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9月22日(金)のつぶやき

2017年09月23日 06時22分18秒 | Twitter
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Unknown (名無し)
2017-10-22 03:23:30
>内容よりも目立てば正しいみたいなスタイルができてきてるね。

フェイクニュースとかもそうですね。
真実というより、「真実らしく見えるもの」の方が前に来て、その熱量の高さによってコミュニティ化したUIが作られる、と。
真実でもない物がさも真実らしくジャーゴンとして流布される状況とか似てると思います。
別コメのそれもそうですけど(本には書いてない事が書いてあるように流される)。
今年の初めの方でしたか、「若年層はニコニコとかもう見てない」「女子高生に聞いた話だけど、オタクとしても初音ミクとかオワコン」という匿名ブログをソースにした記事を書いた人に対して色々とまた別のアフィリエイトブログなんかがネタにして、というのがあったのですけど、この連鎖にしても元ネタがもう匿名ブログという時点でソースもなにもあったものじゃないんですけど、それでもネタとして食い付きやすいと言う方が重要で。

「私の聞いたところによれば」を免罪符にネタを創出してしまうことができ、それのインパクト勝負になってしまっている状況は最近特によく見ます。
まとめブログなんかのタイトルの付け方なんか特にそうでしょうし。

実際、「ニコニコ動画が敷居高くなりがちで若年層はyoutubeに流れる」まではその通りだと思います。ログインするのも面倒だし、インターフェイス的にも凝り過ぎてて面倒臭いしで。ただそれと繋げる形で「女子高生に聞いた」は、サンプルが一人で、尚且つ個人の視点を拡大し過ぎなんですよね。
もちろん一人の視点は重要ですけれども、今年の夏に開催された超会議ではそれをひっくり返すような客層が集まっていましたし、そもそも客層からして「ライトな」ユーザーと「コアな」ユーザーは当初から住み分けられていて、一時的にあそこが両方を包括していた時期があったという状況がありました。
全体的に見れば「ライトなオタク層」の拡大を突き詰めた結果としてyoutubeにそうした層が流れ、住み分けが再度成されただけ、と見る方が自然だと思います。
これをして結論が「若年層にとって濃いコンテンツはオワコン」とか言ってみたところで、「プロの作るコンテンツを無料で見る方が今っぽい」と結論してしまっても、そもそもそうしたプロのコンテンツ自体が草の根と相互作用して生まれてる訳で、なんか違うよなあ、と思いましたw

第一、まとめサイト「しか」見ない人間がいるから2chはオワコンとか言い出せば、その「原料」を提供する現場はアルファになりますから、それってなんか違うんじゃね、と。

最近はライブドアに流れてくるようなニュース記事にでも、平然とまとめサイトや2chをネタにした「記事」が出てきていて、まあネタ探しならそれでもいいにせよ、記者がそれらスレッドに対して「感想を述べる」ような記事まで出てくるようになってきてるのを見ると、取材がどうこうは言わないにせよ、統計もへったくれもないソースや、ヘタしたら捏造や自演すら可能な「記事」を尤もらしく演出することが「真実的価値」みたくなるのはちょっとなあ、と思ったりします。

あらゆる情報は「情報そのもの」でもあるわけですけど、それを何某かの形で切り取った情報が今やネットには溢れ過ぎていて、「誰が言ったか」「どこで言ったか」「どんな媒体で言ったか」に比重が置かれ過ぎてるように思いますね。

>ヴォーカルの華

言語化し辛い部分もあるんですよね。
フォロワー的に出てくる新しいバンドよりその人が凄い、と確実に思える部分とかを考えていくと、それはやっぱり技量だったりするんですけれども……。
Unknown (奇天)
2017-10-24 00:18:53
多くの人にとっては正しいかどうかよりも話のネタになるかどうかの方が重要だったりしますしね。重要度によって求められる正しさが異なるのは当然ですが、その重要度は人によって違います。ニュースの当事者なら他の人には些細な事件でも大変だったりしますし、健康ネタなんかでも切実に困っている人にとっては時として命に関わることだったりもしますし。

とはいえ、ネットにそこまでの厳密性を求めるのも酷ですし、見る側に常に様々な材料を探して判断しろというのも無理です。パッとわかる基準としてのサイトの信頼性、ニュースソースの信頼性も実際のところはかなり微妙だと思います。

自分が専門とする分野以外では、結局のところ、そういう意見もあるという判断の一材料としてニュースを扱う以外にないのでしょう。専門分野でもすべての情報に精通しているわけでなければ、確固たる断定は難しそうですが。

専門家ですら意見の分かれるテーマなんていくらでもあるので、専門家の意見だから正しいというのもナイーブな見方だと思います。ネット以降はそうした知識人への信頼性も揺らいでしまいましたし、専門分野以外で安直な意見を書き込んで信頼性を揺るがしたのは当人たちだったりしましたが・・・。

今日リツイートしたものに、「私は文系出身なのですが、311から近年に至る中で「文系」を代弁する人たちの立ち位置や考え方がひどく時代遅れになり、極端に走って行ってしまっていることが多く心に痛む。逆に、理系・技術者の人たちのロジカルさやニュートラルな精神の健全性に救われることが本当に多い。個人的な感想ですが。」というコメントがあったのですが、文系理系ということではなく、情報が氾濫する中でいかにロジカルに考えられるかということが大事なのだろうと思いました。

もちろん判断材料となる情報の正確さが損なわれていれば論理的に考えても正しい答えに至らないケースもありますが、間違いにくくなるためには客観的に論理的に思考する以外に道はないと思います。

バラエティの番組の内容だけを記事にしたニュースなんかも見かけますが、TVはスポーツとニュースとアニメしか見ないので、それはそれであっていいかなあなんて感じていますw
Unknown (名無し)
2017-11-12 19:26:07
そうですね。
恐らく、先のコメントにしても、記者にしてみればそのニュアンスは「今はこういうのがヒップで、時代は変わってる」という、ある意味ではありがちなそれを書きたかっただけだとは思います。
なので自分の切り取り方もまた一面的ではあるなとは。
ただ、そうした切り取り方を許してしまうくらいには「ニュース自体がそうなっている」という意味ではあるなと思いますけど(苦笑)。

実際問題、情報の新鮮さとか古さとかに、一般層の考えるそれとテレビに映るそれ、それ以外の領域という大雑把な空間しかないのですよね。

youtubeの「コンテンツ消費」にしたところで、「気軽にプロクオリティの動画を(グレーゾーンも)」消費するだけと言ってしまえばそれだけでしかないのに、語り口を作ろうとすればそうなってしまうわけで。

専門家について言えば、間違いなくそれは必要だと思います。
実際問題、「判り易く」信頼できる言葉がなければ、基準が見付かりませんしね。
福島での原発事故後ですけれど、「専門家」でない、人文系の人が集めてきた情報で「専門家」のようにふるまい、風評被害を助長したことがありました。
まだその意見を翻していないというか翻す立場の人ではないのですけど、コミュニティ的にそうした立場の人は自説をイデオロギー的に使うことがあり、そうした事例は割とよく見てしまいます。
ある種のトンデモなのですけどね。
問題はそれが内輪で完結する兵庫のような物ではなく、その人たちがその場で言い捨てた言葉がネットで拡散されることで意見を広め、更にはその人たちはそれを肯定するという状況があったりします。

あらゆる情報は野放図でいいのかみたいな話になるかもしれませんが、かつては本であった「隠された真実」みたいな話をネットでやるに従い、この境界線が緩くなっているように思います。
制御は必要かという話ではなく、個人個人のリテラシを制御に用いなければならないという話で、SNSやまとめサイトなどで広がるコメントの連鎖というのはこうした状況を制御し切れてないなとも。

実際、原発事故後のケアに当たっている方から話を聞いたことがあるのですが、結構そういう話はあると聞きました。
専門家は専門家の中でやれることをやるしかないわけですけど。

丁度、書き込みをした日あたりにはタイムリーな話題だったんですけど、以前、朝生で自衛隊員の身内を持つ芸人が「専門家は実際に戦うわけではないのだからお前が言うなと言いたい」みたいなことを言っていて、それについて色々な意見が付いているのを見ました。
概ね反応は感情論だけが目立つ構造になっていて、Twitterを巡ってみた感じでは毎度の印象でした。

実際、そこで話されていた話にしてもその文脈上「自衛官以外が語るな」になってしまっていて、であれば、自衛隊という国家予算で運営され、その構造の中で職務に付くことを選んでいる人達(或いはその関係者)、という前提を「持たない」人間は「語るな」という片方からの前提の押し付けになってしまってまして。
戦争を煽る人間から戦争に行けと言いたい、というのは結構こうした場所で目にする言い回しで、実際に無責任な発言も溢れてはいるのですけど、国防に関する話で自衛隊の行動容認の全てが「現状の政策に賛成する人間は全部戦争賛成派」となるかというとこれは違うと思いますし、そうした環境における「発言のインパクトや判り易さ」というものが周辺の議論をインパクトで封殺してしまっているのはあるかなと思います。その意見に反対する事が「戦争を賛美している」と思われるのは、恐らく大半の人が許容できることではないでしょうし。
恐らくこれは逆側の話もどこかには(別の前提で)あるのだと思いますけど、「当事者であること」と「当事者を取り巻く環境」はコミットする要件としては別で、国民全員が「当事者」であることは間違いないと思います。反対だ、と言うべき当事者であるだけでなく、その構造を見て「必要だ」ということさえ当事者の役割でしょうし(=「戦争を煽っている」のではなく、その立場に立つ人にとっては自衛隊という構造と諸専門家(自衛隊含む)の行動原理に安全を仮託しているからこそ、行動範囲の制限緩和にも賛同し得るため)。
その意味においては「お前がやれ」は正にどちらの立場の人間にも言える事になってしまいます。「人命は尊いので行動はその範囲に制限されるべき」としてみても、それは警察官にも海上保安官にも言えることで、誰しもが職務という過程を通して構造の代弁者になっていくことは、そう望まれているだけでなく、そうでなければ構造が成り立たないからですし。何より、身も蓋もない話になってしまえば、「必要のない組織に予算は回らない」ことにもなってしまいますし。
感情論を抜きにすれば「誰かがやる」しかなく、その為の構造は戦後を一貫して(アメリカに追随する形で)整えられてきた訳ですし。

記事の切り取りの扱いも「政権に反旗を翻す芸人!」とか、逆に「反戦芸人!」みたいな特定の方向から攻撃する取り上げ方しかされてなくて、こういうのも「目立つから」からかなと。
実際には大分前の放送を週刊誌がまとめた物らしく、当時の放送ログを調べたら出てきたのですが、前防衛大臣と対話していたようで、概ね大臣の主張は納得のいくものでした。
というのも、実務担当者である自衛隊員個人の「安全を考える」という妥当性と、「自衛隊の存在する意味」は相反するものではなく、後者があり、その包括される前提の中に前者もあり、ただしそれは今の日本の位置付けの中で議論されるべきで(国際貢献や外交的な駆け引きも含め)、前者に重きを置き過ぎれば、後者を妥当性(構造の必要性)のレベルで考えることができなくなる、という意味ですけど。

日本では、この境界線上にある「志願制の軍隊」と、「それに纏わる議論」が無数のタブーで覆われていて、どこかで何かをどう語ったとしても、何かが誰かに引っ掛かってしまうような印象があります。
「志願した以上はやれ」とか言う話ではなく、「志願して、そこで職務を全うする為の努力が日々行われている」という前提の中で、その構造自体が国防という概念と不可分になっているわけですから、日報問題とかそれ自体が現状における問題は議論するべきであると同時に、そもそもタブー化している前提すらも議論しなければ始まらない部分が今の日本にはあるように感じてしまいます。
アメリカに追随する政策だからそれに賛成する人間は悪だ、とかいう話ではなくて、部分的には確実に追随するしかない国防環境の中で、じゃあそれをどう見るか、というところが本来の議論の前提の筈ですし。観念的に悪だ、と切り捨ててしまえば成立しない話は確実に有ります。

国防の理想に関する問題は「相手」が存在することで、個人個人の属性を最大限に尊重してしても、「構造」のレベルで対処するしかない存在には、それが通用しないんですよね(そもそも理想を突き詰めていけば戦争が起きる状況を世界から取り除けばいいとなりますけど)。
それを別の構造で代用できると主張してみても、その妥当性を担保するには膨大な情報や知見が必要で、少なくとも市井の一般人がそれを判断するには、「専門家」は必要になってきます(この場合の専門家は将校も含めてですけど)。
例えば身内個人の一人を大切に思う、ということは当然で、だからそれは正しい、と主張するのはいいとして、その身内が所属する全体「の意見」はその個人とは違うこともあり得るし(というか恐らく無数過ぎて特定の意見に固定できない)、一人の事情からフレーミングした視点と、組織が妥当性を持って出した結論は別物になりがちです。
だからこそ、というとヘンかもしれませんが、「国防」を考える上で一般人がそれを捉えるなら、「専門家」は必要だと思いました。この場合、防衛大臣が「専門家」と言うべきかはともかく(苦笑)。

一般人が別の一般人に「非国民だ!」とか言い散らすのはアレですけれど、個人の属性(自衛官とか自衛官の身内がいるとか、芸人だとか、有名人だとか)に特権性を持たせて「語っていい」条件を設定してしまえば議論なんか成立しなくなるし、それこそ「政府の独断」とは逆の「独断」になってしまう危うさも感じるんですよね。その反面、「専門家のいう事は全て正しいのか」みたいな話になるのであれば、それを判断できる役割を多数の視点で切り取るのがメディアの役割だと思います(まあ大体インパクト重視でやってくれないので自分であれこれ調べる羽目になりますけど)。
ある意味では有名人の「属性」を通して、自分たちの意見を可視化しているだけかもしれませんけど。
ただ、それをやることでその個人の思想や意見を感情レベルで肯定する方向だけに向かってしまっていると、「AはBという理由でCだと思う」という意見さえ、「AはAだから正しいだろ!」みたいに否定されてそれまでになってしまっているような状況もあり、それはどうなんだろうみたいな。その切り取られた空間(空気)の中では、そもそもの議論という主張が「戦争賛成派」扱いされてしまっているのでは、恐らくその意見を出すことさえ憚られると思います。

まあTwitterの一部分だけ見てるようなものですからこんなのはただの杞憂でしょうけど、ただその一部も今の世論の反映だと考えると、思想の左右を問わずに「感情的」であることからは誰も逃れられないし、恐らくこう書いている自分の意見も感情に左右されていて、それを妥当なレベルにするにはやはり議論が必要なのでしょうけど、その土台ってどこにもないんだろうなと思わされたりしています。

なので、その意味でも「専門家(在野であってもデータ的に意見や構造を集約できるスキルを持つ人間)」は必要になりますし、そういうのはけして無意味ではないなと。
あらゆる環境から自由ではないからこそ、「自分の意見」はTwitterや芸能界隈なんかでは固有化され、属性になり、それによって意見に縛られるものだとは思いますけど、それを取り巻く環境そのものが派閥争いみたいになってしまっては、それこそ議論とか無理じゃね、みたいなのは感じますねw

>文系理系ということでは~

もの凄い同感です。
というか、最近まで考えていたことと全く同じでした(苦笑)。
文系で、ということはまあ、よくある「思想界隈」的な話になると思うのですが、極端になりがち(コミュニティ化した中での言説を膨らませる)というのは感じていたので。
言論界隈とか、一部の有名人もそうですけど。

「リベラルであるべき」という自己言及的な、テンプレ的なコミュニティへの帰属をやってしまっている感覚と言いますか。
リベラルも保守も思想的には原則論で、何々であるべき、あるとすばらしい、という理想はありますけど、それを社会に対して適用するとき、原則論的になり過ぎて議論をすっ飛ばして「何々でないのはおかしい」になりやすくなってないか、と。

なんというか、以前にリベラル学者が「リベラル(皮肉を込めたニュアンスで)」を批判していた本で語られている典型の状態を目にしている気がします。
ざっくり言えば、「どんな思想であってもコミュニティ(自分の)利益になるようであれば擁護するし(無遠慮なアナーキズムさえ)、矛盾を訂正できない」みたいな感じではあるのですけど(更に言えばその環境から利益を得られる人間がそのスタンスを擁護する場合もあると)。
もっと言うと「ボーリング・フォー・コロンバイン」とかを引き合いに出して、「絶対的な思想の完遂を目的とし過ぎて、現実的な対処(その時点での最善)をスルーしたり」という。
Unknown (名無し)
2017-11-12 19:30:59
あ、「リベラルであるべき」云々は「保守であるべき」も同様ですね。
真っ先に目に付いたのが自分の周辺だったので余計にリベラルの方が目に付いただけで(苦笑)。

ただ、敢えて言えば「保守」は現状維持(的)になりやすいことから、原則論における妥協がやりやすいのはあるのかもしれません。
というか、今は保守やリベラルという言葉がレッテル化してしまって、「現状維持」「改革(改善)」というより、特定のコミュニティを指すニュアンス(それも正しいのですけど)になってしまってますけど。

別に「最善」とまでは言わないまでも、例えば議論する余地のあることに対して極端な姿勢を取ったり、ある目的はある思想(理想)において正しいので絶対に擁護されるべきであり、これに反対するものはリベラルではない、というような環境においては、議論そのものが辛いな、と。
有名人の言うことが正しい、みたいな人物の属性に正当性を担保させる状況もですが。

批判と改革(というか改善)は必要でも、「とりあえずの批判」はトートロジー的な批判になりやすい、という轍を踏んでしまっている「ロジックのなさ」は界隈には多い気がします。

別コメですけど、奇天様が仰ったようにやや右に傾くことで全体のバランスが以前より取れるようになったのが現状だとして、それでも評論家界隈や一家言持ってる人はリベラル(今回の文脈で言えば「極端な」という意味で)でナンボなわけで、そうした人達はコミュニティから弾かれないようにしているなとは思います。
弾かれないようにというか、コミュニティの代弁者になってしまってるなということですけど。子供の頃に読んでいた本の作者の人達がTwitterでそうなっちゃってるのを覗くと、結構あーってなっちゃうとか(苦笑)。
音楽でもそうで、バンドで「政治的であるべし」みたいにされちゃってる人はいたりして、そういうのを見ると結構冷めちゃったりするんですよね。政治的だから冷める、というより、コミュニティに巻き込まれてコミュニティの論者たるべし、みたいになっちゃってることが、ですけど。
政治的なバンドで、アメリカでは特にそうですけど、「その立場を取ることで攻撃される」ことを承知でその界隈で発言する、という覚悟と表現があるバンドと、「界隈のコードに従ってるからそれを言えば目立つ(売れる)」というバンドは無数に存在して、それを区別することは困難ですし。
ただ、そういう人たちも国家という制度の中で音楽を作って(音楽を作る自由)、それを売ることで(インフラの享受)をしているわけで、ここで「だからお前らは政府に従え」というのはおかしいですけど、じゃあ「その恩恵をどう制御して、どう社会を整備すればいいのか」は考える必要があります。
国家同士の関係はカオスですし、理想だけで軍事力を整備できれば苦労はありませんし、その時々で否応なく判断を迫られる事柄は多いです。だから専門家は必要、というのはここでも言えると思います。
「あらゆる社会的インフラを投げ捨てて理想に尽くせ」と言える人は多くありませんし、それに従える人はもっと少ないでしょうし。
というより、音楽に関するこの「微妙さ」については、「批判そのものをテーマとして、その物語に浸ることで一時的な楽しみを得ている」場合もある、という状況に対するものではあるんですけど(日本とアメリカだと事情が違い過ぎて、追悼フェスとかアメリカでやってるのは普通だと思います)。
この十年くらいで政治的な立場の主張みたいなのはSNSの氾濫もあって目立つようになり、個人の属性として結び付きを担保しつつ、違和感も増してきたように感じています。

サージ・タンキアンの「切腹」というアルバムのPVは結構その辺を俯瞰した作りになっていて、ちゃんとしてるなあ、と思ったりするんですけど、「批判者という立場になって利益を掠め取る」形になっていないか、という批判は必要だなと感じます。
いずれにしろ日本だと前提として「反発するべき政府(=アメリカに追従している)」的な批判「だけ」しか目立たず、このへんが伝わらないというか、批判の為の批判になってて「それだけでいいの?」となってしまうというか。
まだ個人の懊悩のレベルで社会に訴え掛けているバンドの歌詞の方が「響く」なと。

実際、くだんのコメントで頂いたように「少し右(保守化)になって普通になったのかも」的なことをちょっと話した(書いた)ら、「ネトウヨっぽい」と言われ(書かれ)てしまったり、このへんはコミュニティのコード(流通している言葉やその言葉に対する反応がネット上には無数に存在していて、それに対してテンプレートな反応を返すことでコミュニティが維持される)が保守にもリベラルにもあり、そういうパターンで文系界隈は特に固まってないかなあ、と感じたりすることがあります。
別の場所でちょっとコメントを書いたら「サヨク乙」とか言われ(書かれ)たこともあり、「何か該当の言葉に触れる」ことが反応を引き起こす環境というのはあるように感じるんですよね。
自分の思考や考え方は当然無数の情報から構成されている訳で、それがそれらと作用するだけで反応するのであれば、これはかなり面倒だな、と思ったりすることはあります。
Unknown (名無し)
2017-11-12 19:50:22
ああ、酷い誤字が>問題はそれが内輪で完結する兵庫のような物ではなく

兵庫→標語ですね。
流石にちょっとアレなのでこれだけ(苦笑)。
Unknown (奇天)
2017-11-13 23:41:31
物事を捕える上で大事なのは、

・論理的に考えること

・歴史に学ぶこと

・属人的にならないこと

の3つが大切だと思います。本当に当たり前のことですが。

論理的に考えるのは基本中の基本ですが、ここから躓くことがあります。偏見や感情論など歪んでしまう原因は多々あります。ニュートラルに見ようとしていても誰しもある程度の偏りは発生してしまいます。それを他人に指摘されて反発するか受け入れられるかが大きな違いだと思います。

歴史に学ぶというのは、いろんな形があり、例えばいま行われている議論もそのほとんどは過去から連綿と議論され続けています。その議論の歴史の中からなぜ決着が付かないのか見えてきたりします。
もちろん単純に歴史を知ることで現在の在り方が分かる場合もあります。また歴史自体もどんどんと更新されているわけで、歴史をどう捕えてきたかの歴史という視点も面白かったりします。

twitter等SNSの議論でもっとも目立つのが属人的な批判です。主張ではなく、それを語った人物を叩く。なにをやっても安倍が悪いなんてのがまさにそれですが、議論の分が悪くなると相手を非難するようになるなどtwitterでよく見かけます。
嫌いな人物の意見は叩きたくなるというのも心情ですが、意見と発言者を切り離さないとまともな議論は成立しません。これは議論だけでなく、創作物などでも言えることで、作家がアレでも作品は別物という見方ができるかどうか、受け手が問われていたりします。

私自身はリベラルと自称していますが、おそらくリベラルの人たちからはネトウヨ認定されるでしょう(笑)
右か左かの前に、リアリストかどうかが大事なのだと思います。他人から右だ左だと言われるのは構わないのですが、リアリストじゃないと言われると辛いかも。いや、結構理想主義なので、本当のリアリストからは甘く見られると思いますが・・・。

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