<シルクロードを点で繋ぐ旅><朝顔・君子蘭・竹など>

シルクロードの都市を点々と歩き、砂漠や高山、信仰と食事=文化に興味を持つ。
朝顔・君子蘭・竹などを育てている。

涅槃堂の釈迦像-資料-

2012-11-26 17:07:20 | 仏教聖地の旅--インド
クシナガラの涅槃堂。
釈迦の最後の言葉が身にしみる、この年になって。

釈迦は次のように説いた。
「いいか純陀よ、現世の流転の苦しみに限りはない。
栄えるものにも必ず終わりがあり、
会うものにも必ず離別がある。

誰しもが<老病死の苦しみ>に喘ぐのだ。

つまりこの世に生きることは苦しみそのものを体に集めているのと同じことであるから、
これを取り除くことは出来ない。

釈迦終焉の地を訪ねて-資料-チュンダ

2012-11-26 12:11:40 | 仏教聖地の旅--インド
カーストの外にいた貧しい鍛冶屋の息子から接待を受ける。
有名な<きのこ料理>
この河のほとりで休む。
中村元の話だ。
また、チュンダが貧しいかどうか?と。
釈迦1行を接待したのだからと。

死期はは3ヶ月後とアーナンダ達に伝える。
最後の言葉は、
<一切の事象は衰滅していくもの>と。
心して修行に励みなさい。

紀元前483年、
インドの暦ヴァイシャーカ月(4月~5月)の満月の日のことでした。

資料
1 チュンダが捧げた食物が悪かったのか。
 ①釈迦に激しい病が起こり、下痢をして赤い血がほとばしった。
  ※食事をしていた釈迦に病苦が起こったので、食事が原因となったとは考えにくい。
 ②毒性キノコでも、多くは発症するまで6時間~24時間かかる。
 ③頻発する粘血性下痢や嘔吐は赤痢菌とも思えるが、発病まで1~4日かかる。
 ④朝の食事で赤痢にかかり、その夜に死亡するのは短すぎる

2 釈迦と純陀(チュンダ)の別れ
〔大乗の涅槃経における純陀と釈迦の最終的なやりとりは、
初期経典に描かれた最終的な釈迦の遺言

「全ては遷ろい行くもの。怠らず励め」

釈迦は次のように説いた。
「いいか純陀よ、現世の流転の苦しみに限りはない。
栄えるものにも必ず終わりがあり、
会うものにも必ず離別がある。

誰しもが<老病死の苦しみ>に喘ぐのだ。

つまりこの世に生きることは苦しみそのものを体に集めているのと同じことであるから、
これを取り除くことは出来ない。
むしろこれを楽しみ=日々が修行であり、
苦しみは常に自分を磨いてくれる尊い事象である。
そして森羅万象全ての正体はみな空だということを悟り、
この苦しみの現世に上妙の楽を見出すのだ。

3 遺骨
遺骨はマガダ国のアジャータサットゥ王、
ヴェーサーリーのリッチャヴィ族、
カピラヴァットゥの釈迦族など八つの部族に分配。
■マガダ王国のアジャータサットゥ王(ヴィデ-ハ国王の女の子)がラージャガハ(王舍城)に祭る
■ヴェーサリーに住むリッチャビ族がヴェーサリーに祭る
■カピラ城に住むサーキャ(釈迦)族がカピラ城に祭る
■アッラカッパに住むブリ族がアッラカッパに祭る
■ラーマ村に住むコーリヤ族がラーマ村に祭る
■ヴェータリーヴァに住むバラモン達がヴェータリーヴァに祭る
■パーヴァーに住むマッラ族がパーヴァーに祭る
■クシナガラに住むマッラ族がクシナガラに祭る

遺骨の他に、次の二つのストゥーバがつくられ、祭られましました。

■ドーナ・バラモンが遺骨を納めるための瓶のストゥーパをつくって祭る
■ピッパリ林に住むモーリヤ族がピッパリ林に灰を納めたストゥーバをつくって祭る

かくて、八つの舎利塔と瓶塔と灰塔との計十塔が各地に建立されました。



釈迦終焉の地を訪ねて-資料-

2012-11-26 12:05:32 | 仏教聖地の旅--インド
クシナガラの涅槃堂。
右の建築は<伊東忠太の築地の本願寺>に。
左は<サーンチ>の遺跡に。
資料
涅槃堂には、北枕になった釈迦の六メートルの巨大な涅槃像が安置。
これは5世紀のもので、1876年に河床から発掘された。
周りには壁面で祈る者や、解説をしてくれる者などの人々がそこにはいる。
資料
Kushinagar
・疲れた。横になりたい。
※頭を北に向けて床を用意してくれ。
・チュンダが責められない配慮し、禅定により入滅。

・ 疑問点
※釈迦は老齢だが長距離を歩いた。
その夜、急に亡くなるとすれば、合併症か急性疾患ではないか。

五木寛之・仏跡を旅する-資料-

2012-11-26 12:03:01 | 仏教聖地の旅--インド
こんな旅をする人が羨ましい。
<ナマステ>
<ダンニャバード>ですっかり旅人。

中村元の書についての話が多い。
中村元については、一般教養で(約57.8年前)で哲学の先生とは知っていた。
当時の大学では、哲学について話すのが流行っていたが。
西田幾多郎の善の研究など。
インド哲学者とは知らなかった。