白夜の炎

原発の問題・世界の出来事・本・映画

5月23日の放射線量・雑感

2012-05-23 14:52:20 | 放射能
新潟県内、窓締め切り、室内、天気は晴れ。

0.07μ㏜/h。

天気は晴れというより少しかすんだ感じ。気温も上がって梅雨前の初夏だ。

緑が一層濃くなって、この季節は素晴らしい。

新潟にきたおかげで、緑にむせかえる季節、というのがあることを知った。


追伸

 給食の放射能汚染の問題に関して以下のサイトを参照のこと。昨年のものだが参考になります。

 →http://matome.naver.jp/odai/2130422651090677001

5月22日の放射線量

2012-05-22 12:09:18 | 放射能
新潟県内、窓開放、室内、天気は曇り。

0.06~0.07μ㏜/h。

東京で若い友人が、子供の給食食材の放射能のことを気にしていた。

目に見えないので気楽に業者は「風評被害」などというが、目に見えて黄金や黒い光を発していたらとても店頭に出せないだろう。

まっすぐな人参や、少しでも虫食いがあることまで気にするのに、放射性物質の汚染は気にしないというのは、以下に見かけだけの判断におぼれているかの証拠だ。


薄煕来続報・事件の背景

2012-05-21 12:43:34 | アジア

薄熙来解任が示唆する中国内政の危機

2012年04月18日(Wed)  岡崎研究所

Foreign Policy 3月26日付で、米AEIのDan BlumenthalとLara Crouchが、薄熙来解任事件は、中国のトップ数人にしかその真相がわからない権力闘争だが、中国国内で変化が起きていることは確かで、今の体制の恩恵を受けている党や国営企業と、資本主義的改革を必要としている民間企業との間に対立があり、場合によっては軍が権力を握る可能性もある、と言っています。

 すなわち、薄熙来解任事件は権力闘争であるが、中国内部には、国営企業やそこから利益を得ている共産党中央と、民間企業を代表する改革論者との間で相剋がある。これは、中国経済の将来についてコンセンサスがないことをよく示している。こうしたコンセンサスの欠如は、中国の経済モデルの有効性が疑わしくなるにつれて、破滅的な人口政策、政府最上層部に広がる腐敗、動きの鈍い政治指導力等、他の国内問題がしっぺ返しとなって跳ね返ってくることを示唆している。

 つまり、中国は大きな変化を遂げなくてはならないのだが、現実には、今の政治指導部には改革を断行する力がない。そうした場合、中国全体をまとめていける存在は人民解放軍しかない。そのため、中国は今後、改革を達成するか、それとも軍主導の下で停滞が続くか、そのどちらかになるだろう、と言っています。

◆         ◆         ◆

 薄熙来事件に関連しての論説ですが、真相は中南海にいるごく少数の者にしかわからないとして、事件自体についてはそれ以上論ぜず、この事件が示唆する中国国内で起きつつある変化に焦点を当てています。

 そして、中国国内では、共産党幹部が権力を謳歌しつつ国営企業で私腹を肥やし、それを軍が支えているが、本来は、民間による資本主義的な改革が必要になってきている、ところが改革が行なわれる見通しは全く立っていない、改革が無ければ、軍の支配による現在の体制、現在の停滞が続く可能性もある、と言っているわけです。

 中国の資本主義的、自由主義的体制改革というところに焦点を当てて考えれば、このように、現状が停滞したまま続くという分析になるでしょう。問題は、そういう状態が、この論説の言うような「停滞」であるかどうかわからないことです。政治的には停滞かもしれませんが、中国経済はまだしばらくは成長余力が残っていると考えられ、現在の「停滞した」政治状況のままで、国力、特に軍事力が更に増大して、国際緊張を増大させる可能性があることが憂慮されます。」

薄煕来続報・薄煕来と軍

2012-05-21 12:36:16 | アジア
「中国政府が警戒した薄熙来氏と軍のつながり

ウォール・ストリート・ジャーナル 5月21日(月)10時17分配信

 【北京】今年の2月初旬、当時重慶市党委員会書記だった薄熙来氏は自らの政治基盤から640キロも離れた昆明の軍事施設を訪れた。そこは薄氏の父親が1930年代に率いたゲリラ部隊の伝統を直に受け継ぐ第14集団軍の本拠地だった。

 その基地には薄氏の父親、薄一波氏の蝋人形が展示されている。薄氏がそこを訪れたのは「革命家だった先祖たちを懐かしむため」だったと人民日報は報じている。しかし、共産党や軍部の高官によると、中国の政治的指導者たちはこの一件をもっと憂慮すべき事態と捉えていたようだ。

 薄氏は深刻な政治的問題を抱えていた。2月2日には重慶市の公安局長、王立軍氏を更迭した。その王氏は2月6日、成都市の米総領事館に駆け込んだ。薄氏は王氏を奪回しようとし、管轄区域外に警察官を派遣するという越権行為を犯した。北京に身柄を移送された王氏は、国家安全部に対し、英国人実業家殺害への妻の関与を含む薄一族にとって不利な申し立てをした。

 共産党や軍部の高官によると、薄氏はキャリアの危機に際し、雲南省の基地を訪れることで革命家の家系を誇示し、人民解放軍から政治的支持を得ようとしたらしい。ある軍の高官は「薄氏の雲南省訪問には最高幹部も不意を突かれた」と話す。

 中国では、この20余年で最悪の政治危機とされるこの捜査では、薄氏の軍とのつながりと異常な警察力の行使が焦点となっている。この顛末は秋に予定されている中国最高指導部の交代の内容にも影響を与えかねない。

 この状況に詳しい政府や軍の高官、外交官などによると、薄氏とのかかわりについて少なくとも2人の軍幹部が取り調べを受け、その他の上官についても厳しい目が向けられているという。

 アナリストたちは、この秋に共産党総書記を、来年3月に国家主席を退任する予定の胡錦濤氏が、この混乱のせいであと1~2年、軍部を統括する中央軍事委員会の主席であり続ける可能性が高いとみている。

 中国政府は先月、一時は中国の最高意思決定機関である政治局常務委員会入りも最有力視されていた薄氏が党中央の要職を解任され、詳細不明の「重大な規律違反」で取り調べを受けていると発表した。政府はまた、薄氏の妻が、薄一族と親しかった英国人実業家ニール・ヘイウッド氏殺害の容疑で拘束されていることも明らかにした。

 影響力がある政府系シンクタンクに勤めるある党高官によると、薄氏の重慶市党委員会書記解任が発表された党の会議で主な懸念事項の1つに挙がっていたのが、薄氏の基地訪問だったという。通常、文民政治指導者が軍の基地を訪れることは厳しく規制されている。

 長年にわたり、中国人民解放軍(PLA)と共産党の関係は政治的に慎重な対応が必要な状態にある。本来、党中央指導部の命令に従うというが、PLAの設立原則だ。党はこの数十年間にわたり、かつては蔓延していた軍の地域や派閥への忠誠を抑え込もうとしてきた。薄氏の昆明訪問が物議を醸したのは、キャリアの危機に瀕していたにもかかわらず、同氏が家系のせいで軍の一部から支持されているということを示していたからである。

 今年3月に薄氏解任のニュースが流れると、クーデター計画があるという噂が一時的に広まった。ツイッターに似たブログ投稿サイトでは北京中心部での発砲事件、路上にあふれる軍事車両や私服警官といった証拠がない情報が飛び交った。

 薄氏の一件に詳しい政府や軍の高官、外交官などは、クーデターの噂は的外れだという。薄氏とのかかわりで取り調べを受けたのは、PLAの総後勤部(兵站部)の政治将校、劉源氏と核ミサイルを管理している第2砲兵部隊の政治将校、張海陽氏である。両者は政治将校として、人事、懲戒、政治教育などの責任を負い、軍司令官と同等の地位にあった。

 ある軍の高官によると、2人の政治将校については「薄氏の解任以来、薄氏とはどういうつながりがあるのか、誰に対して忠誠を誓っているのかという疑問が持ち上がっている」という。

 PLAと中国国防省は2人の政治将校についてのコメントを避けた。

 父親たちが1949年の共産党政権樹立に貢献しているため、2人の政治将校は薄氏と同様、エリートグループ「太子党」に属している。両将校と薄氏とは幼なじみだった。

 政府や軍の高官、外交官などによると、特にかつて薄氏が管轄していた重慶を含む成都軍区のその他の軍高官たちには、現在の文民指導部への忠誠を明言することが求められたという。

 薄氏を巡る騒ぎは、この秋に予定されている軍指導部の交代にも影響を与えかねない。新たな最高指導部が発足するのに加えて、共産党は中央軍事委員会の12人中7人を交代させる予定である。薄氏の件で取り調べを受けた2人の軍高官にも昇格してその委員会に入り、総政治部の主任になる可能性すらある。その地位ではとりわけ軍内部の懲戒と政治教育を扱うことになるのだ。

 影響は習近平副主席にも及ぶかもしれない。やはり太子党に属する習氏は、秋には共産党総書記を、来年3月には国家主席を胡錦濤氏から引き継ぐことになっている。習氏は現在、中央軍事委員会の副主席でもある。胡氏が中央軍事委員会主席の座を維持すれば、習氏の権限の大きさは抑制され、気に入っている将校を昇格させる能力も制限されることになる。

 今回のスキャンダルは、軍が創立以来そうしてきたように共産党に従い続けるべきか、それとも国に忠誠を誓って政治から距離を置くべきかという軍内部の議論をも激化させ得る。

 5月15日付の解放軍報の社説は兵士たちに対して、PLAの国軍化を求める声に直面しても「躊躇したり動揺したりせず、明確な態度を示せ」と呼びかけ、「軍はいつでも党の命令に従う」と強調した。

 230万人という兵力を備えた世界最大の常備軍であるPLAの支配は、共産党の権力支配をずっと支えてきた。毛沢東元主席の有名な言葉に「政治権力は銃身から生じる」というのがある。薄氏の父親も含め、共産党の初期の指導者には元軍司令官が多くいた。

 毛沢東氏の死後、それ以前の時代に見られた暴力的な権力闘争を防ぐ狙いもあって軍部は共産党指導部の中心から外れた。それと引き換えに、軍部は実業界に入ることを許された。軍部はナイトクラブ、製薬、ホテルなどを含む商業帝国をあっという間に築き上げた。

 1998年、江沢民国家主席は近代的な戦闘部隊になることを可能にする毎年の軍事予算の大幅増加と引き換えに、事業からの撤退を命令した。

 ところが軍事アナリストによると、PLAはこの10年ほどで事業活動を再開し、特に軍用地の開発を手がけるようになった。PLAは特に米国との関係、近隣諸国との領土問題などに関する政策立案にもより積極的に参加するようになった。軍部が事業と政治の両方に関わることについては、共産党も神経をとがらせている。

 広大なPLA駐屯地と武器が設計されているPLA後勤工程学院がある重慶市では軍部が大きな位置を占めている。重慶市党委員会書記で政治局員でもあった薄氏はたまに地元や全国区の軍事関係者と接触したとしてもおかしくなかった。

 昨年11月に重慶のホテルの部屋で遺体で発見された英国人実業家ヘイウッド氏はある友人に次のように語っている。「薄氏は定期的に軍高官を自宅に招き、今の政治的指導者たちを弱腰だと批判することが多かった。薄氏は人々が思っているよりもずっと軍国主義者である」

 現時点で問題となっているのは、薄氏が自らの物議を醸すような政策や切望していた政治局常務委員会への昇格のために軍高官たち――特に太子党仲間――の支持を取り付けようとしていたことが行き過ぎだったかどうかである。

 薄氏と同氏の仲間たちは経済や社会への国の積極介入を基礎とした中国の開発モデルを推進していた。その成功はインフラ整備、注目を浴びるようなギャングの撲滅、1950年に作られた革命の歌を大勢で歌うことを中心とした毛沢東主義の復活などに多額の資金を詰め込むことにかかっていた。

 当時の国営メディアによると、こうした政策を掲げてから、薄氏は2009年に重慶で張氏を含むPLAの将校の子女200余名のために革命の歌のコンサートを開催した。

 薄氏の下で働いていた市の幹部によると、同氏は軍管区に住み、重慶市にいるときはそこをめったに離れなかったという。また薄氏は2011年、軍の要求に応じて重慶市内にヘリコプター産業を興すために多額の公的資金を投入した。

 昨年11月、薄氏が重慶で梁光烈国防相も参加する軍事演習を主催した。国営メディアによると、演習が終わった後、薄氏は招待客のために革命の歌のパフォーマンスも披露したという。

 薄氏の政敵たちは、薄氏がこうした活動で軍の支持を拡大させていることに警戒感を強めていった。公安局長による米国総領事館への駆け込みと薄氏の強硬な対応は、ライバルたちに同氏の政治家としてキャリアを破滅させ、その政府モデルの信頼性を損なわせるのに十分な材料を与えてしまった。

 胡錦濤国家主席はこのスキャンダルを機に軍に対する権威を回復させた。薄氏への捜査が発表されてから4日目の4月10日、中央軍事委員会の郭伯雄副主席が成都軍区を訪れて共産党中央指導部の規則を厳密に守ることを求めた。

 郭氏は軍高官や兵士は「いかなる政治的な噂も聞かず、信じず、広めず、政治的自由主義に対しては厳密に警戒するということ」を学ぶきだと述べた。

 このスキャンダルによって軍内部での太子党の急激な台頭がクローズアップされたことで、そのような政治的血統を有していないことや、PLAの事業参加についてもその他の高官の不満は募っていった。

 当局の取り調べを受けた政治将校の1人、張海陽氏は現在62歳、父親は中央軍事委員会の副主席だった。2009年の終わりに第2火砲部隊への配属を命じられる前、張氏は成都軍区の政治将校だったこともあり、薄氏の政治領域と近い場所にいた。

 こうして張氏は、薄氏の物議を醸すような政策を公に支持する著名な軍高官の1人になった。張氏は、かつて資産家だった人物から、同氏の在任期間中、薄氏の組織犯罪撲滅運動で標的にされた地元実業家たちから押収した資産に成都軍区がかかわって利益を上げていると非難されてもいる。

 不動産デベロッパーのLi Junはインタビューで、重慶市の沙坪ハ区の110エーカーの土地を軍から購入したと語った。元軍人の同氏は2009年1月の終わりまでに3億2400万元(5120万ドル)を軍に支払うことになっていたが、最終的に支払ったのはその期日をとっくに過ぎた同年6月のことだった。

 同年12月、Li氏は重慶公安局に組織犯罪、契約詐欺、不正入札、贈賄などの容疑で逮捕された。その約3週間後、成都軍区がLi氏を新たに起訴し、同氏の身柄は拘束されてしまった。Li氏が提供した書類には、軍区の「政治安全部」という署名が入っている。

 尋問者の話では、Li氏は子供の頃から薄氏と親しかった張氏を怒らせてしまったらしい。同氏は支払いの遅延に対する賠償として4000万元を支払うことに合意してようやく解放された。再逮捕されるという情報を掴んだ後、同氏は中国を脱出したという。以来、地元の当局が同氏の会社Junfeng Groupを乗っ取ってしまった、と同氏は証言する。

 成都軍区、PLA、国防省、公安局などはすべてLi氏の証言に対するコメントを差し控えている。

 同氏がかつて所有していた企業Junfengのウェブサイトにはその本社の住所として、成都管区の資材調達所の重慶支部と同じ住所が記載されている。その支部の高官は「その会社の土地はすべて売った」と言ったが詳しい説明はしてくれなかった。

 同社のウェブサイトによると、その住所には今やJunfengによって開発された豪華な別荘が建っているという。Junfengの営業担当者は、同社がもはや成都軍区でなく、地元政府の支配下にあると教えてくれたが、それ以上のコメントはしてくれなかった。

 Li氏の一件に詳しいある人物は「民間人の問題に軍がここまで関与してくるケースは、いくら中国でも非常にまれだ」と述べている。

 当局に取り調べを受けたもう1人の軍高官は、毛沢東主席に粛清され1969年に獄中で死去した劉少奇元国家主席の息子、劉源氏である。現在61歳の劉源氏は習近平国家副主席の幼なじみで、個人的なつながりがあると考えられている。

 劉源氏は1950年代にエリート校として有名な北京市第4中学に薄氏とともに通っていた。2007年、同氏は薄氏の父親の葬儀にてその他の太子党の仲間と写真に納まっている。

 薄氏と同様、劉源氏は汚職を糾弾してきた。概要を把握している人物によると、今年1月、同氏は他の軍高官数百人を前にしてPLAの汚職の根絶を約束するスピーチをした。

 今年初め、同氏は軍用地、補給品、汚職疑惑などを扱う後勤部副部長の谷俊山氏を解任した。この件についてPLAと国防省にはコメントを依頼したが、返答はなかった。

 軍事の専門家は当時、劉源氏が中央軍事委員会入りをも決定付けるPLAの総政治部主任に任命されることを目指しているようだと話していた。

 非太子党員よりも出世階段を早く上がり、同僚の合意を得ることなく谷氏を標的にし、国内政治に影響を与えようとしたことで、同氏は他の軍高官を敵に回してしまったと考えるアナリストもいる。

 「劉源氏はすでに政治的に危うい状態だった」と話すのは米海軍大学の中国軍専門家、Nan Li氏。「王立軍事件が最後の決め手になったのかもしれない」

 劉源氏は昨年出版されたある本の序文で、父親によって提案された概念「新民主主義」への支持を熱く主張したことでも論争を巻き起こした。

 その本を書いた著名な文化人、Zhang Musheng氏も薄氏の「重慶モデル」を擁護してきたが、薄氏の失墜以来、明らかに沈黙している。

 Zhang氏は先月、米国のある会議で「新民主主義」について話すことになっているとインタビューで語っていたが、タイミングが微妙すぎるという引退した軍高官のアドバイスを受けてキャンセルしてしまった。同氏は薄氏の解任やそれが劉源氏に与えた影響についてコメントすることを拒否した。

 Zhang氏は「この件では騒ぎ立てない方が身のためだ」と言って電話を切った。

劉育新

2012-05-18 16:10:27 | 国際
「教育者・劉育新氏 一家三代にわたる中日の絆

発信時間: 2008-03-11 | チャイナネット

教育者・劉育新氏を偲んで、吉林人民出版社が『劉育新記念文集』を出版する。この文集は、劉育新氏の教育事業への貢献と同氏の高尚な人柄を讃えるとともに、一家三代にわたる中日の絆にも言及している。

劉育新氏は1915年、黒龍江省ハルビン市に生まれ、1936年、ハルビン留日学生教育所でずば抜けた成績を収め奨学金を獲得、日本の早稲田大学で政治経済を専攻した。彼は同大学入学後、苦労しつつ研さんを積み、競争率の高い文化奨学金を獲得した。1946年以降は中国で教べんをとるとともに中国共産党が指導する地下革命闘争に参加。

解放後は、吉林省立高級中学校校長、長春市教育局局長、吉林大学外国語学部主任、吉林省人民政府教育顧問などを歴任するとともに、長春市人民代表大会代表に何度も選ばれた。日本留学によって得たものを教育事業に生かした彼の教育理念は、社会から高く評価され、吉林省の各界から高潔な人格と高い名声を認められた教育者であった。

劉育新氏は日本への留学経験があったため、文革中はつらい目にあったが、同氏はかえって中日友好にこだわり続け、中日関係の将来に自信を持っていた。彼は、中日関係の正常化が生易しいことではないことをますます強く感じ、中日間の長期的友好のためには子々孫々にわたってバトンタッチしていく必要があると考え、常に後に続く世代が中日友好のために橋渡しの役割を発揮できるよう励ましてきた。

中日関係が正常化される前の1964年、早くも彼は次男の劉光宇氏が北京大学東語学部の日本語専攻課程を受験するよう励ました。劉光宇氏は北京大学卒業後、吉林省外事弁公室や吉林大学日本研究所、東北師範大学外国語学部で中日交流と日本文学の研究および日本語教育に携わるとともに、日本映画『男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎』を翻訳し、日本の著名な映画を中国の銀幕の上に持ち込んだ。さらに、1987年および1996年には、それぞれ客員研究員と客員教授の肩書きで関西学院大学において日本近現代文学研究に従事し、数多くの日本の文学作品を翻訳し、現在は中国作家協会の会員となっている。

1978年、劉育新氏の激励のもと、四男の劉幸宇氏と三女の劉光赤氏がそれぞれ吉林大学、東北師範大学で日本語を専攻した。彼らは卒業後、幸宇氏は北京の国家機関で中日科学技術交流に従事し、光赤氏は長春の大学で日本語教育に携わった。幸宇氏は1989年、日本に留学し、1992年に修士課程を修了後、日本の商社で中日の経済交流の仕事に就き、1994年から学校法人神戸学院で中日の大学間交流や中国人留学生の指導業務に従事するとともに中国語を教えてきた。

10数年来、幸宇氏は中日両国の教育、科学技術、著名人などをテーマに両国の新聞、雑誌、学術誌に20篇以上の文章を発表し、さらに徐悲鴻の研究者として名高い松谷省三氏に協力して中日文化交流を展開している。光赤氏は1985年に日本に移り住んでからずっと大学で中国語を教え、中国文化を伝えてきた。現在は上智大学、明治大学などで講師として勤務している。20数年来、彼女は日本の中国語教育の教壇に立ち、多くの中国語の人材を育成するとともに、辞典や教材の編纂にかかわったり中国語教育の研究活動を行ったりしている。さらに、彼女は在日中国人としてたびたび国際友好交流の座談会に出席したり、取材を受けたりもしている。

劉育新氏の孫娘で光宇氏の息女である劉芳菲氏は、幼少の頃から家庭の文化的雰囲気の影響を受け、日本語に親しんでいた。成績が優秀であったため、彼女は長春外国語学校から吉林大学外国語学部日本語専攻課程に推薦入学し、全国日本語弁論大会で何度も賞を受けた。1998年12月、彼女は招待に応じて中国青年の代表として日本へ行き友愛国際青年会議に参加。2000年3月には、日本の著名な反戦人士・東史郎氏に日本語でインタビューした。劉芳菲氏は、現在は中央電視台(CCTV)の著名な司会者である。07年9月、中曽根康弘元首相が率いる日中青年世代友好代表団が北京を訪問した際、彼女は人民大会堂で日中世代友好フォーラムの司会を日本語で行った。劉育新氏の外孫で劉光赤氏の息女である林夏名氏は外祖父一族の影響で、小さい頃から日本で暮らしたが、中国語をしっかり学び続け、在校中は中日交流や国際交流の活動に積極的に参加し、03年12月には日本の外務省が派遣した日本青年交流代表団のメンバーとして、北京、上海、桂林などを友好訪問した。04年1月には日本の内閣府が派遣する第16回世界青年の船の一員として、東南アジアおよびアフリカ各国で国際青年交流に参加した。05年3月には、東京青年会議所が主催した黄河両岸緑化のための植林活動に参加し、河南省霊宝市で植林するとともに中国語力を発揮して、現地の小学校の教壇に立ち、中日青少年友好交流の生きた授業を行った。林夏名氏は、今はすでに大学を卒業し、母校の獨協大学国際交流センターに勤務している。

劉育新氏は晩年、青春時代を過ごした東京を懐かしんで3度日本を訪れたが、その都度息子や娘を伴い、昔の留学の足跡を辿るのが常だった。早稲田大学では感に堪えないように大隈講堂の前にたたずみ、銀座では和光の時計台をじっと見つめ続け、日比谷公園では昔の野外音楽堂のあたりを、時間をかけてゆっくりと歩き、今の様子から昔を偲び、思いを馳せる……そんな彼が息子や娘たちに世の移ろいへの思いを語るときは、いつも後に続く世代が中日両国人民の長期にわたる友好を引き継ぎ、将来に道を開くよう繰り返し言い含めるのだった。

劉育新氏はすでにこの世を旅立たれたが、同氏が数多い子孫のなかに蒔(ま)いた中日友好の心の種はすでにあでやかな花をほころばせている。「青は藍より出でて藍より青し」の言葉通り、劉育新氏の子孫は先達を輝かしい手本として、中日友好交流の各分野で活躍中であり、両国の長期にわたる友好のために傑出した貢献をしている。

「北京週報日本語版」 2008年3月11日」

奇妙なニュース-北朝鮮による中国漁船拿捕

2012-05-18 15:29:18 | アジア
「中国漁船拿捕した北朝鮮、船主に直接身代金要求か

中国メディアが報道

 今月8日、西海(黄海)で違法操業を理由に中国漁船3隻(船員29人)が北朝鮮の船舶に拿捕(だほ)された問題で、北朝鮮側が政府間の外交ルートを使わず、個別に船主たちに電話をかけ、身代金を要求したとする船主の証言が報じられた。法に基づいて処理せず、船主たちに直接取引を持ち掛けたというわけだ。

 中国紙「新京報」が17日に報じたところによると、拿捕された漁船の船主は「北朝鮮が拿捕した漁船の船長を通じ、4回にわたり電話で身代金を要求してきた。最初は1隻当たり40万元(約500万円)としていたが、後になって30万元(約380万円)に下げた」と話しているという。

 拿捕された漁船の1隻「遼丹漁23536号」の船主、張徳昌氏に最初に電話がかかってきたのは9日のことだった。北朝鮮に拘束されている船長の韓強氏は電話口で「北朝鮮が1隻当たり40万元、総額120万元(約1500万円)を要求している」と伝えた。同船長は11日と13日にも張徳昌氏に電話をかけ、北朝鮮が身代金を40万元から30万元に下げたことを伝え、15日の電話では「2日以内に1隻30万元を払わなければ、船を処分すると言っている」と切迫した状況を伝えた。北朝鮮側は身代金の受け渡し方法について「中朝国境都市の丹東の港で宋という人を探して相談するように」と言い、その人物の中国の携帯電話番号を船主たちに教えたという。

 また、中国紙「環球時報」は、大連のある海洋警察官が「相手が北朝鮮の政府なのか、強盗なのかさえも分かっていない」と話し、北朝鮮側を強く批判したと報じた。

 中国のメディアは、中朝間の協約に基づき、中国・遼寧の国境警備隊が北朝鮮との交渉に乗り出したと伝えている。だが船主たちは、拿捕された漁船と同じ位置にいて、拿捕を免れた「遼丹漁23537号」のGPS(衛星利用測位システム)航跡記録を提示し、北朝鮮の漁業水域に入っていないと主張しているという。

 中国外務省の洪磊報道官は同日の会見で「北朝鮮側に中国人船員の安全と合法的な権益の保障を求めた。北朝鮮と緊密に連絡を取り、早期に問題を解決したい」と話した。

北京=崔有植(チェ・ユシク)特派員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版」

ロケットはビジネスにしよう

2012-05-18 15:25:06 | 科学
「 三菱重工業と宇宙航空研究開発機構は18日午前1時39分、韓国の多目的実用衛星「KOMPSAT―3(愛称・アリラン3号)」など計4基を搭載したH2Aロケット21号機を、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げた。アリラン3号はロケットから分離したことが確認された。

 H2Aロケットはこれまで官需に頼ってきたが、今回は初めての商業打ち上げ。日本の宇宙産業の悲願だった海外衛星の打ち上げにより、H2Aロケットの信頼性を国際的な衛星打ち上げ市場にアピールする。

 21号機はアリラン3号のほかに、宇宙機構の水循環変動観測衛星「しずく」や小型衛星「SDS―4」、九州工業大の小型衛星「鳳龍弐
ほうりゅうに
号」を搭載。

(2012年5月18日 読売新聞)」

陳光誠続報・大使館滞在希望だった

2012-05-16 17:05:38 |  北米
「陳氏、中国首相と面会要求=土壇場まで退去を拒否-米大使

 【北京時事】

 ロック駐中国米大使は3日、記者団に対し、人権活動家、陳光誠氏が米大使館退去に至った経緯を説明した。大使は、陳氏が1日夜の段階で、米中両国が交渉した提案を拒否して大使館での滞在継続を希望し、温家宝首相との面会を求めていたと明らかにした。(2012/05/03-21:45)」

陳光誠続報・甥の逮捕を米下院で証言

2012-05-16 16:57:39 | アジア
「おいの逮捕 陳氏「不当」 米公聴会電話証言

2012年5月16日 夕刊

 【ワシントン=竹内洋一】

 米国への出国を希望している中国の盲目の人権活動家、陳光誠氏(40)は十五日、米下院外交委員会の公聴会に対して電話証言し、自らが自宅軟禁から脱出した後、山東省の地元当局がおいの陳克貴氏を逮捕したことについて「不条理で不当」と批判した。陳氏が北京の病院から電話で米議会に訴えたのは三日に次いで二回目。

 在米の人権団体「対華援助協会」は、陳氏が申請したパスポートの発給期限が二十一日だと明らかにし、中国の指導部に手続きがスムーズに進むように求めた。

 陳氏によると、地元政府当局が四月二十六日深夜に陳氏の兄の自宅に侵入し、一家に激しい暴力を振るった。おいが、たまりかねて当局者を刃物で切りつけたところ、故意殺人の容疑で逮捕されたという。陳氏は「当局の行為は憲法違反で(おいは)正当防衛だった」と強調した。

 一方、国務省のヌランド報道官は十五日の記者会見で、陳氏の米国留学に向けたビザ(査証)発給など米国側の手続きが完了していることを明らかにした上で、「陳氏と中国政府の準備次第だ」と述べ、中国側に陳氏を早期に出国させるよう促した。」

薄煕来続報・重慶市の後任人事は?

2012-05-16 16:20:45 | アジア
「山東省党書記、重慶に転任か=江沢民派重鎮の直系―中国

時事通信 5月16日(水)14時10分配信

 【香港時事】香港紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストは16日、消息筋の話として、中国共産党山東省委員会の姜異康書記が重慶市党委書記の有力候補として浮上していると伝えた。6月にも転任するという説があるという。

 重慶では2月、失脚した王立軍前副市長が成都(四川省)に逃れ、米総領事館に駆け込む事件が発生。3月に重慶市党委の薄熙来書記が解任され、江沢民前国家主席派といわれる張徳江副首相が同書記を兼任した。

 姜書記は江前主席派の重鎮として知られる曽慶紅前国家副主席の直系で、かつて重慶市党委の副書記を務めた。直轄市である重慶市のトップとなれば、今年後半の第18回党大会で政治局入りする可能性が高い。

 ただ、長沙(湖南省)のメディア関係者は同紙に対し、薄前書記の後任として一時名前が挙がった胡錦濤国家主席派の周強湖南省党委書記が重慶に転じる可能性はまだ残っていると述べており、水面下で人事をめぐる駆け引きが続いているもようだ。 」

陳光誠続報・遠藤誉さんによる記事

2012-05-15 17:29:57 | アジア
「陳光誠氏の甥が「故意殺人」容疑で逮捕される  地方政府は弁護士の登録を受け付けず

遠藤 誉

 2012年5月9日、盲目の人権活動家・陳光誠氏の甥である陳克貴氏が逮捕された。

 フランスのAFP通信北京支局など、多くの海外メディアが11日に伝えた。その中の一つである『陽光時務』(ISUN AFFAIRS)は逮捕通知書のコピーをはっきりと掲載している。

 陽光時務によれば、陳克貴氏の母親である任宗挙氏が、陳克貴氏の妻・劉芳氏宛てに出された逮捕通知書を受け取ったという。逮捕通知書を発行したのは山東省沂南縣公安局。逮捕状の番号は「沂南刑捕通字[2012]00230號」。そこには「陳克貴は故意の殺人罪により,沂南縣檢察院の批准の下に、2012年5月9日9時、当局が逮捕した。現在は沂南縣看守所に拘留している」と書かれている。この時、数人の公安局員が母親・任宗舉氏の家にいきなり入ってきて、「ここに署名せよ」と言った。彼女は識字できないので、そこに何が書いてあるか分からなかったという。おまけに、公安は4月30日2時には陳克貴氏を逮捕し連行していた。

 というのは、公安は、年間7億円以上もかけ、7重、8重ほどの厳重な包囲網を敷いて、陳光誠を見張ってきた。その公安が、陳光誠がいないことに気が付いたのは4月27日の早朝のこと。陳光誠が軟禁されていた自宅を抜け出したのは4月22日だと、実際に救助した支援者の話を通して、「アメリカ対華援助協会」の責任者(会長:傳希秋)が述べている。

 AFP通信が、北京朝暘医院にいる陳光誠と電話連絡をし、陳光誠から直接聞いた話を伝えている。その内容を筆者は“swissinfo.ch”の中文ウェブサイトで確認した。それによれば、陳光誠は次のように述べている。

 「(4月27日の早朝)私を探すために10人ほどの公安が突然家に入ってきた。だが、私がいない。そこで彼らは(家にいる人たちを)殴り始めた。陳克貴の頭の上に棒が降りかかってきたので、彼は包丁でそれを避けた。自己防衛にしたにすぎない」と主張している。

 『陽光時務』は、この時の様子を、「公安が殴りこんできて陳克貴と母親を殴ったので、反撃をした」と述べている。

 いずれにしてもこの時、1人の地方共産党幹部が重傷、2人が軽傷を負った。だから陳克貴氏は「故意の殺人」として逮捕されたのだという。

 陳克貴逮捕に関する情報の特徴は、中国政府が完全には封鎖してないことだ。例えば中国で最もよく使われている検索サイト百度(Baidu)で「陳克貴案件」(案件:中国語では訴訟事件、裁判事件の意味)と入力すると約1万項目ほどが表示される。実際にクリックしてみると既に削除されているものが多い。それでも、ここまで情報を公開している点は注目すべきだろう。

1週間伏せって、監視を欺く

 世界中が疑問に思っているのは、「陳光誠は、どのようにして厳重な包囲網を抜け出したのか」だろう。監視カメラがあり、7億円もかけて大勢の公安が監視している自宅を、「目の不自由な者が抜け出すことが可能なのか」。

 筆者もその疑問を持っている一人だ。「何か」がないと、「あり得ない」と思うのが普通だろう。
前回書いたように、中国大陸で結成されている「陳光誠を救援する会」という人権保護団体の何培蓉(か・ばいよう)などの2人が助けた。と言っても、彼らが家の中に入れるわけではない。包囲網は隣村まで、何重にもわたって形成されている。

 そこで筆者は、この一点に絞って、情報を追跡してみた。
 すると、思いもよらない情報にぶつかった。
 それは『自由亜州電台(自由アジア・ラジオ)』(Radio Free Asia)に載っていた情報だ。著者は曹長青。

 それによればこうだ(長文なので、要旨のみを書く)。

 陳光誠は脱出を図る何週間も前から、床に伏したまま、びくとも動かなかった。したがって海外メディアは一時期、陳光誠の命が危ない状態にある、という情報を流していた。
 ところが4月19日の夜、看守が水を汲みに行った隙に陳光誠は逃げ出した。
 (「アメリカ対華援助協会」の責任者は)逃げ出したのは4月22日だと言っていたが、実際は4月19日であった。当局を混乱させるために4月22日と言ったのだと何培蓉が言っている。
 では、戻ってきた看守は「陳光誠がいない」ことに気が付かなかったのだろうか? そこにこの脱出劇の謎を解くカギがある。
 陳光誠が逃げたのと同時に、その甥っ子である陳克貴が、身代わりとなって陳光誠のベッドに潜り込んだのだ。陳光誠は看守の目をごまかすために、ここ何週間か、ずっと臥せっていた。だから看守は陳光誠が寝ているものと思った。
 奇跡の逃亡の第1関門を、自由アジア・ラジオはこのように書いている。

第2の関門には二つの説

 その後の逃亡劇に関しては二つの説がある。
 一つは、陳光誠氏はこの村に関して知り尽くしているので、友達の家まで逃げ込み、友人から何培蓉に連絡してもらったという情報だ(自由アジア・ラジオ)。南京市で英語の教員をしている何培蓉は、そのとき偶然北京にいたという。

 もう一つは、何培蓉が速達配達員に扮装し、もう一人の救助者である郭玉閃が電気料金の集金屋に化けて包囲網を潜り抜けて陳光誠が住む村に近づいたという説だ。これは雲南省の弁護士である晨光齋(しん・こうさい)氏が書いている。驚くべきは、この情報が中国大陸の「百度」(baidu)上にあることだ。

 おまけに弁護士・晨光齋氏の情報には、陳光誠の逃亡路に関する詳細な図が添えられている。

 いずれにしても、第2の関門に関しては二つの説があるので、そこには触れないことにしよう。陳光誠氏自身も、彼を救助してくれた人たちの身の安全を守るために、今は明確には言わないのだと、多くのメディアの電話取材に答えている。

陳光誠の逃亡を助けたことで逮捕されたのであれば…

 筆者がいま関心を持っているのは、第1の関門だ。
 フランスのAFP通信は、陳克貴氏の弁護士が「4月27日の明け方に殴打事件があった」と述べていると報道した。
 陳光誠氏自身が電話取材で語った言葉を含めて、多くの情報を総合すると、今般逮捕された陳克貴氏が、陳光誠逃亡・第1関門のキーパーソンであることだけは確かだろう。そうでない限り、これだけ厳重な警備の中、目の不自由な人が、軟禁されている自宅から監視に気づかれないように逃げ出せることはあり得ない。

 したがって陳克貴氏は、「故意殺人」容疑ではなく、実質上は「陳光誠の逃亡を助け、公安当局を騙した」という罪で逮捕されているものと筆者には思われる。だとすれば、当局はなかなか陳克貴氏を離さないだろう。

 VOA(Voice of America)は5月7日の時点で、陳光誠氏が「どうか陳克貴を守ってくれ」と世界に呼びかけていることを伝えている。「より多くの友が、より多くのメディアが、そしてより多くの中国のネットユーザーが、この極度の不公平と、“黒を白と言いくるめる”本末転倒の事件に関心を持ってほしい」。

 「陳克貴事件をもし地方政府が審理したら、そこの政法は無法なので、公正な審理は絶対に行われない。今日(5月7日)、(中国)中央政府が国家信訪局接待司の郭副局長を(病院に)派遣してきたので、陳克貴の事情を話した。この中央政府官員は、ありのままを上に報告すると言ってくれた」(信訪局:投書、陳述を通して民衆の意見を取り上げる部局)

 VOAは、陳光誠氏を電話取材したときのやりとり、その肉声を公開している。そのURLを示す。

山東省地方政府は陳克貴氏の弁護士を受け入れず

 中共中央は5月初旬に、すでに調査組を組織して山東省の地方政府の実態調査に入ったことを明らかにしている。しかし事態は楽観を許さない。

 2012年5月12日付のRFI(Groupe Radio France Internationale)は、陳克貴氏の弁護士が当局から妨害を受けていることを伝えている 。

 その記事によれば、山東省の弁護士・劉衛国氏が陳克貴氏の弁護士として届け出ようとしたら、当局が「受理しない」と言ったという。

 劉衛国氏以外にも、広東省の陳武権・弁護士など13人が、陳克貴氏の弁護を申し出たそうだが、すべて「受理しない」と当局に断られているという。弁護士たちは「公安が陳家に押し入ったのだから、故意殺人は成り立たない」として、正当防衛を主張しようとしている。

 陳光誠氏は、アメリカ大使館に入ったあと、山東省政府の「報復」を早くから恐れ、警告し、その危機感をメディアに対して発信し続けてきた。それが的中したわけだ。

陳光誠氏は甥の正当防衛を主張

 中共中央の調査組が現地に入ってもなお、山東省政府の当局が弁護士の受け付けさえ許さないとすれば、中共中央政法委員会の信用は失墜するだろう。

 中国の刑法第20条には正当防衛に関する規定がある。
 「国家あるいは公共の利益のために、本人または他人の人身や財産及びその他の権利が不法な侵害を受けたときには、それを制止する方法が不法侵害でなく、不法侵害をした人に損害を与えない限り、正当防衛とみなし、刑事責任を負わない」となっている。ただし、この「制止行為」は不法侵害が進行している間に行われたものでなければならない。また侵害を受けてない第三者が実行した「制止」でないことが条件となっている。

 陳光誠氏は、「公安が、棒が折れるほど陳克貴を殴ったこと」と「母親を殴ったこと」に対して、正当防衛であると主張している。また、陳氏は電話取材してきた多くのメディアに次のように訴えている――傷を負った公安局員が死亡したわけではない。したがって中国の刑法が規定する正当防衛の範囲内である。

 陳光誠氏は、兄に本を読んでもらって、それを記憶する形で中国の法律を学んだという。その聡明さに感服する。

 アメリカやフランスのメディアだけでなく、日本のメディアも陳光誠氏の期待に応えて、陳克貴氏の行方を見守ってほしい。この記事が、その一端を担えれば幸いである。」