<シルクロードを点で繋ぐ旅><朝顔・君子蘭・竹など>

シルクロードの都市を点々と歩き、砂漠や高山、信仰と食事=文化に興味を持つ。
朝顔・君子蘭・竹などを育てている。

安田靫彦画伯の風神雷神 ー資料 鑑定団

2013-11-13 11:17:39 | 空海・王羲之・雪舟・宗達・ロートレック

資料

安田 靫彦(やすだ ゆきひこ、

本名:安田 新三郎1884年2月16日 - 1978年4月29日)は、

大正~昭和期の日本画家である。東京都出身。

前田青邨と並ぶ歴史画の大家で、青邨とともに、

焼損した法隆寺金堂壁画模写にも携わった。

飛鳥の春の額田王」「黎明富士」「窓」はそれぞれ切手に用いられた。

良寛の研究家としても知られ、

良寛の生地新潟県出雲崎町に良寛堂を設計した。

また自らも皇居新宮殿千草の間に書、『万葉の秀歌』を揮毫した。

 

俵屋宗達と本阿弥光悦 ーNHKアーカイブー

2013-11-13 11:15:26 | 空海・王羲之・雪舟・宗達・ロートレック

『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』

資料   本阿弥光悦

1615年、大坂夏の陣の後、

光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして

自害させられる。

そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。

徳川家康から京都の西北、

鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられた。

師の織部に連座して

都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、

いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて

芸術に集中できる空間が手に入ったと、

この事態を前向きに受け止め、

新天地に芸術家を集めて理想郷とも

言える芸術村を築きあげようとした。

以後、亡くなるまで20年強この地で

創作三昧の日々を送る。


俵屋宗達と本阿弥光悦 ーNHKアーカイブー

2013-11-13 11:14:48 | 空海・王羲之・雪舟・宗達・ロートレック

資料  『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』

50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。

天才と天才の共同制作。

それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。

光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。

彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。

この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、

約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。

宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、

どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、

最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、

これしかないという新しい書を探求した。

そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、

極限まで装飾化した文字がほとばしった!

光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、

ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、

弾み、休み、また流れていった。

文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。

型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。