる方こそ、私たちの真の王なのです。ほかには何をも真理とすることはできないのです。どんなに立派な王や権力者をも真理とはなりえないのです。イエス・キリストは地上の王や権力者たちのようにではなく、神と人に仕えるしもべとなってこの地上に来てくださいました。そこに世の王と神の国の王の相いれない決定的違いがあります。

先週ある出来事やある牧師のお話を伺う機会があり、つくずく考えさせたれたことがあります。それは、ここでいえばこの大阪教会、又この礼拝は、見えるかたちでは世にありますけれども、しかしこの世のものではない神の支配と統治のもとにあります。
それは、礼拝や祈りを捧げようとするすべての人を神の教会は受け入れるものであり、又、礼拝や祈りを捧げるため神に乞い願う人たちすべての信仰の自由が保障されているのであります。まさにここに神の支配、神の国が存続していると信じます。ここにはいかなる世の権力や官憲が信教の自由に介入し、奪い侵害しようとしても、それは許されておりません。この世にあって小さく、弱くされている人たちが魂と平安をおける最後の砦・防波堤であると信じます。
主にあって許され、魂の平安を戴いている私たちが、主の兄弟姉妹を受け入れ、許し合い、互いに支え合っていくとき、おのずとこの大阪教会の礼拝や諸集会、又交わりの場が、様々な人たちの魂と平安の居場所になっていくことになると、そのように確信いたします。

イエスさまは言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8章31-32節)主の霊のあるところに自由があります。今の時代に目を凝らし、人をほんとうに生かし、自由を与える神の国の王であられる主イエスと、その真理の言葉に聞き従ってまいりましょう。
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