減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

憂国の士とエコロジスト

2006-07-10 19:28:36 | Weblog
憂国の士が溢れている。ネット上はいまや憂国の士でいっぱいだ。
みんな、それぞれ美しい愛国心、磨かれた感性で日本を、そして日本人を憂えている。
我々が倫理を失い、国から神性が失われたことを憂えている。

またエコロジストも溢れている。自称・専門家問わず今日多くのエコロジストがいる。
みんな、それぞれもっともな主張とセンス・オブ・ワンダーに基づく理念から、本来の自然や生態系・生物種が失われたことを嘆いている。

現存する貴重な生態系や種を保存することはとても重要だと思う。
しかし、すでに開発され、失われてしまった自然を再びもとの姿に戻すことはすべて善なる行為になりうるだろうか?

失われた自然と引き換えに、私たちは必ず何かを得てきた。
そこで得た何かには目をつぶり、自然だけをもとに戻そうとするのは傲慢ではなかろうか?
本当にどうしても元の自然を回復せねばならないとしたら、それは「現在に生きる我々」にとって回復が是非とも必要な場合であり、かつ「現実が可能な場合」に限る。
そしてその回復には多大な労力・知恵・時間が必要であることを覚悟しなければならない。
もしそれらの努力を怠った場合、自然は元には戻らない。
膨大な無駄と無残な失敗を生むリスクがそこにはある。

私は憂国の士の皆さんに問いたい。
現在の日本人に受け継がれている大和魂を守ることは大切だと思う。
しかし、もしあなた達の望むナショナリズムに「すでに失われた」神性や国家像、倫理、道徳等を入れようとすれば、それは失われた自然を回復させるときのようなリスクがあると思わないだろうか。

それらは勝手に失われたものではなく、人々がそれを失った理由や必然性があったはずだ。そしてそれらを失うことで得た何かもあったはずだ。

エコロジストは、自由に電気が使える今のありがたさを忘れてはいけないと思う。
憂国の士は、今の日本社会のありがたさを忘れてはいけないと思う。
白神山地のマタギのように実際の自然を生活の場とする人間が今ほとんどいないように、真に大和魂と日本の神性を日々体現している憂国の士も多くはないはずだ。
私たち現代人は、自然や社会や歴史の有り様について謙虚である姿勢がまず必要だと思う。

それでも万難を排して復活するべき自然や魂はあるかもしれない。
荒地を森にかえてきた人がいるように、長い時間をかけて、失われた魂を呼び戻すことも不可能ではないかもしれない。
それだけの覚悟と能力を持った憂国の士を止めるつもりはない。実際、その偉業に取り組み、達成されてきた方も世の中にはきっといたのだろう。
だからこそ、今の日本がある、そんな気がする。

私たちは連続性と関係性の中に生きている。
日本の神性や天皇性、大和魂もろもろの前に、自分の親や先祖の歴史を謙虚に受け止め、尊敬し、自分の家族を守る意思のある人が愛国者たる条件ではなかろうか。

追加:
要するに「保全」とその「活用」がとても重要であり、「回復」は慎重に、ということ。

「近代の超克」とナショナリズム

2006-07-10 00:23:41 | Weblog
最近よく見ているブログがある
Let's Blow! 毒吐き@てっく
http://tech.heteml.jp/
である。

このブログを見て、私は一発で麻生氏支持者になった。

さて、そこで最新のエントリー『見失われた「この国の価値」を求めて』で、中央公論7月号に掲載された京都大学大学院教授の佐伯啓思氏の論文が紹介されている。
http://tech.heteml.jp/2006/07/post_610.html

この文章を見て、私は一種懐かしさを感じた。それは、かつて私が愛読していた池澤夏樹氏の著書でよく語られていた「自然から遊離した現生人類の憂鬱」という観点と、佐伯啓思氏が語る「グローバリズムに伴うナショナリズムの喪失」という観点が、なんとなく論理構造が似ているな、と思ったからだ。
ちなみに池澤夏樹氏は自著に書いている通り「社会主義者」であり、佐伯啓思氏は反米保守派のナショナリストである。

両者の主張の根幹には、「現代日本人の有様が自然・風土に基づく伝統文化や心のふるさととしての「共同体」から遊離し、遠ざかろうとしていること」を憂い、多くの人々が感じているその「不安感」に訴え、答えを模索しようとする姿勢があるように思う。

そして、ふと気がついたのだ。これらは現代版「近代の超克」ではなかろうかと?
で、Googleで「近代の超克」を検索してみると意外なことにブント(旧:共産主義者同盟)のHPがヒットする。

荒岱介「近代の超克は今こそ必要な問題意識だ」を受けて20代の我々が廣松近代の超克論をどう読むか。
http://www.bund.org/opinion/20040525-1.htm
(2004年5月25日発行 『SENKI』 1145号4面から)

左翼であるブントがなぜ「近代の超克」なのかと思ったが、60年代のブントの反安保闘争は、(その後の心情左翼・教条左翼と異なり)無意識的なナショナリズムを代行する要素があったと考えれば、それも不思議ではない。事実、前述の佐伯啓思氏の師匠、西部邁氏はかつてブントの活動家でもあった。今となっては忘れられている事実かもしれないが、反安保闘争を支持した人の中にはナショナリスト的な思想の人もかなりいたということだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F

そして、60年代の反米左翼の主流が、その後のサヨク(心情左翼・教条左翼)を唾棄し、分かれていったように、これからは反米右翼がウヨク(心情右翼・親米国益右翼)を卑下する傾向が強まるかもしれない(実際強まっているように思う)。

ここでふと、ブログ「Elleの遺跡」で紹介されていた戦前に石橋湛山が書いた新聞記事を思い出す。
http://reflation.bblog.jp/entry/251096/

石橋湛山が二・二六事件をうけて『東洋経済新報』でかく語りき
「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。
 これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)

まさに慧眼ではなかろうか。
そしてこれを見て思うのは、資本主義に代表される「近代の超克」のために、戦前・戦後ともナショナリズムが持ち出されている、ということである。

しかし、ここで私が言いたいのはナショナリズムの否定ではない。
私はナショナリズムは現代人にとって必要である、と思っている(理由は後述)。
問題なのは、ナショナリズムを「近代の超克」のよりどころにするかどうか、という点だ。

ここでもう一度、国家・国民・ナショナリズムとは何かを考えてみたい。
この問題について、非常にシンプルかつ冷静な答えを出しているブログがある。
「地政学を英国で学ぶ」
プロパガンダに負けてはいけない:その1
http://geopoli.exblog.jp/4632179
プロパガンダに負けてはいけない:その2
http://geopoli.exblog.jp/4643085

つまり、現実を突き詰めて考えると、国家というものが「アイデア=フィクション」ならば、ナショナリズムというのはそのアイデアに基づいて人々を動かすための「プロパガンダ」の一つではないか、ということ。
そして私は、このブログの著者と同じようにフィクション・プロパガンダだからだめ、というのではなく、むしろフィクション・プロパガンダだからこそ重要というスタンスに深く共感する。『アリストテレスがいったように、人間が社会/政治的な動物である以上、「フィクション」とそれを支える「プロパガンダ」というものは人間社会に常に必要』という意見に激しく同意する。

日本は近年、特定アジア三国、そしてアメリカにも、プロパガンダで負け続けてきた。
今後大切なのは我々がもっと賢く、そして図太くなって、その巻き返しを図らなければならないということだ。

そのためにはまず、今後諸外国に対して日本の持つソフト・パワーを最大限に発揮するというビジョンが必要であり、そのためのナショナリズムが是非に必要だと思う。
今後さらに国際競争はハード・パワーからソフト・パワーに移るわけであり、その効率を上げるという意味でも、ナショナリズムはとても重要である。

よって、現代流のナショナリズムは、現在の国民の長所を活かし、成長させるためのプラグマティズム(実用主義)に基づいた観点から考えられるべきだ。

かつてどんなに魅力的で美しかったものも、保管庫から取り出すと、すぐに腐ってしまうのではだめなのだ(例えそれが周囲の大気汚染の結果だったとしても)。
貴重だけど傷みの激しいものは、博物館できちんと保管・管理しておけば、後世の役にも立とう。しかし、ナショナリズムは現実に使用・食用に耐える素材で作られるべきだ。

そして、一番に注意すべきことは、「近代の超克」にこだわるあまり、日本人自身が石橋湛山の言うように「根本病」にかかってしまうことである。
「この国の価値」を決めるのは、一部の「近代超克家」のみに課せられた仕事ではないし、必ずしも「○○主義」を打倒しなくても、十分愛国精神に満ちた「この国の価値」を一般国民が持つことはできると信じている。

最後にとても示唆に富んだ以下のWebサイトを引用しておく。
「日露戦争」
http://ww1.m78.com/sib/russojapanesewar.html

「日露戦争における陸海軍の将領は、みなニコニコしている写真を残している。兵士も同じである。兵士の写真は、まるでオモチャの兵隊さんを連想させる。この点で現代の白衛隊と共通性がある。だが昭和軍人は明らかに異なっており、考えるあまりの苦痛の表情を浮かべている。(中略)昭和軍人は自分達の戦争が終ったあと、敗因は経済力にしても政治体制にしても日本が外国より劣っていたからだと説明する。条約派の堀悌吉と山本五十六は「日本の文明は、欧米の先進国と比べて国民の覚醒において、百年は遅れている。学術界においても三十年遅れている。そして、わが海軍は十年遅れている」と第一次大戦直後、認め合ったという。こういった海軍は欧米よりも遅れている、国民は更に遅れているという確信が、政府の決定=政策に従わず、海軍は政策の具にはならないという誤つた考え方につながった可能性を否定しきれない。
 東郷平八郎は、日本や日本人に自信をもっていた。第一次大戦の決戦のマルヌ会戦に勝利し、また東郷の知りあいでもあったフランスの将軍ジョフルは戦況不振を伝える下僚に「お前はフランスを信じることができないのか」と叫んだ。東郷平八郎も昭和軍人に「お前たちは日本を信じることができないのか」と叫びたかつただろう。
 井上成美のいう軍人にとり「喜んで死ねる情況」をみつけることは「青い鳥」を捜すようで難しい。だが、暗い表情をせず、近代人としての白我をすてさる勇気も、軍人が戦場に臨むとき必要な資質かもしれない。」

ソフト・パワーが競争の主力となった今日でも、この観点はとても重要だろう。
青い鳥が見つからなくとも、私達は明るい未来を迎えることができるはずだ。

国防のハード面においては、てっくさんのいうように高くつくミサイルディフェンス(MD)よりも長距離巡航可能なトマホークや脚の長いステルス戦闘機を「専守防衛」に導入するのに賛成です。
http://tech.heteml.jp/2006/07/post_608.html