資料 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』
50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。
天才と天才の共同制作。
それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。
光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。
彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。
この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、
約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。
宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、
どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、
最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、
これしかないという新しい書を探求した。
そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、
極限まで装飾化した文字がほとばしった!
光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、
ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、
弾み、休み、また流れていった。
文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。
型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。