『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』
資料 本阿弥光悦
1615年、大坂夏の陣の後、
光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして
自害させられる。
そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れた。
徳川家康から京都の西北、
鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられた。
師の織部に連座して
都の郊外へ追い出されたとする説もあるが、
いずれにせよ光悦は俗世や権力から離れて
芸術に集中できる空間が手に入ったと、
この事態を前向きに受け止め、
新天地に芸術家を集めて理想郷とも
言える芸術村を築きあげようとした。
以後、亡くなるまで20年強この地で
創作三昧の日々を送る。
資料 『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』
50代になった光悦は俵屋宗達との“合作”に取り組み始めた。
天才と天才の共同制作。
それが『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』だ。
光悦は時の将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめた書の達人。
彼は三十六歌仙の和歌を、宗達の絵の上に書こうというのだ。
この大胆な提案を引き受けた宗達は、目を見張るほど無数の鶴を、
約15mにわたって筆先で飛ばせ、これを華麗に対岸に着地させた。
宗達からの“挑戦状”(下絵)を受け取った光悦は、
どこに文字を置けば最高度に栄えるのか、
最適の文字の大きさはどうなのか、書が絵を活かし、絵もまた書を活かす、
これしかないという新しい書を探求した。
そして!後に「光悦流」と呼ばれる、従来の常識を打ち破った、
極限まで装飾化した文字がほとばしった!
光悦の筆から生まれた文字は、時に太く、時に細く、
ここでは大きく、そこでは小さく、あたかも音楽を奏でる如く、
弾み、休み、また流れていった。
文字を超えて絵画となった新しい「書」だった。
型破りな2人の天才のセッションが完璧に調和したのだ。