幕末掃苔屋 公式ブログ

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『見えたァー!青春18きっぷで18倍たのしむ東海道本線』を読みました

2013年03月01日 | その他

桝田道也先生の描き下ろし写真マンガ『見えたァー!青春18きっぷで18倍たのしむ東海道本線』を読みました。

『見えたァー!青春18きっぷで18倍たのしむ東海道本線』は、東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・岐阜県・滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県を結ぶ東海道本線の「車窓から見えるもの」だけを紹介している写真マンガです。
鉄道関係・古い建築・珍スポットなど、パッと見て面白い景色や施設が盛りだくさんですが、『コミック乱』や『コミック大河』で歴史漫画を連載してきた桝田先生ならではの、その土地の歴史エピソードも面白おかしく紹介しています。
実に桝田先生らしい、素晴らしい企画だと思いました。
私は桝田先生の作品や、この手の企画も大好きなので、存在を知ったその日のうちにコンビニに購入料金の支払いに行きました(今のところはパブーにて電子書籍版のみの販売のため)。
オールカラーが難しい紙媒体ではなく電子書籍のため、写真もイラストもすべてカラーで楽しめることができます。
中には私も見たことがある風景や謎の建築物なども掲載されていましたが、何だろうと思ってそのままにしていた疑問を解消してくれました。
写真撮影や調べものなど、非常に手間暇かかる作業だったろうなあと思いました。

こういった本を読むと、同じ景色を探しに行きたくなります。
私はこの作品を読み、約20年ぶりに18きっぷを使って東海道線に乗りたくなりました。
鉄道好き、珍スポ・Bスポ好き、歴史好きの方には特にお薦めです。
桝田先生のウェブサイトで154ページ中16ページを試し読みできるので、興味のある方はぜひご覧ください。

http://www.masuseki.com/index.php?u=my_comic/middle/mieta_01.htm

なお桝田先生には、現在制作中の拙著『侍たちの警視庁 ビジュアル解説・西南戦争警視隊(仮題)』のイラストをお願いしています。


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中井尚珍の墓 (森重和雄)
2013-04-18 18:06:25
川越に引っ越しました。
西南戦争に参加した少警部・半隊長の中井尚珍の墓が、川越の見立寺にありますが、もうご覧になりましたか?
中井尚珍の墓 (森重和雄)
2013-04-18 18:06:41
川越に引っ越しました。
西南戦争に参加した少警部・半隊長の中井尚珍の墓が、川越の見立寺にありますが、もうご覧になりましたか?
森重さんへ (カワチ)
2013-04-29 09:06:34

返信が大変遅れてしまい、失礼いたしました

川越へのお引っ越し、おつかれさまでした
中井尚珍少警部については存じ上げませんでした
西南戦争で半隊長を務めたとのことですが、どの方面かご存じであれば、ご教授いただけますと幸いです
中井尚珍 (森重和雄)
2013-05-04 11:10:10
いえいえ。
墓石に西南戦争に参加した少警部・半隊長の中井尚珍と刻まれていました。
僕もそれだけです。
情報です (森重和雄)
2013-05-16 15:25:54
喜多平四郎は天保十三(1842)年一月元旦、讃岐国高松に生まれた。父安助は高松藩士である。嘉永五(1852)年に、父とともに高松から相模国大津陣屋に移り、川越藩籍にはいった。この時、大津陣屋には川越藩士祖父喜多武平がいて、この祖父に呼ばれたもののようである。
 祖父喜多武平はもともと高松藩士であるが、天保十四(1843)年に川越藩士(十五人扶持、士分格)となった。この経緯について少しくわしく述べておこう。
 祖父喜多武平は高松藩の砲術家である。その武平が天保年間に浦賀に行き、浦賀奉行配下の与力佐々倉勘蔵に海防論を述べ、大いに賞賛された。武平が浦賀に行ったのは、高松藩が幕府に命じられて江戸湾や相模湾警備を担当していたからである。浦賀の与力佐々倉勘蔵の推挙があってのことと思われるが、浦賀奉行のもとで、浦賀奉行配下の子弟に砲術を教え、あるいは大砲を鋳造し砲台を築くことなどをおこなった。
 天保十三年、川越藩が相州三浦半島の観音崎より三崎にわたる沿岸の警備を幕府に命じられた。この際に川越藩が浦賀奉行に砲術師を推薦してくれるようにと依頼したことにより、武平が推薦され、このことにより武平が川越藩士となったのである。時の川越藩主は松平直候(徳川斉昭の子・徳川慶喜の弟)であったが、高松藩の藩主松平頼胤の養父松平頼恕が徳川斉昭の兄であるという関係もあって、人材の移籍が無理なくおこなわれたのではなかろうか。
 このような経緯で喜多は父・祖父とともに川越藩士となり、祖父武平が居住する相州大津陣屋の近傍で暮らすこととなった。安政元(1854)年、川越藩は江戸湾品川沖の台場の警備に担当替となり、これにより喜多の一家は川越に移り、祖父武平は文久二(1862)年に川越で没した。なお川越藩(藩主松平直克)は慶応三(1867)年一月に前橋に転封となり、このため喜多家も前橋に移った。
 喜多平四郎の経歴にかんしてはほとんど判らない。喜多には自筆の手記『戊辰周旋記』というものがあり、それによれば喜多は慶応四(1868)年三月末に藩庁から国事周旋方(情報収集や探索を担当)を命ぜられて江戸に出、さらに川越藩の分領がある上総国富津にゆき、上総方面でなされた戦争を体験し、八月に江戸を経て川越に帰国している。なお祖父に関する記述も、この喜多の手記『戊辰周旋記』によるものである。
 喜多が前橋で廃藩置県(1871)年をむかえたのが二十九歳のときである。前橋(旧川越)藩は譜代の小藩(一万七千石)であるから、喜多家の生活は相当に苦しかったにちがいない。廃藩となって喜多家も外に職を求めなければならなくなる。平四郎が警察に入ったのが何時のことであるか不明である。一般の士族(旧武士)が政府機関の職につくことはそれほどたやすいことではなかったから、喜多平四郎の場合は運があったのだろう。あるいは、この『征西従軍日誌』をよめばわかるように、喜多の人間性や、歴史や戦史についての素養を評価する人物が、政府の警察関係者のなかにいたのかもしれない。
 喜多平四郎は明治三十八(1905)年に六十三歳で没し、東京の十方寺(現文京区向丘)に埋葬された。
森重さんへ (カワチ)
2013-05-16 17:22:12

ありがとうございます。
『征西従軍日誌』に掲載されている情報ですね。
喜多平四郎の墓を掃苔したいと思い、十年ほど前に十方寺を訪れましたが、出会えませんでした。

中井尚珍少警部の情報を、ありがとうございました。

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