バンビの独り言

バンビことけーちんの、あくまでも「独り言」デス☆

2015.10.7「鈴木桂子×浅井智子 お母さんを楽しむヒントありマス」トークセッションしました@多治見

2016-01-06 01:16:00 | 講師

2015.10.7(水)、岐阜県多治見市で講演(トークセッション)しました!
http://blog.goo.ne.jp/banbiblog/e/05a2c1b7ca54f390730256166cd465f8

相方は、岐阜県の多治見の森のようちえん「森のわらべ多治見園(http://plaza.rakuten.co.jp/morinowarabe/)」の園長ともちゃん!
とても尊敬する、大好きな人。 

これまた、安藤順さんがブログを書いて下さって(泣)はりつけさせてもらいます!

http://hyakuyobako.boo-log.com/e337231.html
http://hyakuyobako.boo-log.com/e337450.html
http://hyakuyobako.boo-log.com/e337702.html
http://hyakuyobako.boo-log.com/e337790.html
http://hyakuyobako.boo-log.com/c15539.html

そして、一部抜粋・転載します。
(全部転載したかったけど、文字数オーバーになっちまったから、補足説明などカットさせてもらいました)
順さんが勉強会されているモラルハラスメントについてもご一読ください。 

10月7日(水)に虎渓山町の徳林院で開催された、鈴木桂子さん×浅井智子さん トークセッション in 多治見 。
主催してくださったのは、たじみプレーパーク楽風 ママ企画のみなさん。







さあ、始まりました。




ドラッカーは、リーダーの定義は"ついてくるものを持つ者"だと言いました。
そしてリーダーは"ついてくる者に自己実現の機会を与える者"であるとも言いました。

浅井智子さんはまさにリーダーですね。
浅井さんは厳しいけれど、そんな浅井さんに懸命についていく人は自己実現の機会を得るでしょう。
言いかえれば浅井さんは、浅井さんについてくる人たちがそれぞれの可能性を実現するために手を貸し続けているのです。
タフでなければできませんね。

鈴木桂子さんは浅井さんのようなリーダータイプではないけれど、リーダーのすることはやろうと思えばたぶんすべてできてしまう人。

しかしイノヴェーター的な才に溢れているから自分の強みを生かして先に進んで行く人でもある。
そして進む過程で磁場のようなものを産み出し、僕らはその強力な磁場に囚われ、巻き込まれて・・・え〜と、つまり彼女は・・・エスパーです!( ´ ▽ ` )ノ

チビコーズ。
聞いたことあるような。

・・・しかしそれは勘違いでした。

僕が名古屋や東日本のあちこちであんなことやこんなこと(?)をしていたとき、鈴木桂子さんは西町で古着屋チビコーズ(chibicos')をお友だちと切り盛りしていた。

先日多治見で開催された浅井智子さんとのトークセッションの冒頭の自己紹介で、桂子さんはチビコーズのことにサラリと触れました。
旭の敷島会館での耕縁会のときもサラリと。
サラリと話したのには訳があるでしょう。
なぜならきっとたぶん、チビコーズの話をするだけでもボリュームたっぷりの講演会が何度も開けちゃうだろうから!( ´ ▽ ` )ノ

鈴木桂子さんの原点であろうチビコーズを僕はまったく知らない。
あぁ、もったいないことをしたなあ、と思うのです。

チビコーズがオープンした年である1997年。
僕は転職を機に東京から久々に愛知に舞い戻り、名古屋は守山区の白山に住んでいました。

そこから稲武にほど近い山間部にある実家にはたまに行くけれど、チビコーズがあった豊田市駅前の西町界隈にはほとんど用事がなくて、その存在を全く知りませんでした。

その後転勤にて守山を離れ再び東京へ引っ越してしまったから、チビコーズを立ち上げ、チビコーズの経営に桂子さんが関わっていた時代、チビコーズが存在した時代に僕はお店の前すら通っていないかもしれません。

今はと言えば、住んでいる家から西町は歩いていける距離にあり、チビコーズがあったと思われる場所のあたりも頻繁に歩いてます。

先日西町を歩いたとき、この界隈を当時の桂子さんはいろ〜んなことを思ったり考えたりしながら、こんな風に歩いていたんだよな、と思い、不思議な気がしました。

どういう人生を歩んだらああいう人になるのか?
智子さんにも言えることですけどね。
お二人とも素晴らしい人柄の持ち主です。
お二人とも"人間"が練られています。

ひとつまえの記事に、よく知らないのにあれこれ偉そうに書きましたが、あれを書いたときは睡魔が凄くて。
智子さんについてはまだしも、桂子さんについては寝ながら書いた、とも言えます。マジで。

翌日、書いたものを見て、何だこれは?と思ったのですが、これはこれで面白いかもと直さずそのままアップ。
投稿してから、あれ、最後まで書いてないや、と気づき、桂子さんはエスパー、と書いて締めくくりました。(−_−;)

いや、でも本当にそう思ったんですよ!
間違いなく彼女はエスパー。


彼女は、

僕の心を読む。

僕が聴きたい、知りたい、と思っていることを喋る。

僕が心の奥底にしまっていることを彼女は見抜く。

僕はついあれこれ喋らされてしまう。

どんなときにエスパー能力を使っているかと言えば、目と目があったとき。
笑顔でこちらを見てるとき。
目を合わせたが最後、彼女に読みとられてしまうのです。

たぶん彼女はもう知っています。

大学生のとき4年間やったアルバイト先の店長さんから、なあ、じゅんちゃん、お前はロクな社会人にならないぞ、かなり苦労するぞ、と言われたことや(−_−;)
社会人になって会社の部署の雰囲気にまったく馴染めず無断欠勤して朝から延々世田谷の公園のブランコを漕いでいたことや(その後、ちっ、一番いい新人を回せと言ったのに何だよ、という会話を聴いてしまったことや)(−_−;)
最初の結婚をやめる話をしていて家の中が氷河期みたいな日々が3ヶ月続いたことや(−_−;)独身に戻った開放感から、毎夜飲み歩いてお金をやたら使いまくったり(−_−;)何人かの女の子と同時期に重なってつきあってしまったり(−_−;)仕事で常識ではありえない卑劣な戦法でライバル会社を蹴散らそうとしたり(−_−;)とにかく無茶苦茶な暮らしをしていたことや(−_−;)その当時の僕はいまの僕とはまったく違う人物であることなど。

プレーパークに森のようちえん。

僕はそれらからもっとも遠いところにいましたから。
2009年に両親とも患ったのと再婚することにしたのを機に、東京を離れてこちらに戻りました。
チビコーズはその一年まえに歴史に幕を閉じたそうです。


浅井智子さんが冒頭にはっきり言ったことは二つ。
そのうちの一つは、

今日は録音しないで!と。

スマートフォンやICレコーダーを録音しようと構えていたママさんが何人いらっしゃったかわからないが、浅井さんのその一声でさっと腰を上げて動いた人たちがいた。 

スタッフの方々だろうか。

僕はいつもならノートにびっしりキーワードなどを書きとめるが、今日はやめようと思った。
その代わりiPhoneのメモに、どうしても控えたい言葉があったときだけ入力することにした。

時間を割いて、足を運んで(ときにはお金を払って)話を聴く。
そこのところを腑に落とさずして、貴重で尊い何かを得られるわけはない。

トークセッションはライヴなのだ。

智子さんと桂子さんとお客さんとスタッフの方々。
みんなでつくってみんなで盛り上げるのがライヴ。

(森のようちえん 森のたまごのみなさんが豊田市自然観察の森に智子さんを招いたときも、智子さんは冒頭に集まったママさんたちに向けて、今日はみなさん次第!と言うようなことをおっしゃって煽っていた。あれはあらかじめ考えて発した言葉ではないのでは、と思う。智子さんはあのとき、今ここではこう言うべきだと直感し、強い口調で言い放ったのではないか。
あの日聴きにきたママさんたちが別に悪いわけではなくて、浅井さんがする話にふさわしい雰囲気に浅井さんが持っていきたかったのだと思う。)

何かを与えられるのを、口をポカンと開けて待っていてはいけない。 

お互いに作用しあうのがライヴなのだ。

しかしそれは、大きな拍手をしたり、うんうんと力強くうなづけば良いわけではなくて、気持ちを寄せて話を聴くことが大切であり、聴きにきた人たちがそういう状態にあるかどうかは、眼差しや態度から講師にはすぐにわかる。



再現は無理。
録音したものは所詮偽物。
放たれた言葉は次々と空気に溶け込んで、やがて跡形もなく消えてゆく。

刹那の余韻を楽しんでおわり、では身にならない。
頭と身体とこころを通り抜けてどこかに溶けていってしまったものを自身の血肉とするには、手繰り寄せて、引き戻して、ひたすら反芻することも必要だ。 


行きたかったのに行けなかった人たち向けにせっせと書いているわけではなく、かといって話を聴いた人たち向けに書いているわけでもなく、もちろん智子さんと桂子さんのご機嫌をとるために書いているわけでもなく、実は僕は僕自身のために書いている。

僕がプレーパークと森のようちえんの可能性に期待を寄せて、関わる人たちのお話をできるだけ聴いて、少しずつ、少しずつ、知識を増やしていこうと行動しているのには明確な理由と目的がある。

浅井智子さん、鈴木桂子さん、そしてプレーパーク、森のようちえんに関わるみなさんに素晴らしい人たちが多い、ということはもちろんかなりの引力を持つ。
たまたま子どもたちと接する機会が多い高原に勤務してはいるが、子どもをもたない男性が、女性ばかりが集う場にぽつんと現れるのには本当に充分な吸引力がある。

でもそれだけではない。

プレーパークと森のようちえん、そしてアルプス子ども会には、子どもと大人の両方の発達に働きかける良い作用があるからであり、そしてそれはいじめ、ハラスメント、虐待への予防的アプローチにもなり得るからである。

あるきっかけから複雑なパズル、解けないパズルのようなモラル・ハラスメントという人権侵害の概念を勉強せざるを得なくなった僕は、次第に被害者の救済の事だけでなく加害者の救済にも着目するようになった。


http://hyakuyobako.boo-log.com/e334022.html

しかし大人の加害行為者をレスキューすることは素人には困難であり、そしてどんな場合でも被害者に自身が被害に遭っていることを認識させて加害行為者から遠く離れてもらうようにする作業や、取り巻く第三者からその作業を邪魔されないようにするだけでもう精一杯であることも理解することになった。

関わった人は根が深すぎることを思い知るが、その根の深さは、加害行為者の子ども時代にさかのぼる。

"認知的不協和"は、矛盾を無矛盾化する人のこころの働きである。

わかりやすい例を書けば、親から心的虐待=モラル・ハラスメントを繰り返し受けた子どもは、その行為を虐待だとは思わないようにして過ごすしかない。

なぜそんな人と一緒にいるの?
なぜそんな人の言うことをきくの?
なぜ黙ってあの人に従うの?

上の三つのクエスチョンは実の親から虐げられている子どもにはなかなか向けられにくい。
子どもは我が家の矛盾を自覚する機会が少ないし、自覚するにしても大きくならなくては無理だ。
小さくてもよその家が自分の家とは違うと何となくはわかるが、認めてしまったら地獄が待っている。
それに、自分の親も人前では自分に優しい。だからよそもきっとそうなのだと思うようにして、彼らは生きる。

毎日、毎日、そのストレスに耐えている子どもからすれば、親からのモラル・ハラスメント行為はいじめではなくなっていく。

親のひどい仕打ちは、親が自分のために与える試練だと考えるしかないから。
ゆえに、学校の仲間をいじめる行為は、仲間のために試練を与えている行為であると彼・彼女のこころの中で変換されてしまうこともありえる。
もしそれがいじめであると考えてしまったら、親が自分にする仕打ちも虐待行為だということになってしまうから。
(精神科医の高橋和巳氏は、子どものこころの中で善悪が逆転していく、と著者の中で書いている。)

認知的不協和を低減させるため、子は自分を虐待する親のことを愛そうとする。
自分の親は間違っていないと思い込もうとする。

親なのに子をいたぶるという矛盾。
こんな悲しい認知的不協和があるだろうか。

ここで鈴木桂子さんが旭の敷島会館と多治見の徳林院のどちらの講演においても話していらっしゃった虐待の連鎖の確率の話に至る。

http://hyakuyobako.boo-log.com/e336209.html

幼少期に虐待を受けた人たちのうち約3割の人は自分の親と自分が間違っていないことを証明するかのように自分の子に虐待をしてしまうという研究データがあるらしい。

では残りの約7割の人は?
彼らは、彼女らは、どうして連鎖を断ち切ることができているのだろうか?

その約7割の人たちには子どもから大人になる過程で施される様々な人権教育だけでなく、虐待行為を行う保護者や他者から逃れてそれ以外の大人や子どもたちとのコミニュケーションにおいて相互作用の関係性を築く機会が多々あってこころのバランスを保てている可能性がある。

もちろん中には、見た目と違い本当はかろうじてバランスを保っているだけの人も大勢いる。
連鎖させないからといって、その人が自己肯定感に溢れているとは限らない。
子どもに攻撃を加えない代わりに自分自身を攻撃し続けて次第にボロボロになっていく人も少なくない。

他者を信じられなければ、ひとに寄りかかることはできない。
自分を認められなければ、ひとを自分に寄りかからせることはできない。 

幼少期の不幸な日々の影響に一生苦しむことになる。

不協和の存在は、その不協和を低減させるか除去するために、なんらかの圧力を起こすそうだ。
複数(通常は二つ)の要素の間に不協和が存在する場合、一方の要素を変化させることによって不協和な状態を低減または除去しようとする。
親から子に虐待行為が日常的にあった場合、子は愛してくれるはずの親が自分をいたぶるという矛盾を無矛盾化しようとして、親は自分を愛しているのだ、というストーリーを組み立てざるを得ない。

そんな無茶なストーリーを組み立てるエネルギーたるや!
不協和を低減させる圧力の強弱は、認知的不協和の度合いが大きければ、不協和を低減させる圧力はその度合いに応じて大きくなるようだ。 
(*虐待行為にはネグレクトも含まれる。
ネグレクトも千差万別で様々なタイプがあるようだが、愛着関係が得られず自己肯定感の低い人になる可能性が小さくない。)

圧力は人格は分裂させる。
分裂させて何とか生きのびようとするが、無理は重なる。
何年も何年も、無理をする。

ああ、何だかくたびれたな。

やがて、こころを病む。

虐待ではなく、もっとありふれた親と子どもの関係、先生と子どもの関係、子どもと子どもの関係にも、この認知的不協和のケースは当てはまる。
現代日本は大人社会も子ども社会も毒々しい認知的不協和だらけなのではないか。

社会生活において、認知的不協和状態が発生すること自体は避けられないし、その状態を経験することは人間が成長するのに欠かせないが、人権意識の欠片もない悪意に満ちた罠ばかり仕掛けあうことは互いに傷つけあうばかりでこころを疲弊させてしまう。

いじめ、虐待、ハラスメント=暴力 は、持って生まれた悪人気質のせいだから、とか子どもは未熟なものだから、とか、人間は動物である以上その攻撃性はどうしようもないのだ、いう単純な話ではなく、暴力という人権侵害は教育環境の良し悪しによって世代を超えて連鎖するものだ、という生涯発達心理学の本などに既に書いてあることを、僕らは今こそ街じゅうのあちこちにばらまいて、ともに学ばなければならない。
僕ら山里センチメンツは、民間人によるいじめ・ハラスメント防止プログラムを作り上げる目的を掲げた。
予防のアプローチを実現するため、現実との乖離が無いリアリティあるプログラムにしたい。
そのためにはプレーパークと森のようちえんの力を借りなければならない。

子どもをいじめ、ハラスメントなどの加害者行為を行わない人=暴力をふるわない人として育てること。
次に(順番が逆ではいけない。)悪意に満ちた複雑で解けそうもないパズルのような認知的不協和状態の底なし沼にはまらず、ヒラリと飛んでかわせる人として育てること。
自分のことを信じられて、他人を信じて他人に寄りかかりることもできて、寄りかかられることも厭わない、肩を貸せる人として育てること。

プレーパーク、森のようちえんはこうした教育を施すにあたってのしっかりした土台になると、浅井さん、鈴木さんのトークセッションを聴いて僕はヒシヒシと感じた。

また、お二人ともいじめの定義をしっかり掴んでいらっしゃることは他の何よりもお二人を信頼するに足る要素だった。

人権云々は大げさだ、とおっしゃる方はいるだろう。
もっと楽に考えようと。
それもわかる。
わかるけれど、プレーパークや森のようちえんが産みだす価値は人によって違って見える場合がある。
だから、自分には馴染まないが他の人が感じる価値ならば価値としてまずはいったん尊重してあげれば良い。
その上でより良くなるための議論をすれば良い。

話は変わるが、ちなみに僕の母は両親が幼い頃離婚し、一時期はどちらの親とも一緒に暮らせず親戚をたらい回しにされたりとなかなかたいへんな子ども時代を過ごしたようだ。
だから僕らを育てるのにどうしたら良いかわからないことも多かったようだが、やけに放任主義だなあ、とたまに思うぐらいで、不器用ながら愛情が注がれているという実感はあり、家庭教育に違和感は無かった。
違和感が無かったのは父の存在と、一緒に暮らしていた祖父母がきっちり寄り添ってくれたことや、山間部の隠れ里のような場所で地域の人々にもどこの子だという区別なく可愛がられ、少ない人数ながら野山や川で歳がバラバラの子ども同士で日が暮れるまで遊んだから、母親一人で苦しまなくて済んだのだと思う。

まちで産まれ育った母は、嫁いだ先の野山の自然を愛していた。
自然の懐の深さを知ったからに違いない。

プレーパークに森のようちえん。
どちらも現代日本に必要な素晴らしき教育環境。

自然の力を借りて、子ども同士の力で、子どもも親も周りの大人も育つのだ

(余談だが、こんなご時世に教育界にはびこるのが、偽の聖職者だとか偽の熱血漢である。
あるママさんが、やる気のない教師よりも熱心さのあまり多少は怒鳴ったり叩いたりする教師の方がまだ良い、とおっしゃっていた。
ママさんの気持ちはわからないでもない。
しかし躾や教育と称して暴力を容認する日本の一部の教育者は間違っている。
彼らに人権教育をする資格はないし、やっても説得力は皆無だ。
校門の外で子どもにしてはいけないことは、校門の中でもしてはいけない。
こんなシンプルなことを理解していない大人が大勢いる。 

聖職者問題はもっと深刻かもしれない。教師は授業の素晴らしさを讃えられこそすれ、聖人君子にはなり得ない。そんな人はこの世にいない。
入学式に有休をとった担任教師を責めた教育関係者には明らかに驕りがある。
書いたブログ記事に対して世間から思わぬ反発を喰らって面食らった彼は、自分が時代遅れなのか、と悶えた。
僕はその件以外の彼の教育に関する主張は素晴らしいと思っていたし、世間の声をしっかり受けとめて苦しみ悶えたことに好感を持った。
しかし最近、悶えたあげく自己弁護に終始した内容の1冊の本をわざわざ書きおろして出版しているらしいことを知り、書店で手に取ってみたが噂通りの内容でガッカリしてしまった。
教師の苦しみの根源は、目立ちやすいバカな教育者ではなく、甘いマスクをかぶった管理職経験者の教師OB、彼らにあるのではないか?
一般社会とあまりにも隔離され過ぎると著しく劣化し驕りたかぶるのは非営利組織、つまり役所や学校の常だ。
日本に限らず世界中でそうだ。
人間とはそういう情けない存在なのだ。
その自覚から、自己点検からすべてが始まる。
ドラッカーの『非営利組織の経営』という本を読んだことがない非営利組織の人間は読んだ方がいい(そんなの読んでないぞとなぜか自慢気味に言う人は僕は絶対信用しない)と前から思っていたが、教師も読んだ方がいいと最近思う。
私学の教師、ゼミの教師は非営利組織に属していないがやはり読んだ方がいい。)


スタート直後。

浅井さんはマイクを握り始めて数十秒後に
「今日の結論を言います!」
とおっしゃいました。

Σ(・□・;)


浅井智子さんが何を語ったか、それはここでは書かないことにします。
書いても良いけれど、書かない。( ´ ▽ ` )ノ

連載告知記事で、ハグしてる写真を載せましたがなぜハグしてるかも、やっぱり書かないことにしました。

知りたい人が知ってる人に聞いて、そこから話に花が咲く。
わんさか、わんさか、花が咲く。
それで良いのだ、と思ったので。( ´ ▽ ` )ノ


智子さんと桂子さんに共通点は多々あると思うけれど、

・抱いた疑問を疑問のまま大事にして誤魔化さなかった。



・そして、その疑問の根源をどうにかするため自ら立ち上がり、疑問を抱く仲間をどんどん増やしていくようにした。



こうした姿勢が、お二人の様々な活動の始まりにおける最大の共通点であることは間違いない。


講演依頼、お待ちしてます!

講演料は、

平日(火、水、木、金)3万円以上+交通費
休日(土、日、祝)  5万円以上+交通費 
(休日は、前日と当日、民宿をお休みするため割り増しになります)

tinchantei@gmail.com
090−1280−0033
Facebook「鈴木桂子」メッセンジャーより連絡ください。 


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きいて!きいて!
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