たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

生き方と場所づくり <サキどり「美しき町並みを“暮らし”で復活」>を見て

2017-02-12 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

170212 生き方と場所づくり <サキどり「美しき町並みを“暮らし”で復活」>を見て

 

今日も銀世界で美しい。でも伐採作業をするには危険もあり寒さもあり、川を渡るのも大変などといろいろ理由をつけ、結局、断念して、見出しのテレビを見たりして、ゆっくり事務所に出かけました。

 

報道は、TVも新聞も、ウェブも、トランプ安倍会談とかゴルフ場密談で持ちきりです。長い付き合いのある両国ですから、トップのあれこれの言動に左右されず、双方の国益を考慮して進めていくこと自体は望ましいことでしょう。ただ、トランプ氏がこれまで大人げない批判や一方的な要求はどうなったんでしょう。ラストベルト地帯ではNHKリアルボイスの中で切実に仕事を求める声が多数でしたが、そのような貧困の中にいる白人層にとって、豪華絢爛な別荘地で優雅なゴルフコースで、非難の相手国首相とにこやかに笑顔を交わす様子はどう映っているのでしょうか。

 

アメリカにおいても政治は大衆の声を反映できていないと思うのは、今に始まったことではないですが、毎回の大統領選という祭りと花火の無礼講的な騒ぎでしかないのでしょうか。遠い昔から民主制度のあり方が問われてきていますが、それ自体、夢幻なのか、こうやって紆余曲折で歩むことが本質なのか、いつも考えてしまいます。

 

余談はこの程度にして、今朝のサキどり、<赤瓦の古民家が連なる島根県大田市大森町。美しい景観は石見銀山と共に世界遺産にも登録されている。>とのことで、画面に映る風景はなかなか洗練された古民家が並び、家の前に流れる排水路でしょうか街に潤いを与え、道路と家を渡す小さな石橋も情緒があります。日本には古民家が150万軒残っていて、毎年25万軒が壊されているとか(新聞を読みながらなので正確ではありません)。

 

そんな中で、私も各地というか多少、あちこちの古い町並みを訪問してきましたが、いずれも人気のあるところは、ここ大田市大森町のようなところですね。もっと道路構造や家々のファサードをきれいに整備しているところもありますが、大森町はなにか素朴な印象がまだ残っている感じです。

 

それはここの「復古創新」(この言葉は松場さんの知り合いが名付けた造語とのこと)を手がけた石見銀山生活文化研究所会長…松場大吉,石見銀山生活文化研究所所長…松場登美、ご夫婦が、30数年前に故郷に戻って、二人を中心に細々と古民家再生を行ってきたからかもしれません。

 

彼らが帰郷したときは、もう街並みは廃れる一方で、廃墟となる運命のようだったと当時の写真を見ると同感です。それは多くの地域でも見られる現象でしょう。空き家問題などと最近では取り上げられてきていますが、それは30年以上前から、首都圏や大阪などへの一極集中の反映の反面、着実に現れていて、ただ、行政を含め多くが見ようとしてこなかったのですね。

 

松崎ご夫婦が行ったことは、多くの古民家再生事業を行う人たちとさほど変わらない印象を持ちつつ、廃校を利用して、古民家が壊されるようなとき、そこでいらなくなった廃材や備品などあらゆるものを収拾保管する、倉庫、展示して、将来の古民家再生に利用したり、ネットで提供しているシステムには興味を抱きました。

 

実は、江戸時代まで、というか、戦前までは、そういう建築のあり方が普通だったのではないかと思うのです。それは地震など自然災害が多いわが国で生き残る遺伝子情報として日本人が培ってきたノウハウではなかったかと思うのです。

 

維新前後にやってきた異邦人が残した日記などでは、火事で焼失した家屋が並ぶ中、あるいは地震で倒壊する家々ががれきで一杯になる中、そこに住む日本人たちが快活に動き、翌日にはとんちんかんちんと元気よく廃材利用して簡易な建物を作り上げていく姿に驚いた様子を描いています。

 

廃材はがれきではなく、新たに利用可能な再生可能製品であったのです。江戸時代のクローズな物質・エネルギーの循環社会については、多くの研究文献が報告されていますが、それは日本人のアイデンティティでもあるように思うのです。

 

たしかに新しいもの好きであったり、海外の異質なものに異常なほど関心が強いという日本人の性格も一方であることは確かです。たとえば朝鮮通信使の毎回の訪問では江戸までの大勢の行列には、無数の庶民が近づいて異国の文明に触れようと大変だったようです。むろん維新の際の異邦人は、とりわけ注目されたでしょう。

 

そういった異国文化を受け入れ、自国文化と融合させることは、大勢の渡来人が移民?してきた古代においても同様だったというか、本来は、わが国はアメリカ・カナダのように、移民大国だった、あるいは独立国家としてはそれまで成立していなかった先住民と同様であったのではないかとさえ思うこともあります。

 

とまたまた脱線しましたが、そろそろ元に戻って、大森町の古民家再生を事業として行っている松崎ご夫婦の手法の一端をもう少し紹介しておきたいと思います。

 

一つは、古い武家屋敷を生かして、歴史的文化を味わってもらうため、生活体験できるような宿として提供しています。そして竈を生かして、薪で火をおこし、地元の食材をふんだんに使って提供します。興味深いのは、ご夫婦が宿泊客と一緒に食事をともにする、そして語り合うということです。私自身、昔ペンションによく泊まったことがありますが、中にそんなところがあり、より打ち解けたことを記憶しています。むろんこれにも功罪があると思いますが、小規模であれば一つの選択肢ではないかと思います。

 

この宿泊施設との関連で、中学生などの体験型の宿泊としても提供している点です。これも最近は、農家民泊など、海外で行われている方式がさまざまな形で導入されていますが、いかにその体験内容を充実させ、しかも安全を確保するか、これも試行錯誤が必要でしょうが、貴重な試みでしょう。たとえば、薪を割るという簡単な作業一つとっても、初めての人にとっては、結構大変です。だいたい、斧を使ったことがないというか、見たこともないかもしれないわけで、そのような人が斧を使うのは避けるのは当然でしょう。

 

ここでは女子中学生がナタで割っていました。これも実際は当たり所が悪ければ、割れた先がどこに飛ぶか分かりません。でも安全か危険かは、実際に体験して、少しずつ危険のないように心身をなじませる、鍛えさせることは、人間の成長にとって大事なことではないでしょうか。

 

もう一つ、青年が東京で記者を目指したものの、面接で受け入れられず、見知らぬ当地にやってきて、松崎さんの事業の職員として働くようになった話です。彼は、記者になりたかった希望を、事業の広報マンとして、広報誌づくりを手がけ、街並みの四季の変化など気に入った風景を写真で撮り、記事の目玉にしたり、町中を歩いて、土壁の中に使われて廃材となり捨てられる運命だった竹についている土を取り除き、きれに磨いて、製品として売っている一人の高齢者に取材し、それを記事にしたりしていました。

 

古民家再生は、古民家自体がもつ長い歴史の見えない豊かな文化があります。その再生事業の中では、いろいろな人々がそれぞれの技能を発揮して、生きる知恵を具現化しています。それらを連携し想像する松崎さんご夫婦のようなリーダーも必要です。そしてでき上がった古民家を違った視点で利用する多様な人々がいます。そしてそれは古民家という拠点だけでなく、周囲も、地域も、新たな現代的文化を創っていく仲間となって、新しいコミュニティの連携や共同活動が可能になっていくのではないかと期待したいです。

 

そういえば、鞆の浦にも長く古民家再生を手がけ御舟宿「いろは」などまちづくりを行っている頼もしい人たちがいます。私もたびたび訪れましたが、鞆の浦の歴史と景観の良さと人情を味合うには素晴らしいところです。最後に紹介して今回は終わりにします。


付け足し

 

書いた後NHKの囲碁を観戦して、伊田八段がこれまで華麗に勝ち進んできた寺山怜四段の強力な一手をどっしりとして構えで大石の息の根を止めて序盤でほぼ体勢を制した感じになり、それでも最後までがんばる寺山四段の冷めたような中にある情熱を感じました。最近はみなさん20代の若い棋士ばかりで、私が囲碁をやり始めた頃に活躍した各棋士の姿を見ることがなくなり、少し残念と思いながら、なにか書き忘れたように思い、そういえば今日のテーマを書こうとしたのは橋本市のことを触れるためと思いだし、補足したいと思います。

 

橋本市も観光施策をいろいろ検討しているようです。一般的な観光案内所をリフレッシュしてみたり、NHKあさドラに前畑がんばれを取り上げるよう働きかけたり、各地の取り組みを参考にしながらがんばっているように思います。

 

ただ、歴史的価値の見直し、地域の由来とか地域資源の掘り起こしという面では、以前、応其上人400年忌でしたかやったことがありますが、持続的な事業としてはあまりみかけない印象です。

 

とりわけ、江戸時代以前は宿場町として、あるいは近隣の産物を集荷し、若山からの塩など海産物との中継場所として商家が賑わった、往時の面影はどんどん消え去るばかりです。再開発事業の一環でしょうか、紀ノ川北岸の事業区域一帯の古民家の状況を綿密に調査した資料『橋本の町と町屋』は、紙ベースの資料遺産として残されたものの、現在の活動に生かされていないように思うのです。

 

紀ノ川南岸にも、渡し船の渡し場を拠点として、三軒茶屋灯籠を含め、宿場町の面影が色濃く残る清水町や、私がテーマにしている大畑才蔵の拠点、学文路にもわずかに忍ばれる情緒があります。

 

再開発事業では、一部、町屋が古民家再生として残されましたが、本来、現在の活動としての生業をどのように営むかというノウハウこそ重要で、ハードだけ残してもなかなか人の関心を呼ぶものではないと思うのです。

 

大阪から近いから泊まる人がいないとか、高野山の宿坊に泊まるから必要ないとか、いろいろ理由は考えられるでしょうが、大田市大森町の松崎ご夫婦のように、風前の灯火の中で、一から始められるというチャンスでもあると思うのです。

 

宿泊という形態は、その滞在する時間・空間の中で、地域の産物を工夫して提供できるでしょうし、歴史自体の掘り起こしも自然に湧いてくるのではないかと思うのです。いまはやりの「おもてなし」という点で言えば、高野詣での際、さまざまなおもてなしを提供したからこそ、この界隈は賑わったのではないかと思うのです。元祖とまでは言いませんが、そういったおもてなしの文化の再興もあるでしょう。

 

そして紀ノ川の風景です。この河川敷や河岸道路は観光資源としてはほとんど魅力あるものとして利用されていません。河岸段丘の地形的特徴や、長い歴史の中でつくられた氾濫原の変化も地理的・歴史的な資源になりうるように思います。ビューポイントをいくつか選択し、提供することも一つでしょう。

 

大規模農道や林道もまた、利用しうる資源ではないでしょうか。奥深い林道もいいですが、場所によっては当地の林道や農道からは、紀ノ川や対岸の背景の連山を眺望することは素晴らしい生き抜きになりうると思います。

 

最近増えつつある、ウォーキングやハイキングイベントも、滞在型の宿泊施設と連携すると、より効果的になるように思うのです。

 

また和泉山系という役行者の行者道が見事に連なっています。この風情もまた見事な景観です。

 

むろん柿をはじめとしてフルーツ多種も、そういう栽培方法の作業自体も観光資源だとは思わないでしょうか。これらは各地の観光手法としていろいろ行われていますが、当地は当地なりの特有のものが十分成り立つのではないかと思います。

 

改めて空き家対策、遊休農地対策、森林荒廃対策、駅前を拠点とする活性化対策、紀ノ川を蘇らせる(たとえば川上船や渡し船が往来した往時のごとく)施策など、さまざまな知恵や工夫を、都会で仕事や人間関係に悩む受け皿として、提供できる場になるよう、地域は、当地だけでなく、配慮することが求められているのではないかと思います。

 

兼行法師や鴨長明、西行や良寛、などなど、人生を達観したような領域には到底なれそうもなく、とはいえ世捨て人?にもなれそうもない状況で、一つの私を表現してみることにしました。これが私かどうかは、もう少し書きながら、また振り返ってみたいと思います。



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