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「一つの資本主義から複数の資本主義へ 『中国共産党と資本主義』第6章を読む(1)」

2013-03-04 15:46:38 | アジア
「一つの資本主義から複数の資本主義へ
『中国共産党と資本主義』第6章を読む(1)
ロナルド・コース 、 王 寧  【プロフィール】 バックナンバー2013年3月4日(月)1/3ページ
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 1910年生まれ、今年103歳となるノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース氏は、いまも現役の研究者である。肩書きはシカゴ大学ロースクール名誉教授だが、中国人の王寧アリゾナ州立大学准教授との共著で、中国社会主義の資本主義への制度変化を分析した『中国共産党と資本主義』(原題はHow China Became Capitalist)を2012年に出版した。この連載は、2013年2月に出版された邦訳の中でも、白眉である第6章「一つの資本主義から複数の資本主義へ」をまるごと公開するものだ。中国的特色をもつ資本主義の到達点と限界を独自の視点から分析する。
 2008年7月18日、中国の市場転換に関するシカゴ会議の閉会のスピーチの最後にロナルド・コースは「中国の奮闘は世界の奮闘である」と宣言した。2008年12月10日付『タイム』誌は、中国の30年間にわたる市場転換と、この卓越した人間ドラマで小平が演じた英雄的役割についての時事解説を載せた。記事はこう締めくくられている。「これはわれらの時代の偉大な物語だ。我々の、誰しもの物語―─中国だけではない」

 この物語が1976年の毛沢東死後の中国に新たな一章を開いたとき、ポスト毛政権は文化大革命後に断固たる政策転換へと舵を切った。階級闘争の教義を捨て、「社会主義の優越」を実現する代替のアプローチとして社会主義的近代化を掲げた。

 1950年代半ばから続いていた急進的イデオロギーがようやく誤りで有害だと認められ、ここから政策立案に良識とプラグマティズムの入りこむ余地が生じたのだ。この指導体制と政策の転換によって社会主義イデオロギーの締めつけがゆるみ、その後の経済改革が促された。

 毛沢東時代は社会主義の命令を押しつける政治活動が次々にくり出されたが、中国は繁栄を共有できる約束の地にたどり着けなかった。失望と不満が、とりわけ毛沢東時代に地位を失った党の長老に、「右派」として攻撃された知識人に、農業集団化のせいで口に糊するのに必死の8億人の農民の大多数に広がり、深まっていた。彼らは変化を求めてやまなかった。

 階級闘争論を斥け、社会主義的近代化を受け入れた中国は、政界の内紛というマイナスサム・ゲームの呪縛からついに解かれ、経済発展というプラスサム・ゲームにとりかかった。毛の壮大だが破滅的な社会主義の実験の苦汁をなめさせられた中国人は明らかに、改革の遠大な計画に懐疑的になっていた。

 また同時に、外界から長いあいだ孤立していたので、社会主義の代案にほとんど心当たりがない。このため指導部は、即席とありものの利用でひねり出したことに取り組むしかなかった。なおも社会主義イデオロギーの旗印のもとに集いながら、実際的な目的を達するための多様な方法を模索した。

 しかし20世紀末には、中国は1978年コミュニケで意図したような公有制と国家計画にもとづく「近代化した社会主義の強国」になったことを祝すのではなく、気がつけば、私有企業家の活動と市場原理に満ちた活気ある経済を備えていた。これは中国の経済変革の最も意外だった面だ。

 中国は社会主義を近代化しようと努めながら資本主義になった。中国の物語は、アダム・ファーガスンが「人間の行為の結果ではあるが、人間の設計の結果ではない」と述べたものの典型だ。中国のことわざがもっと詩的に表現している。「有意花を栽えて花発かず、無心柳を挿して柳陰を成す」(花を咲かそうと思って植えた花が開かず、誰も気にかけなかった柳が成長して木陰をつくる)。

偶然から「致命的な思いあがり」を免れた中国

 中国の経済改革は、当初そう受けとられ進行中ずっと思われていたような、社会主義を解体して、資本主義へ移行することを意図したものでは断じてなかった。むしろ、その目標は「社会主義的近代化」、毛沢東が果たせなかった経済開発を実行するための第2次革命、もう一つの「長征」であり、1978年コミュニケが宣したように、中国を「20世紀中に近代化した社会主義国」にすることであった。

 共産主義は資本主義を葬り去る運命にあると主張しているから、共産党は市場改革とは両立しないと広く信じられている。しかし政治組織(共産党)と政治イデオロギー(共産主義)を同一視する過ちを犯してはならない。人間は一人ひとりが多様なアイデンティティ(例・男性、教授、夫、経済学者、アダム・スミスの崇拝者)をもつ。政治組織も同様に、多様かつ流動的なアイデンティティをもつ。マルクス主義の個人や組織がただマルクス主義であるだけのはずはない。共産主義と資本主義が互いに対抗しあうイデオロギーとして正反対の立場をとる一方で、共産党は存続の危機に際しては、資本主義も含めたあらゆることを受け入れ、実地に試すことがありうるのだ。

 共産党と共産主義を分けて考えなかったために、多くの人が経済体制移行の取り組みを誤ることになった。市場改革は、まずはイデオロギーも政治組織も含めて共産主義システムを一掃しなければ不可能なものだ、との考えが浮上した。共産主義だった過去との完全な決別が、市場経済へ新たな歩を進めるための絶対条件と考えられた。

 結果として、既存の経済システムに手を加えての漸進的方式は、そもそもの最初から除外され、改革のビッグバン方式と呼ばれた手法が誕生した。加えて、政策立案者の顧問である多くの経済学者は、その現代経済学の専門知識をもって市場経済を新たに建設するには、社会主義を跡形もなく消し去らねばならないと信じた。

 しかし市場経済が合理的に設計されうると考えることは、設計主義的な合理主義という「致命的な思いあがり」とハイエクが称した誤りを犯していた。何十年も前にハイエクは、ノーベル賞受賞の記念講演で警告していた。「社会の進展を自分らの好きなように形づくるための知識も権力も、実は持っていないのに持っていると考えて行動すると、大きな害を引き起こしやすい」

 中国は幸運にも、まったくの偶然から、この致命的な思いあがりを免れた。経済改革に着手したてのころ、中国は共産主義を一掃してゼロから始めようとは(とうてい考えられなかったし)考えなかったから、まっさらの計画をもって臨むのでなく既存のシステムを調整することから開始した。

 だが社会主義をひきつづき奉じていたので、その欠点を認めはしなかった。実のところ、毛沢東の死後には中国の社会主義の本質と展望をめぐる公的な議論が噴出した。毛の指導下では何がいけなかったのか、中国は次はどこへ向かうべきか。1981年、華国鋒から中国共産党主席の座を引き継ぎ、82年に党総書記となった胡耀邦は、84年にイタリア共産党の機関紙『ウニタ』のインタビューに応えるなかで、自身と党に対し疑問を提起した。「〔1917年〕十月革命から60年以上たった。多くの社会主義国が資本主義国の発展に追いつけていないのはどうしてなのか。〔社会主義の〕どこがいけなかったのか」

 社会主義に傾倒してはいても、中国指導部はその外遊中に資本主義の洗礼を受けるや、これを見直し称賛しさえもした。当時、工業開発担当副総理だった王震は1978年11月6日~17日にイギリスを訪問、この国の労働者階級が果たした高次の経済的・社会的発展を知って驚嘆した。訪英前のこの国の資本主義に関する知識は多分にマルクスの著述に依っていた。ロンドンの貧民街を、貧困と窮乏と搾取を目にすると予期していた。

 だが驚いたことに、王の給料はロンドンのごみ収集員の賃金の6分の1にすぎなかった。外遊が終わるころには、王震はイギリスの資本主義と中国の共産主義への信奉に関して、これまでより深く正確な理解に達していた。

 イギリスはよくやったと私は思う。生産物は豊富にある。3つの不平等〔都市と農村、工業と農業、精神労働と肉体労働の不平等、マルクスはこれらの廃絶を社会主義の使命とした〕はほとんど除去されている。社会正義と福祉は大いに強調されていた。イギリスが共産党政権に治められていたなら、そのままわが国の共産主義社会の手本となった。

 イギリスに共産党支配を足したものが共産主義に等しいという王震の公式は、資本主義と社会主義に対する現実的で非イデオロギー的な態度とともに、いつまでも変わらぬ党への愛着を示していた。このプラグマティズムの精神がなかったら、中国に残っている社会主義信仰のせいで、その後の市場改革は達成されなかったに違いない。

共産党の組織としての柔軟性と順応性の証左

 中国の経済改革の何より尋常ならざる特徴は、30年にわたる市場転換中に中国共産党が存続し、むしろ繁栄したことだろう。これは明らかに、社会主義の実験が失敗したのちの共産党の組織としての柔軟性と順応性の証左であり、党が無敵だとか社会主義そのものの優越を証拠立てるものではない。

 だが、もっと驚くべきは、社会主義を救うはずだった改革が、いつしか中国を市場経済へと変えていたことだ。この驚異の物語の攪乱要因は、中国の「実事求是」の教え、小平が誤って「マルクス主義の真髄」と呼んだものである。

 中国が巨大な経済の実験場と化したとき、競争力がその教えの魔法を発揮できたのだ。発見の実験的過程で、原材料が最大の利益を生む使用へと向けられ、集団学習を容易にする制度的な取り決めや組織構造が出現した。

 毛沢東の遺産をいじくり回しつつ、中国は一歩また一歩と、脇道には逸れず後退もせずに進むうち、ふと気づくと、社会主義を救うはずだった30年の改革ののちに市場経済へ変貌を遂げていた。

 ベルリンの壁崩壊後、社会主義は旧ソ連圏で廃された。中国においても敗北した。飢えた農村は私営農業を復活させ、郷鎮企業は国有企業の収益を上回った。都市部では個人企業と私営企業が導入され、国家主導の企業改革が与えたよりも大きな活力を都市経済にもたらした。

 中国の経済改革の物語は、頑固な私企業家精神の物語でもあり、大胆だが漸進的な社会実験の物語でもあり、また、より良い生活を求める人間の謙遜と忍耐の物語でもある。」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130225/244174/?P=1


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