ウェスタナーズ・クロニクル No.30;『血斗のジャンゴ』(セルジオ・ソリーマ、1967年)
ソリーマの名を一躍世に高からしめた一本であり、イタリア製西部劇を代表する作品の一つ。
結核療養のため教職を退いてテキサスへ赴くことになった大学教授(ジャン=マリア・ヴォロンテ)がなりゆきでネイティブアメリカンのお尋ね者(トーマス・ミリアン)の道連れに。小心でこころやさしいヴォロンテはミリアンの感化で徐々に悪の魅惑にとらわれ、頭脳を武器に群盗の頭にのし上がる。見果てぬ夢に憑かれて人の道を踏み外していくヴォロンテを前にミリアンの方はぎゃくに内なる正義に目覚め、最後はダチを自らの手にかける。
大学の教室の場面で幕を開ける西部劇というのもめずらしい。最終講義を終え、雨のそぼ降る窓外を感慨深く眺めやるヴォロンテ。ここでタイトルがでる。
ミリアンがヴォロンテをともなって同胞のもとに帰郷する場面の荘厳な美。ジョン・フォードふうのフォークダンスで英雄の帰還を言祝ぐコミューンの面々。
ヴォロンテが計画・指揮した銀行強盗の際、ピンカートン探偵社のまわし者シリンゴ(ウィリアム・バーガー)が強盗を事前に阻止しようとするもアクシデントにみまわれて功を奏さず、ミリアンは逮捕され、ヴォロンテの愛人が命を落とす。ヴォロンテはせしめた金をちらつかせて取り巻きを募り、力づくでコミューンの実権を握る。一方、強盗のリベンジを果たさんと、シリンゴの制止にも耳を傾けず、町民らはコミューンを全滅させるべく夜討ちをかける。
脱獄してコミューンに舞い戻るミリアン。今度は迎えてくれる者はひとりもいない。短調で変奏されるくだんのフォークダンスの旋律をバックに、焼け野原と化した丘を呆然とさまようミリアン。
馬車で逃走していた生き残りたちに追いつくミリアン。追っ手がすぐに追いつく。逃げ惑う人々。ヴォロンテとミリアンが数十人からの敵を一手に迎え撃とうというとき、シリンゴが割って入り、法と秩序の名のもとに体を張ってリンチをやめさせる。
シリンゴは二人に銃を捨てるよう言うが、ヴォロンテは彼を撃つ。一方、正義の名のもとに投降しようとするミリアン。「おまえの言う正義とはなんだ。正義など存在しない。おれたちは善悪の彼岸に到達できる」とヴォロンテ。「いや、正義はある。おれはじぶんのなかに正義を感じる。この感じをどうやっても否定できない。おれには何をしなければならないかがわかっている」「おれにもそれはわかっている」とシリンゴにとどめを刺そうとするヴォロンテ。轟く銃声がヴォロンテのショットにかぶさる。ヴォロンテがよろめくと、かれの影に隠れてちょうど死角になっていたミリアンが銃を構えて仁王立ちする姿が現れる。
「なぜ撃った」「それが正義だから」「おれにはまだ計画が山ほどあったのに。なぜだ……」とつぶやきながらよろよろと砂漠の斜面を登り、登り切ったところで倒れ込み画面の外に消えるヴォロンテ。静かに目を閉じるミリアンのクロースアップ。次いでシリンゴに歩み寄り、銃を投げ捨てるミリアンを捉えた大俯瞰。シリンゴは銃でミリアンに狙いをつけるが、ミリアンは仁王立ちしたままだ。シリンゴはそばにあった死体をミリアンの身替わりに仕立て上げ、ミリアンを彼方へ逃す。
ミリアンがヴォロンテを撃つトリッキーなショットは、ふたりがいわば分身的な関係であることを雄弁にしめしている。この映画の主役は本質的に複数的である。ソリーマはヴォロンテとミリアン双方にじぶんが主役であると信じさせて演じさせ、こうしたヴィジョンを見事に画面に定着させた。なおシリンゴは実在した人物。
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