奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

シリーズの終わらせ方

2011年01月26日 22時49分18秒 | アニメ・コミック・ゲーム
ファンが飽きるか、著者が飽きるか。コミックの場合は雑誌連載が基本のため、終わることに重きが置かれていない作品が少なくない。
作品全体として一つの落とし所に向かって収束していく構造を持った作品であっても、過程である一話一話の連載が大切であり、広げた風呂敷をうまく畳めなくても仕方ない面は確実に存在している。著者やファンはそれで納得できないかもしれないが。

こうした作品を句点型の終わらせ方とすれば、緩やかな完結を読点型の終わらせ方と呼べるだろう。卒業や恋愛成就は一つの区切りではあるがそれで終わらせるかどうかは著者の意向に過ぎないとも言える。
『らき☆すた』のように主要メンバーが高校卒業しても何も変わらないかのごとく連載が続く作品もある(でも、ある意味例外的作品にあたるだろう)。

ストーリー性に乏しい作品が終わらせるために急展開を迎えることもよくあることだ。まさに終わらせるためだけにストーリー性を導入するというのも変な話だが、『GS美神 極楽大作戦』のように大団円を迎えたあとで再びストーリー性が希薄な通常モードに戻ってしまったケースもある。

コミックである程度のシリーズの長さを持ち、調和の取れたラストを描けた作品はほとんど思い浮かばない。『ぼくの地球を守って』がそんな稀有な例だろうか。『鋼の錬金術師』は途中までしか読んでいないので、終わらせ方を評価できないのが残念だ。

TVアニメは現状企画時点で話数が決まっている場合がほとんどだろう。
昔は4クールの放映が多かったため打ち切りの憂き目を見た作品が数多かった。作り手にとっては不本意だろうが、打ち切りによって優れた終わらせ方が出来た作品もある。『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』が挙げられる。

原作のあるTVアニメでは、原作が未完の場合、曖昧な終わらせ方をするかオリジナルの終わらせ方をするかに分かれる。しかし、後者を選ぶことは少ない。続編の可能性を残したり、ファンの声を尊重するためでもあるが、そこまで踏み込む勇気のある作り手が少ないという印象を持っている。『鋼の錬金術師』(2003年版)は原作とは異なる独自の路線を突き進んだ数少ない傑作と言えるだろう。

オリジナルのTVアニメでもほとんどの場合スタート時点で結末は用意されている。TVアニメではコミックの連載のように読み手の声をフィードバックしていくのは物理的に難しい。『新世紀エヴァンゲリオン』は例外的であり、物理的な困難があのエンディングを生み出してしまった。

スタート時から結末が想定されているというのは、シリーズものではなく、一本・一冊で完結する映画や小説に近い形である。しかし、一話一話で視聴者をしっかりと惹きつけなければ最後まで見てもらえない点では連載コミックに近いものがある。
一週間の間が空くため、複雑なストーリーは視聴者に受け入れられにくいのも特徴だ。誰もが録画して見直してくれるわけではない(コミックの連載も同様だが、まだ直近のバックナンバーくらいなら読み返してもらえる可能性は高いし、コミックス派の存在もある)。
そのため、句点型のエンディングであってもオーソドックスな展開が好まれる。意外な二転三転はそう多くない。

小説のシリーズものの最大の特徴は、完結しないシリーズの多さだろう。
探偵もののように完結を前提としないシリーズもある(ポアロのように例外もある)が、完結前提のシリーズでも完結しないまま放置されているシリーズが少なくない。もちろん、著者が生きている限り(死んでも継続するシリーズだってあるが)完結の可能性はないわけではない。だが、様々な理由で書けなくなってしまう。

シリーズものが大半を占めるライトノベルではまだ編集の圧力が強いためか比較的完結に至ることが多い。一般小説の場合短いシリーズはともかく、長いシリーズは完結する例の方が少ないのではないかと思えるほどだ。「読点型」ならいざ知らず「句点型」を投げっぱなしにされては読者としてはたまったものではないが。

完結しやすいライトノベルの場合、シリーズの位置づけがコミックの連載に近く、一冊一冊での人気が重要となるためそれほど完結に重きを置いているようには見えない。
2年半近くの間を空けて完結の上下巻を上梓した『フルメタル・パニック!』はライトノベルの中ではかなり完結への高い意欲を示した作品であり、エンターテイメントとしては非常に完成度の高いエンディングを迎えた。この作品の意図である、ボーイミーツガールとして主人公の成長を描く物語としてはこれ以上のエンディングはないだろう。

完結の素晴らしさという一点においてのみ特化したような作品、それが『戦う司書』シリーズだった。
ライトノベルのデビュー一作目は新人賞への応募作品であるケースがほとんどだ。ライトノベルの性質上シリーズ化が前提とはいえ、シリーズ全体を見据えたその一作目として書かれることは稀だろう。
そんなデビュー作だったこのシリーズだが序盤は面白いと感じることは少なかった。シリーズっぽさが希薄だったのだ。同じ世界観、同じキャラクターだが、主人公が作品ごとに違ったり、シリーズ全体として向かう方向性が描かれていなかった。
それが中盤以降描かれ出してから興味を惹きはじめ、終盤の急展開の連続に呆然となった。一作目が書かれたときに著者がどこまで見通していたかは分からない。ここまで二転三転しながら全てがちゃんと収束していく、それが凄まじかった。

『フルメタル・パニック!』はSF設定もきちんと描こうとした作品だった。その点でもきっちりと完結させてはいる。ただ『戦う司書』を知っているがゆえに物足りなく感じてしまった。
繰り返すが、『フルメタル・パニック!』のエンディングはこれ以上ない出来だ。作品のテーマとしてこれ以上のものを求めるのは間違っている。それが分かってなお、あと一ひねりを求めてしまっている。

エンターテイメントにおいて、「終わり良ければすべて良し」は間違いだろう。エンターテイメントはジェットコースターみたいなものであり、走っている過程こそが大切だ。もちろん、終わったときに面白かったと満足を得られればいいわけだが。

シリーズ全体を客観的に評価するならば、『戦う司書』は『フルメタル・パニック!』よりも明らかに劣る。エンターテイメントでは一つ突出した部分があればそれはそれで十分に評価足り得るので、『戦う司書』もまた優れた作品だとは言えるが。

『フルメタル・パニック!』には2種類の短編シリーズがある。サイドアームズは本編を補完するシリーズである。一方、ギャグ主体の短編シリーズが存在する。
本編の長編とギャグ主体の短編の構図は『スレイヤーズ』を起点とした仕掛けである。『フルメタル・パニック!』では本編がシリアスになっていった後、短編の執筆は止まってしまったが。
長編の持つストーリーの面白さ。短編の持つキャラクターの面白さ。近年のライトノベルは緩やかなストーリー性の上にキャラクターの面白さを際立たせる手法が一般化した。ライトノベルに限らない。空気系アニメや四コマ系コミックの隆盛もある。

「句点型」の物語は求められているのか。
作り手はストーリー性にこだわることが多い。だが、受け手は作り手ほどストーリー性を求めてはいない。キャラクターやシチュエーションなどを消費するだけの受け手ならば、ストーリー性はむしろ邪魔だろう。

ゼロ年代男性主人公が平穏を求めているように、受け手も平穏を求めているのかもしれない。ストーリーとは平穏を乱すものだ。ゼロ年代はストーリーなしでも作品が成立することを証明した。
そんな平穏での癒しは現実逃避に過ぎない。しかし、エンターテイメントとして現実逃避を責めることに意味があるのか。
それでもなおストーリー性にこだわるのであれば、その覚悟を作品を通して見せて欲しい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿