今日、2つ目です。
教員だった頃、「成果主義」とか「目標を数値化」などが流行ったことがあって(今も?)、年間目標シートとか何とかを書かされていた。学期ごとの目標(学級経営と校務分掌と)を数値も使って書く。そして学期ごとに成果と反省、次の目標と手立てを書いていく。
相手は一人一人の人間、生身の人間。社会と同じく学級も一人一人個性をもった人間の集まり。数値目標なんて立てられるわけがない。モヤモヤとした気持ちのまま、やることいっぱいあるし、とりあえず締め切りまでには提出しなきゃ、これも仕事のうちとテキトーに書いて出していたのでした。なんて教員だ・・・
色んな所で「ノルマの弊害」が話題になっている。数値目標って、ノルマと似てる。
ノルマって、重荷だよなあ。がんばる気力(エネルギー)をかえって削いでしまうよね。
何のために個人にノルマを課すんだろう。そこに、「助け合い」の精神はある?
しかも、それによって自分が評価されてしまう(”上司に提出”しなければならない)ので、ますます息苦しい。まあ、シートはほとんど意識してなかったけど(そんな余裕もない)。
人は、ある程度の心のゆとり、心の自由がなければ、明るく元気になれない。元気に頑張れなければ成果も生まれない。逆効果だよなあ。
これだけ給料をもらってるんだから、それだけの成果を出すのは当然だ、という声もある。報酬に見合うだけの仕事をしなさいと。それはそうだけど、でも、ベルトコンベアで機械を組み立ててるわけではないんだから、そう簡単にはいかないのです。
だから、成果よりは過程、努力の過程をみてほしいのです。
身体が元気な人、自由に動かなくても智慧やアイデアがある人、存在自体が人の役に立つ人、それぞれの働き方がある。
いっぱい喋る人が有能とは限らない。一言の重みも人によって違う。
これだけの給料ならこれだけのこと(成果)をしなくてはならない、、、とはいかないことを理解して、仕事の内容を理解して、それぞれの個性に応じて仕事をがんばれるような社会になればいいなあ、と思います。
何でもかんでもお金に換算してしまうのもどうなんだろう?
(これもケチってことかな)
差別されている人(弱い立場の人)たちの待遇が「優遇」(改善)されると、「逆差別」(改善されすぎだ)と言って非難する人がいる。
逆差別って何? 差別されてる人が差別しているってこと?
それとも、自分が差別されてる人に差別されてる?差別してるのは誰?
差別が解消されること、待遇が改善されることを一緒に喜ぶことはできないのかな?
「すべては自己責任だ」「自己負担しなさい」という人がいる。
「恵まれている人は努力したから恵まれているのであって、恵まれてないのならそれは努力が足りないからだ」という人がいる。
すべては努力次第ですか?ほんとに?
努力さえすれば、何でもできるのでしょうか?
恵まれない弱い立場の人は努力してないのでしょうか?
努力しようにもできないでいる人もいるんじゃないかな?
まずは働かなければ、自己負担なんてできない。とりあえず、働きたい人誰もが働ける、働きやすい環境を整えるのが、社会をよりよくするために必要なんじゃないかな。その先頭に立つのが政府なんじゃないかな?
「一億総活躍社会の実現」をめざしてるんですよね、政府は。
「先ず隗より始めよ」ですね。先ず国会から始めよ。
今回は、申し入れが認められて、改善されてよかったと思いました。
バリアフリーはユニバーサルデザイン。誰にとってもよいことだよね。
非難してる人たちの心は、、、出し惜しみ?ケチ? それとも 嫉妬?ねたみ?
(困っている人たちの気持ちに思いが至らない?)
非難してる人たちが、健康で幸福で安穏でありますように・・・
【この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。
死への興味から、生ける屍のような老人を「観察」し始めた少年たち。いつしか双方の間に、深く不思議な交流が生まれるのだが……。
町外れに暮らすひとりの老人をぼくらは「観察」し始めた。生ける屍のような老人が死ぬ瞬間をこの目で見るために。夏休みを迎え、ぼくらの好奇心は日ごと高まるけれど、不思議と老人は元気になっていくようだ――。いつしか少年たちの「観察」は、老人との深い交流へと姿を変え始めていたのだが……。喪われゆくものと、決して失われぬものとに触れた少年たちを描く清新な物語。】
「死随観」(死を観察する)の話かと思ったんだけど、
核家族化が進み老人と触れ合うことのなくなった現代で、すべての人間の通る道「老い」と「死」を観察することが、生きるための智慧になることを書いてるんだろうね。「老死随観」かな。明るく気持ちよく読めるいい本です。
おじいさんとの交流の中で、いろいろ教えてもらって、いろいろ考えるぼくたち(大人も考えたほうがいいと思います)
変化に「よい変化」「悪い変化」ってあるのかな
>ぼくはそうやって、いろいろなことを見過ごしているような、そんな不安に今でもおそわれるのだ。あの夜の(死ぬ前の)犬の目を思い出すたびに・・・
どんくさい山下君もいいこと言う(おじいさんに、スイカを切れと言われてびびるぼくに)
>こわがって(包丁を)さわらないでいたら、いつまでたっても使えない
プールで死にそうになった山下君を見て
>へんだなあ。だれだって死ぬのに、どうしてこわいって思うんだろう。死ぬまでわかんないのかな。
>死んでもいいと思えるほどのなにかを、いつかはぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても。そんななにかを見つけたいとぼくは思った。そうじゃなきゃ、何のために生きてるんだ。
おじいさんの戦争の体験談・・・
おじいさんと同郷の近所のおばあさんとのおしゃべり
>そんなにたくさんの思い出がこのふたりの中にしまってあるなんて驚きだった。もしかしたら歳をとるのは楽しいことなのかもしれない。歳をとればとるほど、思い出はふえるはずなのだから。
夜一人でトイレに行けない・・・
>(人間は)なんで暗闇がこわいんだろう?
それは「わからない」から?(…と気づく)
ひと夏限りとなった、おじいさんとの交流。
三人は「あの世の知り合い」ができました。もう、こわくありません。
しっかりと、生きていくことができるでしょう。
星5つ
これ、児童書なんだね。課題図書のシールが貼ってありました。
【店主の腕に惚れて、有名俳優や政財界の大物が通いつめたという伝説の理髪店。僕はある想いを胸に、予約をいれて海辺の店を訪れるが…「海の見える理髪店」。独自の美意識を押し付ける画家の母から逃れて十六年。弟に促され実家に戻った私が見た母は…「いつか来た道」。人生に訪れる喪失と向き合い、希望を見出す人々を描く全6編。父と息子、母と娘など、儚く愛おしい家族小説集。直木賞受賞作。】
久しぶりに図書館で借りました。ちょっとした小説は図書館、DVDはツタヤ。なるべく節約したいですからね。
遠くに離れていても何があっても、心の深いところでつながっている家族。離れているからこそ、その深いところにある糸を大事にしたくなる。いろいろな事情を抱えながらも家族の絆というものは、簡単には切れない(割り切れない)。せっかく家族に生まれたんだから、死ぬまで大事にしたいよね。
海の見える理髪店
最後に「・・・?」「ああ、そうだったのか!」と分かったときの切なさ。二人はこれからも、心の奥の方で親子なんだろうなあ。言えない、、、思いがあるんだろうなあ。
いつか来た道
何があっても親子は親子。確執は乗り越えて、後悔しないように。確執も嫌な思い出も、そんなもの忘れてしまえばいいのよ。「現実」を見ればきっと忘れられる。許せる。
遠くから来た手紙
ちょっと不思議な出来事。ご先祖様は見ている、、、かも?
空は今日もスカイ
子どもの気持ちを大人は分かってないんだよなあ。なんでだろう。親は近すぎるから?肩書や立場にしばられてるからかもしれないね。いい人とよくない人の見わけもできないバカ警察。何見てんのかな?犠牲になるのはいつでも子ども。
時のない時計
>「時計が刻む時間はひとつじゃない。この世にはいろいろな別々の時間があるってね。・・・」
この言葉は深いね。
成人式
亡き娘への思いを乗り越えるために、、、頑張ったね、お父さんお母さん。元気出したね。それくらいやっちゃえばいいさ。娘さんの友達はいい人たちだね。いい成人式ができてよかったね。
星4つ
嘘をつけば、自分の心は汚れるし、周りの人は困るし、嘘はつくものじゃありませんよね。本当に、気をつけたいものです。
それはそうと、「嘘」って何でしょう。
デジタル大辞泉によれば、
> 事実でないこと。また、人をだますために言う、事実とは違う言葉。偽(いつわ)り。「嘘をつく」「この話に嘘はない」
てことらしいです。
では、事実だと思い込んで言った言葉は嘘と言えるのでしょうか?
「人をだます」意図のない場合は、嘘とは言えないんじゃないかな?
事実と思い込んで、「間違って」しまった場合は、
「間違ってました、ご迷惑をおかけしました」と訂正すればいいんじゃない?
認知症の人や幻視のある人などは、私たちに見えないものが「実際に」見えるそうです。見えてるんだから本人にとってはそれが事実(と思い込んでいる)。
記憶というものは時間とともにあいまいになっていくものです。しかも、その当時でさえも、完璧間違いなくその場の状況などの「事実」をすべて正しく把握していたかはわからない。その時の思い込みということもある。
実際、健康でまともだー、と思っている(思い込んでいる)私たちだって、今のこの「事実」、見たり聞いたり読んだりしていることをすべて正しく認識できているかどうか、大変疑わしい。(以前の記事『IKKOさんの「まぼろし~」は真理?』をご参照ください。)
まあ、そこまで言わなくても、私たちだって事実と違うことを、意図せず言ってしまって失敗することはよくあります。(テストいつでも満点だった?答案に「嘘」ついてたの?)
だから「事実と違っていた=嘘」とは限らないんじゃないかな。
間違いのことを嘘ということもあるようですが、私は「間違い=嘘」じゃないと思う。間違いは間違い。嘘は嘘。A=Bはない。
わざと「だましてやろう」って思ってなかったなら、それは誰にでもあるただの間違いなんじゃないのかな?
それを、事実と違ってたらみんなして「嘘ついちゃいけません!」って非難するって、どうなんでしょう? しかも、関係のない”世間様”が非難する必要が、あるのかな?
反社会的勢力って、たとえば暴力組織とか犯罪組織とかのことかな。
そこの人間を「排除」って、たぶん「関わりを持つな」ってことだと思うけど、それってどういうことなんだろう。
例えば、スーパーで買い物。反社会的勢力の人が買い物で使ったお金が、例えば詐欺被害者のお金かどうかって、見分けがつかないよなあ。スーパーでの買い物も身分証明書が必要ってこと?
スーパーは売ってもいいの?芸人さんはダメ?う~む。
暴力や悪(犯罪)行為などの「汚物(うんこ)」を投げつけられた時、受け取らないように避けるのは、当然。ついちゃったら洗い流すのも当然。投げちゃダメって叱られて当然。
でも、なにもしてない時(うんこ投げてない時)まで、普通に生活できないように「排除」するってどうなんだろう。
そもそも、彼らはなんでうんこ投げるの?
トイレがないの?
うんこ投げたら自分の手も汚れて、臭くて、気持ち悪いだろうに。八つ当たりする弱い人たちなんだろうね。認めたくなくて強がってるけど。(弱いから強がる、自然体でいられない)
じゃあ、トイレを貸してあげたらどうだろう。で、「だから投げないでね」って。
排除って、(相手が分かれば)簡単かもしれないけど、根本的な解決にはならないよなあ。かえって恨みを買うんじゃないかな。
犯罪者にも人権はあると思います。罪は償わないといけないけど。罪を犯しちゃいけないけど。基本的人権はある。
うんこ(悪行為)から離れる、うんこを避ける、うんこには近づかない、うんこを投げつける人とは距離をとる。なるべく。できる範囲で。
でも、できないこともあるんじゃないかな。その場合、自分が加害者でなければ(悪いことしてなければ)罪にはならないんじゃないかなあ。被害を被ることはあっても。
あの芸人さんたちって加害者?詐欺被害に遭った人たちに何を謝る?
それとも”世間様”に謝るの? ”世間様”は芸人さんに何かされた??
結局芸人さんたちも被害者なんじゃないのかなあ?
(社長さんを”世間様”が非難するのもどうなのかな??「記者会見」ってほんとに必要なのかな?、、、ただ、学ぶことはある。でも気の毒です)
「れいわ新選組」の山本太郎さんの政見放送をYouTubeで見た。
政見放送を見て胸が熱くなったのは初めてだ。
(まっすぐで誠実、しかも具体的でわかりやすい)
政治って、選挙って、「与党対野党の戦い」じゃないと思う。
選挙って、政治が今のままでいいのか?を反省し、改善していく機会なんじゃないかな。
今より、少しでも「よりよい方向」へ変えていかなくちゃ。
社会を元気にするのは私たち自身。一部の大企業や金持ち、政治家だけではないはず。
その私たちに一番近いのは誰か。誰となら支えあって、がんばって生きていけるか。
善友といえる人は誰なのか。
少人数じゃできるわけがない。
なら、少しずつでも増やしていけばいい。
理想なんか語っても実現するわけがない。
一歩を踏み出さず、ただじっと待っていても、何もよくならない。
結果がすべて?結果っていつのこと?あせれば道を踏み外す。
まだ結果が出てないなら、これから出していけばいい。
小さな小さな一歩でいい、「方向」さえ間違ってなければ。
社会とは、私たちひとりひとり。私とあなた。
自分の人生は自分がつくる。自分の人生をよりよくするのは自分以外ない。
〇〇まかせの人生でいいはずがない。そんなの死んでるのと同じ。
選挙に行かなくちゃ。今の自分にできること。
この国に住むすべての人が、
健康で平和で安穏に生きていけるように、
そういう社会をつくる第一歩が国の選挙。
選挙に行かなくちゃ。他人に支配されて生きるのはごめんなさいです。
今強い人が、今弱い人を助けてあげるのは当たり前。今お金をたくさん持っている人が、今貧困に苦しんでいる人にまわしてあげるのも当たり前のこと。だってお互い様。「欲しい」ではなく「あげる」。布施の心、慈悲の心のない人が、弱い人を踏みにじる。
みんなが安心して暮らせる社会にしたい。(議員さんだけが政治をしているわけじゃないのです)
「あなたに何ができるんですか。あなたは世間の役に立ってるんですかっていうような空気、社会に蔓延している・・・・そんな社会を、政治を変えたい。生きててよかった。そう思える国にしたい」
「生産性という言葉が人の命を選別するような、そんな空気が蔓延する時代、、、、そんな言葉を吹き飛ばしたい」
「生きているだけで、あなたには価値がある」
「何度でもやり直せる社会」
選挙に行かなくちゃ。
今から、ここから、、、ですね。
(反省と自覚が大事ですね。自画自賛の慢心や悪口はみっともないよね。)
無慈悲な世の中、社会に対する怒り、恐れを、ため込んでため込んで、膨らませて膨らませて、爆発させてしまった。これはテロだね。
犠牲になった方々は、どんなに恐怖と苦痛と無念だったでしょう。気の毒でなりません。ご冥福をお祈りします。また、けがをされた方々、家族や関係者の皆様が、一日も早く心身ともに回復されますように。
そして犯人。
他者に対して、無慈悲と思う自分の心が無慈悲なんだよなあ。鏡だから。
しかし、、、
出所者なの?(偏見を受けて更生できなかったの?)
生まれたときは、無垢な赤ちゃんだったろうに。
お母さんは幸せを願っただろうに。
いつから不幸の道を歩くようになったのか。どうにか、不幸の道から抜け出ることはできなかったのか。優しさ、慈悲にふれることができなかったのか・・・。
犯人の犯行までの気持ちを想像してみる。、、、どんなに苦しかったことか。
でも、
怒りで怒りは消せない。怒りでは問題は解決しない。怒りは不幸しか生まない。
殺せば、自分が生きる権利もなくなってしまう。誰一人として幸せにはならない。
自業自得、悪因悪果。
無知、無明は悲しいことです。
どうか、生きてきちんと懺悔してください。
どうかしっかり償ってください。(寿命いっぱい)
そしてあなたも少しでも楽になってください。
いつか(この世ではないかも知れませんが)どこかで(次は人間界ではないかもしれませんが)、
幸せになってください(今死んだら、大きな不幸・大罪のままです)。
誰一人として(お互いに)、人の苦しみを望んではなりません。
(慈経の一節)
「世界中の受刑者や警察に拘留されている人たちが、安穏で幸福でありますように。欲、怒り、嫌悪、憎しみ、嫉妬、恐怖がなくなりますように。身体と心が慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが、身体と心全体に行きわたりますように。」
(「マインドフルネス」バンテ・H・グナラタナ著より)
生きとし生けるものが健康で幸福で安穏でありますように・・・
重松さんの本を読んで、もう少し自分と向き合いたいと思った。私は2010年まで教員(せんせい)をしていました。
【・・・ほろ苦さとともに深く胸に染みいる、教師と生徒をめぐる六つの物語。】
教員をやめたことに、まったく後悔はない、やめてよかったと思っていました。私には教員はこれ以上無理、疲れた。むいてなかったんだ。これで、第2の人生を送れる、やった、自由だ、と。本当かな??
『白髪のニール』
ニール・ヤングの「孤独の旅路」を、YouTubeで聴いてみた。これがニール・ヤングかあ。
ロックンロールの意味がやっとわかった。
「ロックは始めることで、ロールはつづけることよ。ロックは文句をたれることで、ロールは自分のたれた文句に責任をとることよ。ロックは目の前の壁を壊すことで、ロールは向かい風に立ち向かうことなんよ」
ロックンロールって、かっこいい! 、、、で、なんか胸が痛い。
『ドロップスは神さまの涙』
保健室登校の女の子。若い担任の細川先生と保健の先生ヒデおば。
「あんたよりたくさん見てるからだよ、子どもを」
「おなかが痛くて泣いてる子どもを、何人見てる、あんた」
「膝をすりむいてる子どもを何人見てる」
「子どもはにこにこ笑ってるだけじゃないんだ」
一緒にヒデおばに叱られてる気分になった。
でも、細川先生だってわかってると思う。わざと見ないように、目をつむってるわけじゃないと思う。でも、見れてない。いっぺんには見れないのよ。だから保健室と連携して、補い合うこと。細川先生は、連携を拒んじゃったのかな?
ヒデおばみたいに、キツイ先生には会ったことがないです。優しい人ばかりでした・・・。ヒデおば先生はさすがです。
『マティスのビンタ』
努力するのはいいこと。大事です。でも、いくら努力しても必ず報われるとは限らない。結果にこだわりすぎないことです。(今ならわかる)
才能がないなら仕方がない、才能があって努力をしたとしても世の中自分の思い通りにはいかないことが多い。大事なのは、努力しているその時、精一杯やっているという充実感があるかどうか。結果は期待しない、放っておく、焦らない。
人の努力をバカにしてはいけない、ってこと。今、努力している姿が美しいのです。それだけで、充分です。
『にんじん』
人はそれぞれ、みんな違っていて、個性がある。感情に理由はない。教師も一人の人間。自己と闘いながら、失敗しながら、苦しみ悩みながら生きている一人の人間です。
我が子の誕生
「まだ名前もついていない我が子に幸せになってほしいと願った。幸せにしてやりたいと誓った。愛されてほしい。この世界のすべてがこの子のことを愛してほしい。ひとよりまさったところなど、なにもなくてもかまわない。ただ憎しみや恨みを誰からもぶつけられることのないように。決してひとりぼっちになってしまうことのないように。生きることは楽しいことだと思いつづけていられるように。ひとに嘲られたり、冷ややかにあしらわれたり、見放されたりしないように。好きな人が一人でも多くいて、一人でも多くの人に好きになってもらえる。そんな人生をどうか歩んでほしい、と目をつぶって我が子を抱き寄せ心から祈った。
そして、にんじん、私は初めておまえにすまないと思ったんだ。」
中学の教員になっていた”にんじん”
「教師は完璧な人間しかなれないわけじゃないって、先生に教わりましたから」「恨んでませんよ。もう昔の話ですから」「学校の先生って難しいです」
・・・一人一人の子どもを、我が子のように慈しむ
「子どもたちと同じように、教師だって一年ずつ成長していく」
・・・成長できないまま退職したんじゃないか?でも、辞めてから少しは成長したんじゃないかな?
私はいい先生にはなれなかったけど、、、いい人間になる!
「あたかも母が、たった一人の我が子を命がけで守るように、すべての生命に対しても無量の慈しみの心を育てることです」(慈経より)
『泣くな赤鬼』
雪乃「でも、学校の先生って、生徒をほめてあげることが仕事だと思うけど」
教えたり育てたりすることと、選ぶこととは違うんだよ
(教え育てることが大事なのであって、評価し選別するのは教育の仕事じゃないよね)
ぶざまなところも、みっともないところも、すべて見届けて、それがおまえなんだと言ってやらなければならない。その「誰か」を親以外で引き受けられるおとなは教師しかいないじゃないか。
斎藤「惜しいくらいは、言ってほしかったな、たまには」
よくやったよ。おまえはよくやったよ。
悔しいけどな、惜しかったけどな、でもおまえは精一杯やったよ。
ありがとう。俺の生徒になってくれて。俺と出会ってくれて、、、ありがとう、、、
家族に、教え子に、みんなに言ってあげたい・・・。
他に『気をつけ、礼』
もう、先生じゃないから・・・。でも、みんなの幸せを祈ってるよ。
星5つ
DVDも久しぶりに観た。
【この事件は俺の過去と関りが強すぎる。事件のカギは俺なのか・・・?
東京都葛飾区小菅のアパートで女性の絞殺死体が発見される。被害者は滋賀在住の押谷道子。
殺害現場となったアパートの住人・越川睦夫も行方不明になっていた。
やがて捜査線上に浮かびあがる美しき舞台演出家・浅居博美(松嶋菜々子)。
しかし彼女には確かなアリバイがあり、捜査は進展しない。
松宮脩平(溝端淳平)は捜査を進めるうちに遺品のカレンダーに日本橋を囲む12の橋の名が書き込まれていることを発見する。
その事実を知った加賀恭一郎(阿部 寛)は激しく動揺する。それは失踪した加賀の母に繋がっていた--。】
昔、小説を読んでたけどすっかり忘れてた。ちょうどいいね。多分、小説を読んだ後だったら、物足りなかったかもしれない。
でも、さすがは東野さん原作。いい作品でした。
最近結婚した昇太さんもがんばってたし。捜査会議の黒板の字がとってもキレイなのが気になりました。誰が書いたんだろう。警察の人も字がきれいな人がいるんだね。(どうでもいいか)
松嶋菜々子さん、演技が上手ですね。目が、、、怖かった。
阿部寛さんはこのシリーズの顔。恭一郎といえば阿部寛。食べ方がもぐもぐキリンぽいのが気になった。(どうでもいい)
ストーリーですが、父親(小日向文世)が、悲しすぎる。切ないねえ。
「親っていうのは、子どものためなら、自分の存在を消せるものなのかもしれない」
悲しい親心。気持ちはわかる。でも、罪を犯して逃げたら、自分も子供も幸せになれないんだよ。本当の幸せは、罪を犯さない、犯した罪を認めて償うことからしか生まれないからね。必死なんだよね。必死で、見えなくなるんだよね。
父親の親心は悲しい。もっと悲しいのは、愚かな過ちを犯した母親。あんなに荒れてたのは、きっと後悔の念が強かったんじゃないかな、、、。
父親を楽にしてあげた娘も悲しいね。自分も、罪と向き合わなかったから、だから苦しむことになったんだよな。子供だったから仕方がないのかなあ
でも、大人になったどこかで、、、それには、守りたいものが大きすぎたのかなあ?
人間は、弱いから、、、。
星4つ
久しぶりに小説を読んだ。最近だと「小説 ブッダ」を読んだんだけど、記録をしてないのでいつ読んだか忘れた。小説のように書かれてるけど、ただの小説と違って、中身が濃すぎて記録しきれなかった。
それはさておき、久しぶりに読んだのは、姪に貸してもらった重松清さんの「ゼツメツ少年」
【「僕たちはこのままじゃ、ゼツメツしてしまいます」小説家のセンセイのもとに、一通の手紙が届いた。手紙の送り主である中学二年生のタケシ、そして小学五年生の男子リュウと女子のジュン。学校や家で居場所を失くしてしまった三人を救うために、センセイはある隠れ場所を用意するが――。想像力の奇跡を信じ、悲しみの先にある光を求める、驚きと感涙の傑作。毎日出版文化賞受賞。】
さすがに重松さん。深いです。
小学5年と中学2年の3人は、それぞれに自分の居場所がない。ドジでマイペース、生きるのが下手なタケシは、優秀で出来すぎた(要領の)「いい子」の兄と比べられ、みんなからバカにされいじめられ、学校にも家にも居場所がない。ジュンは自分が生まれる前に3歳で亡くなった姉の身代わり?として扱われ、両親の愛を感じられず生きている。リュウは正義感からいじめられた子を助け、次の標的になる。しかも助けた子からもいじめられる。
居場所がない彼らは、家出をする。ゼツメツしたくないから。
家出。家を出ることはいいことだよ。居場所がないなら、自分で居場所を探して、自分で居場所を作ってしまえばいいよ。居場所は家や学校でなくても、どこでもいいのよ。それが自身の心の中にできれば一番いい。家は仮の宿だからね。
「ここにいていいですか」小1のジュン
「地球はみんなのものだから、どこにいてもいいんだよ」小4のタケシ
・・・「俺ってバカ?」中2のタケシ
どこがバカなの??タケシ君、その通りだよ!!!
「人間には、、、物語が必要なんじゃないかって。、、、このままだとゼツメツしそうなほど、キツくて苦しくてたまらないとき、頭の中で物語をつくりあげて、そこに現実の自分を放り込むことで救われるのだと思う」というタケシの言葉に、「よくわかる、ただし、そのとおりだとは言わない」というセンセイは、やはりちょっとだけ大人だね。
みんなゼツメツしたくないから、必死になって、物語をつくって生きていく。作り上げた物語の中で生きていたいと。それで、救われることもある。けど、、、助かることは、、、ない。心は救われる、けれども、、、みんないつかは死ぬのです。それは明日かもしれない。
助けることはできなくても、救うことはできる
「ジュンも自分だけの人生がちゃんとあって、自分が生まれてきた意味もちゃんとあったんだとわかったはずです。・・・ジュンは幸せにゼツメツするのでしょう。」
3人は、センセイの作り上げてくれた物語の中で救われたのですね。
「笑える話じゃないんだったら空を見ろ、空を」ツカちゃん
(相手の顔を見て話すのがつらい時ってあるよね)
「僕にとって一番難しいのは自分自身です。世の中にはたくさんのフシギがあるけど、いちばん深いフシギは自分自身の中にあるんだと僕は思います」タケシ
その通りだね。自分自身をよく見てすべて分かったら、もう世界がわかるくらいなもんだよ。みんな、自分をよく観察して自分を理解しなきゃね。
「知ってるよ。ジュンのことはぜんぶ知ってるよ。だからもう無理しなくていいんだよ」
ツカさんは聞いてくれただけで、役立つことは言わない。そう、役立つことを言ってあげなくていいのよ。側で理解して、共感して、味方になって、お前のような奴俺は好きだと言ってくれ、話したくなるのを黙って待ってくれる、私もそういう人でありたい。
「忘れるな、自分より弱いものを抱いて守ってやってるときの感触っていうか、気持ちっていうか、ぜんぶ忘れるな。それを覚えてるうちは、おまえはゼツメツしないと思うぜ」ツカモト
つまり、慈しみの心があればってことだね。
エミさんは雲の写真を撮り続けている。雲って面白いね。雲は変わり続ける。同じ瞬間は二度とない。だから面白い。飽きない。雲は人生・・・。
「センセイ、ゼツメツする僕たちにも希望をください」
想像力は希望 想像力は信じること 信じることは約束
生きるって、何かを信じていられるってこと
「いじめ」という言葉を使わないで「踏みにじる」と言おう
夢、希望、正義、優しさと思いやり、自分が自分にとってすごく大切な存在なんだという誇り、、、こういう大事なものを「踏みにじる」
でも、夢や希望などより大事なものがある。一番大事なものは「生きる」という思い。
物語の作者は物語を終わらすんじゃなくて、、、手放すのですね。
星5つ
慈悲の瞑想の言葉は色々あるようです。(長老によって?なのかな?)
スマナサーラ長老から教わった慈悲の瞑想の言葉も、簡単で覚えやすくていいんだけど、グナラタナ長老の慈悲の言葉はより具体的で、胸にグッときます。
覚えにくいけど、大事なのは中身、心です。いつでも、こういう言葉を携帯して慈悲喜捨の心を育てたいと思います。(多分ですが、お釈迦様の「慈経」を基にしてるのかな?慈経は本当にいいお経です。よく口ずさみます)
日本では般若心経を写経して心を落ち着かせますが、グナラタナ長老のこの慈悲の言葉も写経のように書き写してもいいかもしれない。
「ひとりひとりの心から、欲、怒り、嫉妬、恐怖がなくなりますように。慈しみの心で包まれますように。身体の全細胞、すべての血液、すべての原子、すべての分子と心が、慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが全身に溢れますように」
「宇宙のあらゆる方向にいるすべての生命が、安穏でありますように。幸せでありますように。生きとし生けるものが、、、豊かで、尊厳があり、無量の慈しみで満たされますように。敵意がなくなりますように。悩み苦しみがなくなりますように。幸せに暮らせますように」
「私の嫌いな人、私を嫌っている人々が、幸せでありますように。危害がありませんように。困難がありませんように。苦しみがありませんように。いつも成功できますように」
「私に害をもたらす人々が、欲、怒り、嫉妬、恐怖から離れられますように。慈しみの心で包まれますように。身体の全細胞、すべての原子、すべての分子と心が、慈しみで満たされますように。身体が安らぎますように。身体と心が慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが全身に溢れますように」
・・・一部です。
生きとし生けるものが幸せでありますように、、、
(『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ著 出村佳子訳より)
「マインドフルネス 気づきの瞑想」(バンテ・H・グナラタナ著 出村佳子訳)を読み返している。
マインドフルネス(気づきの)瞑想、ヴィパッサナー瞑想をする前に、慈悲の瞑想をして慈悲の心を育てることが大事だそうです。自分に対して、それから自分以外のすべての生命に対して慈悲の心を拡げていく。
あらゆる生命に向けての慈悲の言葉が紹介されていて、それを読むだけでも心が洗われます。その中から、、、
まずは自分へ
「私が、健康で幸福で安穏でありますように。危害がありませんように。願いごとが叶えられますように。人生で避けることのできない困難や問題、失敗に出遭ったとき、忍耐、勇気、理解、決意をもって乗り越えられますように。道徳、誠実、赦し、憐れみ、気づき、智慧をもって克服できますように。」
21日は参議院選挙。慈悲の瞑想の中から、権力を持つ人たちと社会の中で抑圧されている人たちへ慈悲の言葉を送りたいと思います。
「権力を持った人たちが、思いやりがあり、やさしく、寛大で、憐れみがありますように。抑圧されている人、恵まれない人、差別されている人、貧困に苦しんでいる人のことを理解できますように。不幸な人の苦しみに心を寄せますように。慈しみの心で包まれますように。身体の全細胞、すべての血液、すべての原子、すべての分子と心が、慈しみで満たされますように。慈しみの安らぎと静けさが全身に溢れますように。」
「抑圧されている人、恵まれない人、貧困に苦しんでいる人、差別されている人たちが、安穏で幸福でありますように。痛み、悩み、絶望、落胆、不安、恐怖がなくなりますように。」
言葉には力があると感じます。
なるべく、慈悲の言葉を繰り返したいと思います。
「誰がしたの!」
責める「誰か」はいない。「現象」があるだけ。
自分が困ったのならば、それはやった人の問題ではなく
困った自分の問題。
なんとか工夫して、乗り越えていくしかない。
(でも悪いことした人はちゃんと「ごめんなさい」しようね)
「誰がするの?(すべきなのか)」(←やりたくない)
気がついた人がすればいい。
何でも気がついた自分がやる。
できればするし、できなければできない、当たり前。
誰も気がつかなければ、誰もしません。
誰もできなければ、みんな困りますが仕方がない。当たり前。
誰が?、、、誰って誰?
「小さな自分」や「小さな他人」
自分(小さな私)も他人も、もただの頭の中の概念。
「小さな私」の意識は放っておく。
ただやるべきこと、できることをできるように
精一杯、楽しく気楽にやってればいい。
「誰が?」は、あんまり気にしなくていいんじゃないかな?