「1944年、ギリシャのレジスタンス運動をつぶしたチャーチル
「われわれはアテネを掌握し、支配しなければならない」
ジョエル・フォンテーヌ(1)
訳:仙石愛子
経済危機がギリシャに昔の記憶を蘇らせた。まず、ドイツ軍に占領され、破壊され、略奪された第二次世界大戦の暗い記憶。次に、同盟国に干渉された年の記憶。イギリスが各地のレジスタンス組織をつぶし、極右民兵と手を組んだ1944年の記憶である。英国はギリシャが極右支配をくつがえそうとするのを許さなかった。[フランス語版編集部]
« 原 文 »
「諸君の責務は首都の治安維持である。アテネに接近中の民族解放戦線-人民解放軍(EAM-ELAS)の全部隊を中立化させるかつぶすかしなければならない。確実に街を統制でき、撹乱者の全組織を包囲できるよう、必要なあらゆる対策をとることだ。(中略)最も好ましいのは、当然のことながら諸君の命令が、なんらかのギリシャの政府によって承認されているということである。(中略)万一、征服した地域で暴動が起きたとしても、諸君には毅然として行動してほしい。(中略)われわれはアテネを掌握し、支配しなければならないのだ。流血なしにそうできれば、それが最善だろう。だが、流血が避けられない場合もあるかもしれない。(2)」
この訓示を書いたのはイギリス首相ウィンストン・チャーチルその人である。時は1944年12月。ナチス・ドイツ軍はまだ連合軍に抵抗していた。イタリアで動きがとれなくなり、ドイツ軍の最終反撃にあった連合軍は、アルデンヌへ撤退した。しかし、その頃チャーチルが敵視していたのは、対独協力派「軍団」ではなく、大組織「民族解放戦線」のパルティザンだった。このグループは3年にわたり大規模なレジスタンス活動でドイツ占領軍に抵抗してきた。
19世紀の間、東地中海地域はイギリスとロシアの対立の中心地だった。1917年11月のボリシェヴィキ革命でロシア帝政の野望に終止符が打たれ、1940年代初頭には、この地域はイギリスの揺るぎない影響下に置かれた。その中でギリシャは戦略上の要衝を占めていた。
この国におけるレジスタンス活動は極めて急速に発展し、共産主義者や社会主義的傾向のある小党が手を結んだので、イギリス外務省は不安感を覚えていた。イギリスが恐れていたのは、「ロシア」が地中海地域へ侵攻してくることだった。ギリシャの王政は、人民に嫌悪され、イオアニス・メタクサス将軍(在任1936-1941年)率いる独裁政権と結びついていた。しかしチャーチルには、そういった君主制だけがイギリスの支配を保証しているように思われた。
イギリスの同盟諸国は、この件に関してはチャーチルに自由にやらせていた。ウィルソン外交の伝統を無視していたアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは、各国が影響圏をもち、特にそれによってアメリカの商品や資本の流通が妨害されることに、表向きは反対しながらも、実際にはチャーチルを支持した。スターリンはといえば、彼は何よりもまず戦争の終結を望んでおり、米英との不安定な「大同盟」を確固たるものにしたかった。彼は、1944年5月という早い時期からバルカン半島調停の会談をチャーチルに要請され、ルーマニアとブルガリアを掌握してよいとほのめかされると、いとも簡単にそれを受け入れた。
戦争期間中、ギリシャはチャーチルにとって「悩みの種」だった。すでに1941年3月にはドイツのバルカン半島への脅威が現実味を増したので、彼は近東の司令部に命令して5万の兵をギリシャに派遣した。この命令により、リビアで勝利を目前にしていたイギリス軍は攻撃を中止した。とはいえ翌月ギリシャに侵攻したドイツ軍を撃退できたわけでもなかった。ギリシャ国王ゲオルギオス2世はロンドンに亡命し、メタクサス独裁体制の後継政府も随行した。国王の軍隊はエジプトで一部再編制され、イギリス軍に近くから監視されながら戦った。一方で兵士たちは、多くの王党派将校たちを率いられる自分たちの地位に内心疑問を感じていた。
国内では、大きなレジスタンス組織が急速に成長していた。1941年9月に誕生した民族解放戦線(EAM)は諸都市で大規模デモを組織し、1942年の春には人民解放軍(ELAS)の指揮の下で地下組織をつくる活動に移った。同じ頃、イギリス特殊作戦執行部(SOE)の工作員たちは、一定の自律性を持って活動を展開していた。特殊作戦執行部とは、1940年にチャーチルが創設した組織で、その任務は被占領国のレジスタンス組織と手を組んで、妨害・破壊活動を敵の背後で行うことだった。特殊作戦執行部は、結果的にたいした成功は収められなかったものの、民族解放戦線に競合する組織への援助 ―あるいはその新設― に努めた。他党派のリーダーたちはレジスタンス活動にほとんど興味を示さなかった。しかし民族解放戦線-人民解放軍は、まだまだ軍事上とても無視できない主要組織だった。その代表者たちは1943年8月、イギリス軍が計画した軍事作戦への協力と引き換えに、亡命政府と協調関係を築くべくカイロへ赴いた。
この機会にイギリス軍は、民族解放戦線の重要性と大衆が抱く変革への期待の大きさを推し量った。 同じ頃、チャーチルはケベックでの「クワドラント会談(3)」(1943年8月17日~24日)でルーズヴェルトと会っていたが、連合軍のギリシャ上陸作戦の最後の望みが消え去るのを見ることとなった。一方、ソ連国境を越えた赤軍の前進はもはや疑いの余地はなかった。それからのチャーチルは物事を自ら処理し始め、側近のためらいを無視してまだ残されている交渉の可能性を全て凍結させ、民族解放戦線の代表者たちを帰国させた。そのとき彼が参謀本部あてに書いた文書の中身は「マナ計画」の素案となる。すなわちドイツ軍が撤退したらイギリス遠征部隊をギリシャへ派遣するという計画である。
その時からイギリス工作員の使命は、いかなる手段を用いてでも人民解放軍をつぶすこととなった。彼らはポンド金貨を使って人民解放軍のパルティザンを誘惑しようとした。1ポンドが200万ドラクマにまで達していた超インフレのこの時代には、説得力ある手段だった。ポンドを融通してもらう弱小競合組織の中には、「ナショナリスト」と自称しながら実際にはドイツ軍に加担している民兵も含まれていた。 イギリス工作員たちは、ギリシャ政府が組織した治安部隊ばかりでなく、対独協力政府にも息のかかった者たちを送り込んだ。こういった民兵たちはナチスの軍事行動に加担して殺戮や村々の焼き討ちを繰り返した。都市では場末の「ブロコ(4)」に仲間入りして深夜に地区を包囲し、覆面密告者にパルティザンを突き止めさせ、見つけ次第銃殺した。イギリス軍のこの二重作戦により、民兵のリーダーは、自分たちはイギリス軍と国王軍双方に従っている、と考えるようになった。1943~44年の冬に内戦の種を蒔いたのはまさにこのような作戦だったのだ。
そうしている間、民族解放戦線-人民解放軍はギリシャの大部分を解放することに成功していた。人民主義的体制を整え、非国家的な国家をつくり上げた。彼らが1944年3月に「山岳政府(5)」を設置し選挙をおこなったとき、イギリスの不安は頂点に達した。こうした展開により、逆にエジプトにいるギリシャ軍は奮起し、直ちにレジスタンス組織に対し亡命政府と組織統一を行うよう要請した。チャーチルは非情な鎮圧でこれに応酬した。「反逆」分子はアフリカの収容所送りにし、護衛旅団を編成してギリシャに帰還する国王とイギリス軍に随行させた。
一方ギリシャでは、イギリスは民族解放戦線を軍事力で排除することができなかったので、政治的陰謀に望みをかけた。民族解放戦線-山岳政府の幹部はその種の手法にほとんど経験がなく、適切に対処できなかった。融和戦略と、右翼軍やイギリス軍の武力行使への危機感との狭間に立たされていた民族解放戦線の幹部は、1944年8月、念入りに準備されたレバノン会議で罠にかけられ、かなり躊躇したあと民族統一政府を受け入れた。民族解放戦線からはごく少数しか入閣しなかったこの内閣は、チャーチルの配下ゲオルギオス・パパンドレウ(2011年に辞任に追い込まれた同名の首相の祖父)が組閣したものだった。翌月には、民族解放戦線幹部は、このあとギリシャ到着予定のイギリス軍司令官ロナルド・スコービーの権限をも承認することとなった。
一年前に立てたマナ計画を実行に移す準備は万全だった。1944年9月、赤軍が圧倒的勢いでブルガリアに侵攻したため、ドイツ軍は、人民解放軍パルティザンの攻撃を受けつつ、ギリシャからの撤退を余儀なくされた。ドイツ軍の退却後、イギリス遠征軍がパパンドレウ、スコービーとともにギリシャに到着した。10月18日にアテネに腰を落ち着けたこの2人は人民解放軍に武装解除を要求した。だが、自分たちがエジプトで組織し11月始めに首尾よく帰還させた護衛旅団の武装解除は拒んだ。ドイツ軍協力者は厳しい非難を受けることもなく、右派民兵はアテネ市街を自由に動き回ってレジスタンスを迫害した。治安部隊の兵士たちは兵舎に閉じ込もったが、快適な生活環境と規則的な訓練を享受していた。民族解放戦線から入閣した大臣たちは安全の保証を取りつけようと11月一杯ねばったあげく、全員辞職した。12月3日、シンタグマ広場で巨大なデモが催され、参加者たちはパパンドレウの辞任と新政府の設置を要求した。その直後、殺戮が起きた。警察が無防備な市民に銃口を向け、約20人の死者と100人以上の負傷者を出した。これがアテネ市民による蜂起の引き金となり、この蜂起こそがチャーチルが探しあぐねていたレジスタンスつぶしの口実となった。
そこでチャーチルは反逆者たちを撃破するようスコービーに命令した。次第に数を増す武器、航空機、軍隊(7万5千人にまで)が、イタリア戦線から呼び集められた。民族解放戦線の交渉案は拒絶された。「目標は明らかだ。民族解放戦線を打ち負かす。戦闘の中止は相手の出方次第だ。(中略)今必要なもの、それは強靭な精神であり、冷静さであり、拙速な友好関係ではない。本来の争いは片づいていないのだ(6)」と、チャーチルは騒然とした議場で議員たちが、そしてイギリス内外の新聞記者が浴びせる厳しい質問を無視し自説に固執した。
アテネとピレウスの民族解放戦線パルティザンは、武器も食糧も不十分で、大多数を若者が占め、火の雨をかいくぐり、イギリス軍と ―これを機会に兵舎の外に出て再武装した治安部隊の隊員とも― 対峙し、33日間持ちこたえた。12月末、チャーチルは自らアテネに飛び交渉の席についた。まだロンドンに亡命中の国王ゲオルギオス2世に、摂政を付けることをやむなく受け入れることになった。だが、民族解放戦線が要求する他の条件に関しては、チャーチルは頑なに譲らなかった。
その他の地域には人民解放軍が残っていたにもかかわらず、幹部たちは、疲労と飢えに苦しむ大衆に新たな苦難を強いるのでは、と危惧した。というのも、1770の村が焼き払われて100万人以上が家を失い、穀物生産量が40%減少したからだ。連合軍からの援助は連合軍協力者にしか届かなかった。1945年2月12日に結ばれたヴァルキザ協定により、人民解放軍側だけが武装解除を受け入れた。同じ日チャーチルはルーズヴェルト、スターリンとヤルタで会談し、自由ヨーロッパの「全ての人々が自らの政府の形態を選択する権利」を厳粛に宣言していた。
しかし、民族解放戦線はまだ根絶されていなかった。根本からの改革という目的をひたすら合法的に追い続け、選挙では多数票を獲得できる位置にあった。1945年7月にチャーチルと政権交代した労働党政府は民族解放戦線を脅威とみなし、引き続き占領地派遣部隊を重視した。そして、レジスタンス殺しに協力した男たち ―中でも、イギリス軍派遣隊の世話で再編成された警察と軍隊― を頼みの綱とした。民族解放戦線のパルティザンたちは地方で逮捕されて有罪判決を受け、未曾有のテロを受けた。
この状況の中で公正な選挙は不可能だったが、そんなことは差し障りにならない。英国外相アーネスト・ベヴィンが、国連でも恥ずかしくない立派な体面をこの国に付与しようと考え、選挙を1946年3月に行うよう命じたのだ。民族解放戦線と民主派はボイコットした。が、この結果、必然的に生じた右派の多数派は、同年9月国王の復帰を承認する国民投票を受け入れるだけだった。
このようにしてイギリスの目的は達成された。しかし、この間に多くの元パルティザンが再び山岳地帯に逃げこみ迫害から免れた。イギリスは、それまで無理やり支えてきた右派の存続を ―ましてや勝利など― もはや確信できなくなった。アメリカ大統領ハリー・トルーマンがこの重責を引継ぎ、1947年3月12日に議会に対し、「共産主義封じ込め」の前衛部隊となっているギリシャを「援助」するのに必要な予算を請求した。
イギリス軍は、レジスタンス組織をつぶそうとしてギリシャを内戦に陥れた。しかし、メンバーたちは公然とあるいは山間部に身を隠しながら活動を続け、その後30年間を ―1963~65年の一時的好転も含め― 持ちこたえたのだ。内戦は軍部独裁が崩壊した1974年にようやく終結した。この《アテネの災難》で思うのは、現代のギリシャはその歴史において非常に制限された主権しか持たなかったということ、そのことで同国は今なお制限主権の悲痛な経験をしている、ということだ。
[注]
(1)Joelle Fontaine : De la Resistance a la guerre civile en Grece, 1941-1946, La Fabrique, Paris, 2012.(『ギリシャにおけるレジスタンス運動ー内戦時代 1941-1946』2012年)の著者
(2) Winston Churchill, Memoires sur la seconde guerre mondiale, Plon, Paris, 1948-1954.(ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』1948-1954年)(原著:Winston Churchill, The Second World War (six volumes), Houghton Mifflin, Boston, 1948-1954.[訳注])
(3) ケベック会談のコードネーム[訳注]
(4) 未詳
(5) 山岳地域に設けられた共産主義者主導の民族解放暫定委員会[訳注]
(6) 注(2)に同じ
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年7月号)
All rights reserved, 2012, Le Monde diplomatique +Emmanuel Bonavita + Sengoku Aiko + Ishiki Takaharu」
「われわれはアテネを掌握し、支配しなければならない」
ジョエル・フォンテーヌ(1)
訳:仙石愛子
経済危機がギリシャに昔の記憶を蘇らせた。まず、ドイツ軍に占領され、破壊され、略奪された第二次世界大戦の暗い記憶。次に、同盟国に干渉された年の記憶。イギリスが各地のレジスタンス組織をつぶし、極右民兵と手を組んだ1944年の記憶である。英国はギリシャが極右支配をくつがえそうとするのを許さなかった。[フランス語版編集部]
« 原 文 »
「諸君の責務は首都の治安維持である。アテネに接近中の民族解放戦線-人民解放軍(EAM-ELAS)の全部隊を中立化させるかつぶすかしなければならない。確実に街を統制でき、撹乱者の全組織を包囲できるよう、必要なあらゆる対策をとることだ。(中略)最も好ましいのは、当然のことながら諸君の命令が、なんらかのギリシャの政府によって承認されているということである。(中略)万一、征服した地域で暴動が起きたとしても、諸君には毅然として行動してほしい。(中略)われわれはアテネを掌握し、支配しなければならないのだ。流血なしにそうできれば、それが最善だろう。だが、流血が避けられない場合もあるかもしれない。(2)」
この訓示を書いたのはイギリス首相ウィンストン・チャーチルその人である。時は1944年12月。ナチス・ドイツ軍はまだ連合軍に抵抗していた。イタリアで動きがとれなくなり、ドイツ軍の最終反撃にあった連合軍は、アルデンヌへ撤退した。しかし、その頃チャーチルが敵視していたのは、対独協力派「軍団」ではなく、大組織「民族解放戦線」のパルティザンだった。このグループは3年にわたり大規模なレジスタンス活動でドイツ占領軍に抵抗してきた。
19世紀の間、東地中海地域はイギリスとロシアの対立の中心地だった。1917年11月のボリシェヴィキ革命でロシア帝政の野望に終止符が打たれ、1940年代初頭には、この地域はイギリスの揺るぎない影響下に置かれた。その中でギリシャは戦略上の要衝を占めていた。
この国におけるレジスタンス活動は極めて急速に発展し、共産主義者や社会主義的傾向のある小党が手を結んだので、イギリス外務省は不安感を覚えていた。イギリスが恐れていたのは、「ロシア」が地中海地域へ侵攻してくることだった。ギリシャの王政は、人民に嫌悪され、イオアニス・メタクサス将軍(在任1936-1941年)率いる独裁政権と結びついていた。しかしチャーチルには、そういった君主制だけがイギリスの支配を保証しているように思われた。
イギリスの同盟諸国は、この件に関してはチャーチルに自由にやらせていた。ウィルソン外交の伝統を無視していたアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは、各国が影響圏をもち、特にそれによってアメリカの商品や資本の流通が妨害されることに、表向きは反対しながらも、実際にはチャーチルを支持した。スターリンはといえば、彼は何よりもまず戦争の終結を望んでおり、米英との不安定な「大同盟」を確固たるものにしたかった。彼は、1944年5月という早い時期からバルカン半島調停の会談をチャーチルに要請され、ルーマニアとブルガリアを掌握してよいとほのめかされると、いとも簡単にそれを受け入れた。
戦争期間中、ギリシャはチャーチルにとって「悩みの種」だった。すでに1941年3月にはドイツのバルカン半島への脅威が現実味を増したので、彼は近東の司令部に命令して5万の兵をギリシャに派遣した。この命令により、リビアで勝利を目前にしていたイギリス軍は攻撃を中止した。とはいえ翌月ギリシャに侵攻したドイツ軍を撃退できたわけでもなかった。ギリシャ国王ゲオルギオス2世はロンドンに亡命し、メタクサス独裁体制の後継政府も随行した。国王の軍隊はエジプトで一部再編制され、イギリス軍に近くから監視されながら戦った。一方で兵士たちは、多くの王党派将校たちを率いられる自分たちの地位に内心疑問を感じていた。
国内では、大きなレジスタンス組織が急速に成長していた。1941年9月に誕生した民族解放戦線(EAM)は諸都市で大規模デモを組織し、1942年の春には人民解放軍(ELAS)の指揮の下で地下組織をつくる活動に移った。同じ頃、イギリス特殊作戦執行部(SOE)の工作員たちは、一定の自律性を持って活動を展開していた。特殊作戦執行部とは、1940年にチャーチルが創設した組織で、その任務は被占領国のレジスタンス組織と手を組んで、妨害・破壊活動を敵の背後で行うことだった。特殊作戦執行部は、結果的にたいした成功は収められなかったものの、民族解放戦線に競合する組織への援助 ―あるいはその新設― に努めた。他党派のリーダーたちはレジスタンス活動にほとんど興味を示さなかった。しかし民族解放戦線-人民解放軍は、まだまだ軍事上とても無視できない主要組織だった。その代表者たちは1943年8月、イギリス軍が計画した軍事作戦への協力と引き換えに、亡命政府と協調関係を築くべくカイロへ赴いた。
この機会にイギリス軍は、民族解放戦線の重要性と大衆が抱く変革への期待の大きさを推し量った。 同じ頃、チャーチルはケベックでの「クワドラント会談(3)」(1943年8月17日~24日)でルーズヴェルトと会っていたが、連合軍のギリシャ上陸作戦の最後の望みが消え去るのを見ることとなった。一方、ソ連国境を越えた赤軍の前進はもはや疑いの余地はなかった。それからのチャーチルは物事を自ら処理し始め、側近のためらいを無視してまだ残されている交渉の可能性を全て凍結させ、民族解放戦線の代表者たちを帰国させた。そのとき彼が参謀本部あてに書いた文書の中身は「マナ計画」の素案となる。すなわちドイツ軍が撤退したらイギリス遠征部隊をギリシャへ派遣するという計画である。
その時からイギリス工作員の使命は、いかなる手段を用いてでも人民解放軍をつぶすこととなった。彼らはポンド金貨を使って人民解放軍のパルティザンを誘惑しようとした。1ポンドが200万ドラクマにまで達していた超インフレのこの時代には、説得力ある手段だった。ポンドを融通してもらう弱小競合組織の中には、「ナショナリスト」と自称しながら実際にはドイツ軍に加担している民兵も含まれていた。 イギリス工作員たちは、ギリシャ政府が組織した治安部隊ばかりでなく、対独協力政府にも息のかかった者たちを送り込んだ。こういった民兵たちはナチスの軍事行動に加担して殺戮や村々の焼き討ちを繰り返した。都市では場末の「ブロコ(4)」に仲間入りして深夜に地区を包囲し、覆面密告者にパルティザンを突き止めさせ、見つけ次第銃殺した。イギリス軍のこの二重作戦により、民兵のリーダーは、自分たちはイギリス軍と国王軍双方に従っている、と考えるようになった。1943~44年の冬に内戦の種を蒔いたのはまさにこのような作戦だったのだ。
そうしている間、民族解放戦線-人民解放軍はギリシャの大部分を解放することに成功していた。人民主義的体制を整え、非国家的な国家をつくり上げた。彼らが1944年3月に「山岳政府(5)」を設置し選挙をおこなったとき、イギリスの不安は頂点に達した。こうした展開により、逆にエジプトにいるギリシャ軍は奮起し、直ちにレジスタンス組織に対し亡命政府と組織統一を行うよう要請した。チャーチルは非情な鎮圧でこれに応酬した。「反逆」分子はアフリカの収容所送りにし、護衛旅団を編成してギリシャに帰還する国王とイギリス軍に随行させた。
一方ギリシャでは、イギリスは民族解放戦線を軍事力で排除することができなかったので、政治的陰謀に望みをかけた。民族解放戦線-山岳政府の幹部はその種の手法にほとんど経験がなく、適切に対処できなかった。融和戦略と、右翼軍やイギリス軍の武力行使への危機感との狭間に立たされていた民族解放戦線の幹部は、1944年8月、念入りに準備されたレバノン会議で罠にかけられ、かなり躊躇したあと民族統一政府を受け入れた。民族解放戦線からはごく少数しか入閣しなかったこの内閣は、チャーチルの配下ゲオルギオス・パパンドレウ(2011年に辞任に追い込まれた同名の首相の祖父)が組閣したものだった。翌月には、民族解放戦線幹部は、このあとギリシャ到着予定のイギリス軍司令官ロナルド・スコービーの権限をも承認することとなった。
一年前に立てたマナ計画を実行に移す準備は万全だった。1944年9月、赤軍が圧倒的勢いでブルガリアに侵攻したため、ドイツ軍は、人民解放軍パルティザンの攻撃を受けつつ、ギリシャからの撤退を余儀なくされた。ドイツ軍の退却後、イギリス遠征軍がパパンドレウ、スコービーとともにギリシャに到着した。10月18日にアテネに腰を落ち着けたこの2人は人民解放軍に武装解除を要求した。だが、自分たちがエジプトで組織し11月始めに首尾よく帰還させた護衛旅団の武装解除は拒んだ。ドイツ軍協力者は厳しい非難を受けることもなく、右派民兵はアテネ市街を自由に動き回ってレジスタンスを迫害した。治安部隊の兵士たちは兵舎に閉じ込もったが、快適な生活環境と規則的な訓練を享受していた。民族解放戦線から入閣した大臣たちは安全の保証を取りつけようと11月一杯ねばったあげく、全員辞職した。12月3日、シンタグマ広場で巨大なデモが催され、参加者たちはパパンドレウの辞任と新政府の設置を要求した。その直後、殺戮が起きた。警察が無防備な市民に銃口を向け、約20人の死者と100人以上の負傷者を出した。これがアテネ市民による蜂起の引き金となり、この蜂起こそがチャーチルが探しあぐねていたレジスタンスつぶしの口実となった。
そこでチャーチルは反逆者たちを撃破するようスコービーに命令した。次第に数を増す武器、航空機、軍隊(7万5千人にまで)が、イタリア戦線から呼び集められた。民族解放戦線の交渉案は拒絶された。「目標は明らかだ。民族解放戦線を打ち負かす。戦闘の中止は相手の出方次第だ。(中略)今必要なもの、それは強靭な精神であり、冷静さであり、拙速な友好関係ではない。本来の争いは片づいていないのだ(6)」と、チャーチルは騒然とした議場で議員たちが、そしてイギリス内外の新聞記者が浴びせる厳しい質問を無視し自説に固執した。
アテネとピレウスの民族解放戦線パルティザンは、武器も食糧も不十分で、大多数を若者が占め、火の雨をかいくぐり、イギリス軍と ―これを機会に兵舎の外に出て再武装した治安部隊の隊員とも― 対峙し、33日間持ちこたえた。12月末、チャーチルは自らアテネに飛び交渉の席についた。まだロンドンに亡命中の国王ゲオルギオス2世に、摂政を付けることをやむなく受け入れることになった。だが、民族解放戦線が要求する他の条件に関しては、チャーチルは頑なに譲らなかった。
その他の地域には人民解放軍が残っていたにもかかわらず、幹部たちは、疲労と飢えに苦しむ大衆に新たな苦難を強いるのでは、と危惧した。というのも、1770の村が焼き払われて100万人以上が家を失い、穀物生産量が40%減少したからだ。連合軍からの援助は連合軍協力者にしか届かなかった。1945年2月12日に結ばれたヴァルキザ協定により、人民解放軍側だけが武装解除を受け入れた。同じ日チャーチルはルーズヴェルト、スターリンとヤルタで会談し、自由ヨーロッパの「全ての人々が自らの政府の形態を選択する権利」を厳粛に宣言していた。
しかし、民族解放戦線はまだ根絶されていなかった。根本からの改革という目的をひたすら合法的に追い続け、選挙では多数票を獲得できる位置にあった。1945年7月にチャーチルと政権交代した労働党政府は民族解放戦線を脅威とみなし、引き続き占領地派遣部隊を重視した。そして、レジスタンス殺しに協力した男たち ―中でも、イギリス軍派遣隊の世話で再編成された警察と軍隊― を頼みの綱とした。民族解放戦線のパルティザンたちは地方で逮捕されて有罪判決を受け、未曾有のテロを受けた。
この状況の中で公正な選挙は不可能だったが、そんなことは差し障りにならない。英国外相アーネスト・ベヴィンが、国連でも恥ずかしくない立派な体面をこの国に付与しようと考え、選挙を1946年3月に行うよう命じたのだ。民族解放戦線と民主派はボイコットした。が、この結果、必然的に生じた右派の多数派は、同年9月国王の復帰を承認する国民投票を受け入れるだけだった。
このようにしてイギリスの目的は達成された。しかし、この間に多くの元パルティザンが再び山岳地帯に逃げこみ迫害から免れた。イギリスは、それまで無理やり支えてきた右派の存続を ―ましてや勝利など― もはや確信できなくなった。アメリカ大統領ハリー・トルーマンがこの重責を引継ぎ、1947年3月12日に議会に対し、「共産主義封じ込め」の前衛部隊となっているギリシャを「援助」するのに必要な予算を請求した。
イギリス軍は、レジスタンス組織をつぶそうとしてギリシャを内戦に陥れた。しかし、メンバーたちは公然とあるいは山間部に身を隠しながら活動を続け、その後30年間を ―1963~65年の一時的好転も含め― 持ちこたえたのだ。内戦は軍部独裁が崩壊した1974年にようやく終結した。この《アテネの災難》で思うのは、現代のギリシャはその歴史において非常に制限された主権しか持たなかったということ、そのことで同国は今なお制限主権の悲痛な経験をしている、ということだ。
[注]
(1)Joelle Fontaine : De la Resistance a la guerre civile en Grece, 1941-1946, La Fabrique, Paris, 2012.(『ギリシャにおけるレジスタンス運動ー内戦時代 1941-1946』2012年)の著者
(2) Winston Churchill, Memoires sur la seconde guerre mondiale, Plon, Paris, 1948-1954.(ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』1948-1954年)(原著:Winston Churchill, The Second World War (six volumes), Houghton Mifflin, Boston, 1948-1954.[訳注])
(3) ケベック会談のコードネーム[訳注]
(4) 未詳
(5) 山岳地域に設けられた共産主義者主導の民族解放暫定委員会[訳注]
(6) 注(2)に同じ
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年7月号)
All rights reserved, 2012, Le Monde diplomatique +Emmanuel Bonavita + Sengoku Aiko + Ishiki Takaharu」