Negative Space

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GODZILLA がゴジラであるために:『ゴジラ』『GODZILLA/ゴジラ』

2014-08-10 | その他



 本多猪四郎『ゴジラ』(1954年、東宝)
 ギャレス・エドワーズ『GODZILLA/ゴジラ』(2014年、レジェンダリー、東宝)



 「『GODZAILLA』を見る人が、シーマス[・マッガーヴェイ]の手になるライティングのナチュラルなクオリティーとオーガニックなうつくしさを味わってくれればいい」。

 「ドキュメンタリーふうであってこころにうったえる[soulful]、しかもすみずみまでコントロールされ、ブロックバスター的なスタイルのトーン。『GODZILLA』はまさに二つのスタイルが演じるダンスなんだ」(ギャレス・エドワーズ、Amecrican Cinematographer 誌上の発言)。



 ハリウッド版ゴジラが思い出させてくれたのは、第一作目の『ゴジラ』が湛えている極度の美だ。オリジナル版を見直して、東宝の職人たち(撮影・玉井正夫、照明・石井長四郎、美術・中古智……)が丹精込めて編み上げた工芸品であることが改めてわかった。

 空爆後の焼け跡を思わせる廃墟をゆっくりとなめるパン。ドキュメンタリー的な避難所の場面はおしつけがましさやわざとらしさがまるでない。怪獣が徘徊する場面にも静けさが支配している……。
 
 不気味な雲を孕み、サーチライトに鈍く輝く夜空を捉えたいくつかのショットにはハリウッド版スタッフのオリジナル版へのオマージュが歴然としている。落下傘部隊が足許から赤いスモークをたなびかせながら分厚い雲の間をダイブしていく、台詞なしのシーン。

 廃墟的なシーンが多いせいもあろう、全体的に発色を抑制したグレーがかった画面のなかにピンポイントで赤いオブジェを配するといった色遣いが目を引く。映画が真白な画面からはじまり、真白な画面で閉じられるのもきれいだ。
 
 怪獣の全身を映さず(不気味さを強調)、場面によってそれとなく怪獣のスケールを変更し、横長画面を活かして画面内に二極的な焦点を作るといったフレーミング面の配慮。

 レトロな味わいと最先端のテクノロジーのわくわく感を両立させるというねらいはわるくないし、ヴィジュアル・エフェクトとヒューマンドラマをかみあわせるという野心も立派。しかし……

 脚本は余計な要素を削ぎ落としてシンプル、と言えば聞こえはいいが、実際には平板のきわみ。登場人物に人間味はまったくない。ジュリエット・ビノシュがひとしきり爆煙とまぬけな追いかけっこをしただけで、(『スクリーム』のドリュー・バリモアのように)開巻5分後に殺されたのにはずっこけた。あとからフラッシュバックでまた出てきたりもせず(そもそもこの頭の悪いシナリオにフラッシュバックなんて気の効いたテクニックが出てくる余地はない)、純然たるカメオ出演だ。ケン・ワタナベもサリー・ホーキンスも、あんな役不足(本来の意味で)のキャラクターでは、本来の演技力を発揮しようもない。主役の若夫婦の異様なまでのばか面と演技の不在は、――若い観客へのアピール以外に――なにか隠れた意図があったのだろうか。もっとも、アーロン・テイラー=ジョンソンがそれらしく復讐心に燃えた演技をしていたりしたら、なおのこと壊滅的であったろう。演技の不在をポジティブにとってくれということなのか?

 観客の目に焼き付いている9・11と3・11の廃墟のイメージを都合よく利用しているわりには(撮影監督は『ワールド・トレード・センター』を手がけている)、オリジナル版にあった真摯でラディカルなメッセージ性は皆無で、ゴジラが単なる「救世主」として扱われている(「救世主?」と一応、疑問符はついていたようだが)。

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