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ギリシャ現代史 1 ル・モンド・ディプロマティークより

2012-10-12 16:31:27 | EU
「1944年、ギリシャのレジスタンス運動をつぶしたチャーチル

「われわれはアテネを掌握し、支配しなければならない」

ジョエル・フォンテーヌ(1)

訳:仙石愛子

 経済危機がギリシャに昔の記憶を蘇らせた。まず、ドイツ軍に占領され、破壊され、略奪された第二次世界大戦の暗い記憶。次に、同盟国に干渉された年の記憶。イギリスが各地のレジスタンス組織をつぶし、極右民兵と手を組んだ1944年の記憶である。英国はギリシャが極右支配をくつがえそうとするのを許さなかった。[フランス語版編集部]
« 原 文 »

 
「諸君の責務は首都の治安維持である。アテネに接近中の民族解放戦線-人民解放軍(EAM-ELAS)の全部隊を中立化させるかつぶすかしなければならない。確実に街を統制でき、撹乱者の全組織を包囲できるよう、必要なあらゆる対策をとることだ。(中略)最も好ましいのは、当然のことながら諸君の命令が、なんらかのギリシャの政府によって承認されているということである。(中略)万一、征服した地域で暴動が起きたとしても、諸君には毅然として行動してほしい。(中略)われわれはアテネを掌握し、支配しなければならないのだ。流血なしにそうできれば、それが最善だろう。だが、流血が避けられない場合もあるかもしれない。(2)」

この訓示を書いたのはイギリス首相ウィンストン・チャーチルその人である。時は1944年12月。ナチス・ドイツ軍はまだ連合軍に抵抗していた。イタリアで動きがとれなくなり、ドイツ軍の最終反撃にあった連合軍は、アルデンヌへ撤退した。しかし、その頃チャーチルが敵視していたのは、対独協力派「軍団」ではなく、大組織「民族解放戦線」のパルティザンだった。このグループは3年にわたり大規模なレジスタンス活動でドイツ占領軍に抵抗してきた。

19世紀の間、東地中海地域はイギリスとロシアの対立の中心地だった。1917年11月のボリシェヴィキ革命でロシア帝政の野望に終止符が打たれ、1940年代初頭には、この地域はイギリスの揺るぎない影響下に置かれた。その中でギリシャは戦略上の要衝を占めていた。
この国におけるレジスタンス活動は極めて急速に発展し、共産主義者や社会主義的傾向のある小党が手を結んだので、イギリス外務省は不安感を覚えていた。イギリスが恐れていたのは、「ロシア」が地中海地域へ侵攻してくることだった。ギリシャの王政は、人民に嫌悪され、イオアニス・メタクサス将軍(在任1936-1941年)率いる独裁政権と結びついていた。しかしチャーチルには、そういった君主制だけがイギリスの支配を保証しているように思われた。

イギリスの同盟諸国は、この件に関してはチャーチルに自由にやらせていた。ウィルソン外交の伝統を無視していたアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトは、各国が影響圏をもち、特にそれによってアメリカの商品や資本の流通が妨害されることに、表向きは反対しながらも、実際にはチャーチルを支持した。スターリンはといえば、彼は何よりもまず戦争の終結を望んでおり、米英との不安定な「大同盟」を確固たるものにしたかった。彼は、1944年5月という早い時期からバルカン半島調停の会談をチャーチルに要請され、ルーマニアとブルガリアを掌握してよいとほのめかされると、いとも簡単にそれを受け入れた。
戦争期間中、ギリシャはチャーチルにとって「悩みの種」だった。すでに1941年3月にはドイツのバルカン半島への脅威が現実味を増したので、彼は近東の司令部に命令して5万の兵をギリシャに派遣した。この命令により、リビアで勝利を目前にしていたイギリス軍は攻撃を中止した。とはいえ翌月ギリシャに侵攻したドイツ軍を撃退できたわけでもなかった。ギリシャ国王ゲオルギオス2世はロンドンに亡命し、メタクサス独裁体制の後継政府も随行した。国王の軍隊はエジプトで一部再編制され、イギリス軍に近くから監視されながら戦った。一方で兵士たちは、多くの王党派将校たちを率いられる自分たちの地位に内心疑問を感じていた。

国内では、大きなレジスタンス組織が急速に成長していた。1941年9月に誕生した民族解放戦線(EAM)は諸都市で大規模デモを組織し、1942年の春には人民解放軍(ELAS)の指揮の下で地下組織をつくる活動に移った。同じ頃、イギリス特殊作戦執行部(SOE)の工作員たちは、一定の自律性を持って活動を展開していた。特殊作戦執行部とは、1940年にチャーチルが創設した組織で、その任務は被占領国のレジスタンス組織と手を組んで、妨害・破壊活動を敵の背後で行うことだった。特殊作戦執行部は、結果的にたいした成功は収められなかったものの、民族解放戦線に競合する組織への援助 ―あるいはその新設― に努めた。他党派のリーダーたちはレジスタンス活動にほとんど興味を示さなかった。しかし民族解放戦線-人民解放軍は、まだまだ軍事上とても無視できない主要組織だった。その代表者たちは1943年8月、イギリス軍が計画した軍事作戦への協力と引き換えに、亡命政府と協調関係を築くべくカイロへ赴いた。

この機会にイギリス軍は、民族解放戦線の重要性と大衆が抱く変革への期待の大きさを推し量った。 同じ頃、チャーチルはケベックでの「クワドラント会談(3)」(1943年8月17日~24日)でルーズヴェルトと会っていたが、連合軍のギリシャ上陸作戦の最後の望みが消え去るのを見ることとなった。一方、ソ連国境を越えた赤軍の前進はもはや疑いの余地はなかった。それからのチャーチルは物事を自ら処理し始め、側近のためらいを無視してまだ残されている交渉の可能性を全て凍結させ、民族解放戦線の代表者たちを帰国させた。そのとき彼が参謀本部あてに書いた文書の中身は「マナ計画」の素案となる。すなわちドイツ軍が撤退したらイギリス遠征部隊をギリシャへ派遣するという計画である。

その時からイギリス工作員の使命は、いかなる手段を用いてでも人民解放軍をつぶすこととなった。彼らはポンド金貨を使って人民解放軍のパルティザンを誘惑しようとした。1ポンドが200万ドラクマにまで達していた超インフレのこの時代には、説得力ある手段だった。ポンドを融通してもらう弱小競合組織の中には、「ナショナリスト」と自称しながら実際にはドイツ軍に加担している民兵も含まれていた。 イギリス工作員たちは、ギリシャ政府が組織した治安部隊ばかりでなく、対独協力政府にも息のかかった者たちを送り込んだ。こういった民兵たちはナチスの軍事行動に加担して殺戮や村々の焼き討ちを繰り返した。都市では場末の「ブロコ(4)」に仲間入りして深夜に地区を包囲し、覆面密告者にパルティザンを突き止めさせ、見つけ次第銃殺した。イギリス軍のこの二重作戦により、民兵のリーダーは、自分たちはイギリス軍と国王軍双方に従っている、と考えるようになった。1943~44年の冬に内戦の種を蒔いたのはまさにこのような作戦だったのだ。

そうしている間、民族解放戦線-人民解放軍はギリシャの大部分を解放することに成功していた。人民主義的体制を整え、非国家的な国家をつくり上げた。彼らが1944年3月に「山岳政府(5)」を設置し選挙をおこなったとき、イギリスの不安は頂点に達した。こうした展開により、逆にエジプトにいるギリシャ軍は奮起し、直ちにレジスタンス組織に対し亡命政府と組織統一を行うよう要請した。チャーチルは非情な鎮圧でこれに応酬した。「反逆」分子はアフリカの収容所送りにし、護衛旅団を編成してギリシャに帰還する国王とイギリス軍に随行させた。

一方ギリシャでは、イギリスは民族解放戦線を軍事力で排除することができなかったので、政治的陰謀に望みをかけた。民族解放戦線-山岳政府の幹部はその種の手法にほとんど経験がなく、適切に対処できなかった。融和戦略と、右翼軍やイギリス軍の武力行使への危機感との狭間に立たされていた民族解放戦線の幹部は、1944年8月、念入りに準備されたレバノン会議で罠にかけられ、かなり躊躇したあと民族統一政府を受け入れた。民族解放戦線からはごく少数しか入閣しなかったこの内閣は、チャーチルの配下ゲオルギオス・パパンドレウ(2011年に辞任に追い込まれた同名の首相の祖父)が組閣したものだった。翌月には、民族解放戦線幹部は、このあとギリシャ到着予定のイギリス軍司令官ロナルド・スコービーの権限をも承認することとなった。

一年前に立てたマナ計画を実行に移す準備は万全だった。1944年9月、赤軍が圧倒的勢いでブルガリアに侵攻したため、ドイツ軍は、人民解放軍パルティザンの攻撃を受けつつ、ギリシャからの撤退を余儀なくされた。ドイツ軍の退却後、イギリス遠征軍がパパンドレウ、スコービーとともにギリシャに到着した。10月18日にアテネに腰を落ち着けたこの2人は人民解放軍に武装解除を要求した。だが、自分たちがエジプトで組織し11月始めに首尾よく帰還させた護衛旅団の武装解除は拒んだ。ドイツ軍協力者は厳しい非難を受けることもなく、右派民兵はアテネ市街を自由に動き回ってレジスタンスを迫害した。治安部隊の兵士たちは兵舎に閉じ込もったが、快適な生活環境と規則的な訓練を享受していた。民族解放戦線から入閣した大臣たちは安全の保証を取りつけようと11月一杯ねばったあげく、全員辞職した。12月3日、シンタグマ広場で巨大なデモが催され、参加者たちはパパンドレウの辞任と新政府の設置を要求した。その直後、殺戮が起きた。警察が無防備な市民に銃口を向け、約20人の死者と100人以上の負傷者を出した。これがアテネ市民による蜂起の引き金となり、この蜂起こそがチャーチルが探しあぐねていたレジスタンスつぶしの口実となった。

そこでチャーチルは反逆者たちを撃破するようスコービーに命令した。次第に数を増す武器、航空機、軍隊(7万5千人にまで)が、イタリア戦線から呼び集められた。民族解放戦線の交渉案は拒絶された。「目標は明らかだ。民族解放戦線を打ち負かす。戦闘の中止は相手の出方次第だ。(中略)今必要なもの、それは強靭な精神であり、冷静さであり、拙速な友好関係ではない。本来の争いは片づいていないのだ(6)」と、チャーチルは騒然とした議場で議員たちが、そしてイギリス内外の新聞記者が浴びせる厳しい質問を無視し自説に固執した。

アテネとピレウスの民族解放戦線パルティザンは、武器も食糧も不十分で、大多数を若者が占め、火の雨をかいくぐり、イギリス軍と ―これを機会に兵舎の外に出て再武装した治安部隊の隊員とも― 対峙し、33日間持ちこたえた。12月末、チャーチルは自らアテネに飛び交渉の席についた。まだロンドンに亡命中の国王ゲオルギオス2世に、摂政を付けることをやむなく受け入れることになった。だが、民族解放戦線が要求する他の条件に関しては、チャーチルは頑なに譲らなかった。
その他の地域には人民解放軍が残っていたにもかかわらず、幹部たちは、疲労と飢えに苦しむ大衆に新たな苦難を強いるのでは、と危惧した。というのも、1770の村が焼き払われて100万人以上が家を失い、穀物生産量が40%減少したからだ。連合軍からの援助は連合軍協力者にしか届かなかった。1945年2月12日に結ばれたヴァルキザ協定により、人民解放軍側だけが武装解除を受け入れた。同じ日チャーチルはルーズヴェルト、スターリンとヤルタで会談し、自由ヨーロッパの「全ての人々が自らの政府の形態を選択する権利」を厳粛に宣言していた。

しかし、民族解放戦線はまだ根絶されていなかった。根本からの改革という目的をひたすら合法的に追い続け、選挙では多数票を獲得できる位置にあった。1945年7月にチャーチルと政権交代した労働党政府は民族解放戦線を脅威とみなし、引き続き占領地派遣部隊を重視した。そして、レジスタンス殺しに協力した男たち ―中でも、イギリス軍派遣隊の世話で再編成された警察と軍隊― を頼みの綱とした。民族解放戦線のパルティザンたちは地方で逮捕されて有罪判決を受け、未曾有のテロを受けた。
この状況の中で公正な選挙は不可能だったが、そんなことは差し障りにならない。英国外相アーネスト・ベヴィンが、国連でも恥ずかしくない立派な体面をこの国に付与しようと考え、選挙を1946年3月に行うよう命じたのだ。民族解放戦線と民主派はボイコットした。が、この結果、必然的に生じた右派の多数派は、同年9月国王の復帰を承認する国民投票を受け入れるだけだった。

このようにしてイギリスの目的は達成された。しかし、この間に多くの元パルティザンが再び山岳地帯に逃げこみ迫害から免れた。イギリスは、それまで無理やり支えてきた右派の存続を ―ましてや勝利など― もはや確信できなくなった。アメリカ大統領ハリー・トルーマンがこの重責を引継ぎ、1947年3月12日に議会に対し、「共産主義封じ込め」の前衛部隊となっているギリシャを「援助」するのに必要な予算を請求した。 

イギリス軍は、レジスタンス組織をつぶそうとしてギリシャを内戦に陥れた。しかし、メンバーたちは公然とあるいは山間部に身を隠しながら活動を続け、その後30年間を ―1963~65年の一時的好転も含め― 持ちこたえたのだ。内戦は軍部独裁が崩壊した1974年にようやく終結した。この《アテネの災難》で思うのは、現代のギリシャはその歴史において非常に制限された主権しか持たなかったということ、そのことで同国は今なお制限主権の悲痛な経験をしている、ということだ。

[注]
(1)Joelle Fontaine : De la Resistance a la guerre civile en Grece, 1941-1946, La Fabrique, Paris, 2012.(『ギリシャにおけるレジスタンス運動ー内戦時代 1941-1946』2012年)の著者
(2) Winston Churchill, Memoires sur la seconde guerre mondiale, Plon, Paris, 1948-1954.(ウィンストン・チャーチル『第二次世界大戦回顧録』1948-1954年)(原著:Winston Churchill, The Second World War (six volumes), Houghton Mifflin, Boston, 1948-1954.[訳注])
(3) ケベック会談のコードネーム[訳注]
(4) 未詳
(5) 山岳地域に設けられた共産主義者主導の民族解放暫定委員会[訳注]
(6) 注(2)に同じ
          

(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電 子版2012年7月号)
All rights reserved, 2012, Le Monde diplomatique +Emmanuel Bonavita + Sengoku Aiko + Ishiki Takaharu」

尖閣をめぐって/共産党の提言

2012-10-12 16:06:50 | アジア
「尖閣問題座談会

流れ変える志位「提言」


 日本政府が尖閣諸島について「領土問題は存在しない」と棒をのんだような対応で問題を深刻化させるなか、日本共産党の志位和夫委員長による「提言」(「外交交渉による尖閣諸島問題の解決を」)が反響を呼んでいます。「提言」をめぐって、外交問題の専門家と担当記者で話し合いました。


(写真)程永華駐日中国大使(右)と会談する志位和夫委員長=9月21日、中国大使館

(写真)尖閣諸島問題で志位「提言」などを報じる各紙
元外務省幹部「違和感ない」「そのとおり」

中国ウオッチャー、日本の「沈黙」に驚き

 A 志位「提言」を報じるメディアが相次いでいる。「毎日」1日付の編集委員コラム「風知草」は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」という政府見解について「マンネリは毒だ」と皮肉ったうえで、「政府見解の変更を求めている論客2人」として、志位氏と東郷和彦・元外務省条約局長を紹介した。NHKや民放番組でも、「提言」発表後、領土問題の存在を認めよとの発言が相次いでいた。9月30日のNHK日曜討論では志位氏のいない場だったが「提言」自体が話題になり、賛同の声があがった。

 D 「提言」を読んだ外務省元幹部は「全く違和感はない。日本政府が『問題は存在しない』との立場にとらわれているため、相手に主張することもできず、『自縄自縛(じじょうじばく)に陥っている』というのもそのとおりだ」と話していた。日中関係に深くかかわった別の元外交官も「論旨は理解できるし、そのとおりだ」といい、「一番の問題点は日本政府や政治家が話し合いをしないことだ」と指摘した。

他国からも反響

 B 中国問題の研究者やジャーナリストなど中国ウオッチャーと志位「提言」を議論する機会があったが、彼らが一番驚いたのは、外務省が尖閣領有の正当性について一貫して議論を避けてきたこと、あまりにもひどいやられっ放しという現状だった。米国をよく知る識者も「中国の外交官が米国に猛烈な働きかけをしているのに、日本外交が沈黙している」と語り、「領土問題は存在しない」との立場がその原因となっており、事態の打開のためにはその立場を変えて対話するしかないとのべていた。

 A 東郷氏も近著で「私の承知する限り、政府間で尖閣の帰属をめぐって、これまできちんとした交渉や話し合いが行われたことはない」と断言している。(『日本の領土問題』)

 C 「提言」は140カ国の大使館と外国報道機関にも届けた。米国のある外交官は「論理が面白い」と評価。日中間で問題を「棚上げ」することで合意していたことについて、「“棚上げ”は異なる主張の存在を認めたことになるのに、問題が存在しないというのは矛盾だ」とのべていた。

 E 中国でも「領土論争を認めた最初の政党」「対話の窓口を開けと主張」などと大きく報じられた。

打開の方向提起

 B 志位「提言」が反響を呼んでいるのは、やはり日本外交不在の実態が明らかになるもとで、打開の方向をずばり指し示したためだと思う。同時に、いまの緊張をつくりだした日本外交の問題点が、「領土問題は存在しない」という見解が生み出した自縄自縛にあるのだと提起したことにある。

 A いずれにしても、志位「提言」以後、世論の流れが変わってきたと思う。政財官界、メディアからそれぞれ、日本政府の見解をあらため交渉せよという声が出ている。戦後最大の危機といわれる日中関係を打開する重要な契機をつくりだしたと思う。


(写真)尖閣諸島。魚釣島(手前)と北小島、南小島、04年11月、穀田恵二衆院議員撮影

(写真)尖閣諸島での難破船救済に対する中華民国の感謝状
日本外交不在は「国有化」でも

読み違えた日本政府

 E 今回の「国有化」の経過をみても外交不在を感じる。4月に石原慎太郎都知事が尖閣購入計画を打ち上げ、政府も「国有化」を検討してきたというが、その間におこなわれた数回の首脳レベルの会談で説明した形跡はない。

 A 野田首相がはじめて「国有化」を表明したのは、日本が中国全面侵略を開始した「盧溝橋事件」(1937年)の7月7日。「国有化」を決定したのが、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で、中国の胡錦濤国家主席が“国有化はやめてほしい”と要請した2日後だった。

 D 「国有化」は必要だとしても、相手に徹底的に説明するなど交渉をつくさなければならなかった。

 B 日本外交の稚拙さは、以前からだが、ある大学教授は今回の尖閣「国有化」には二つの読み違えがあったと指摘する。一つは、「国有化」という概念について両国で大きな認識のギャップがあり、中国が「国有化」を抜本的な主権強化とみなしていることを読み違えたし、説得外交を放棄した。もう一つは、胡氏の重い言辞を一顧だにせず、2日後に閣議決定し、メンツをつぶしたことだ。これは日本人の想像を超える重さだという。

 C 思い出すのは、2年前の中国漁船が海上保安庁船舶に衝突した事件だ。当時、前原誠司国交相が「国内法で粛々と対処します」と繰り返した。これは外交上の問題なのに、国内法で済むと思っていることに中国側の怒りがそそがれた。

 A 今週号の『AERA』(10月8日)も、小泉外交で日中関係の基盤が危うくなり、この前原氏の対応で「日中間の『共通認識』が完全に崩壊した」と指摘している。

 B 結局、民主党政権になっても、自民党外交を引き継いできたことが問題だ。尖閣問題で「領土問題はない」とくり返し、思考停止に陥っている。前原氏も日本領土だから国内法でと単純に言ってしまったのだが、これは自民党政権でも言わなかったことだった。そういう意味では、胡氏の要請の受け止めにしても、ことがらの重要性を認識する外交センスがない。

成り立たない中国側の主張

歴史認識の欠如も深刻

 C 日本の外交不在というのは二つの問題がある。一つはアメリカの顔をみていれば済む範囲でしか外交をやってこなかったこと。もう一つは、過去の日本の侵略行為への真剣な反省にもとづく歴史認識がないことだ。今回の国連総会でも、中国外相が尖閣を日本が「盗み取った」という激しい言葉で非難し、日本政府が答弁権を使って反論したが、この反論がお粗末だった。

 B 中国側の主張の最大のポイントは、日清戦争(1894~95年)に乗じて、日本が奪い取ったという点にある。ところが、日本政府の反論は尖閣を日本領に編入したのは、日清戦争の講和条約(下関条約)の3カ月前だというだけのものだった。

 A ここでも、日本共産党は2年前の見解と今回の「提言」でずばり反論している。尖閣諸島は、日本が日清戦争で不当に奪取した中国の領域には入っておらず、中国側の主張は成り立たないということだ。

 B 日清戦争の講和条約である下関条約と関連する文書のなかに尖閣諸島は出てこない。ところが、日本政府は日清戦争が侵略戦争だという認識がないから、不当に奪った台湾と澎湖(ほうこ)列島と、そうでない尖閣諸島の違いをきっぱりと主張できない。

「無主の地」の「先占」明らか

 D 中国は、明代や清代にまでさかのぼって昔から中国の領土だったとも主張しているが…。

 C たしかに、いろいろな文書があり、中国は地図に載っているとか、地名をつけていたなどと主張している。しかし、それは領有権の権原の最初の一歩であっても十分ではない。領有を認めるためには、実効支配を証明することが必要だ。

 A 党見解が「中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住していたことを示す記録はなく、明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録も出ていない」と指摘していることだね。同時に、日本側にも領有を示す歴史的な文献はない。

 E だから、1895年の日本による尖閣編入は、どの国の支配も及んでいない「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたるわけだ。日清戦争に乗じて奪い取られたというが、もともと領有していたということを立証しなければ成り立たない議論だ。立証できない以上は、「無主の地」を「先占」したという日本の主張を否定できない。

 A それに、中国側の最大の弱点は、1895年に日本が尖閣諸島を編入してから、1970年までの75年間、一度も異議も抗議もしていないという事実だ。

 D 2年前に党見解が出たとき、防衛省防衛研究所の中国専門家に見せたら「こういう提言を出されたことに敬意を表する」といわれた。とくに高く評価していたのが、1919年に福建省の漁民が遭難したとき、当時の中華民国長崎駐在領事から届けられた感謝状に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と明記されていたことの紹介だった。

 C 一部に、「先占」といっても、帝国主義の論理ではないかという疑問も出ている。たしかに、「先占」の法理は、帝国主義の論理として使われてきた。しかし、第2次世界大戦後は他の国際法上の法理と同じく、「先占」も国連憲章の諸原則を踏まえることが当然の前提となっている。それに反するものは見直しの対象となり、植民地体制の崩壊にもつながる。無主の地の占有というその合理的な核心は現在でも有効だ。

 B いま中国は日本の尖閣領有の主張を「反ファシズム戦争の勝利を台無しにする」とまで、議論を広げているが、これも「日清戦争に乗じた奪取」論を精密に詰めていくと成り立たないからだと思う。問題は、にもかかわらず、日本側がなにも反論しないままで、中国が国連総会という場で日本側の行為を国連憲章の目的と原則を否定するものだとまでいわせてしまったことだ。まったくひどい日本「外交」の実態だ。

外交交渉の解決を提起

 A 先日、民放番組で、ある学者が「尖閣問題は武力衝突になるか、交渉による解決かしかない」といっていたが、戦後初めて日中間で「武力衝突」を想起させるほどの危機だという認識が必要だと思う。それだけに、「提言」が外交交渉による解決を提起したことの意味は大きい。

 E 印象的だったのは、「提言」が出されたとき、民主党と自民党の党首選がおこなわれていたが、9人の候補者は「毅然(きぜん)と対応する」「海上保安庁を強化する」「自衛隊の派遣も考える」と強硬策一辺倒だった。それに対して、こんな危機のときだからこそ、外交交渉で解決をという提起が新鮮だった。

 C その点で教訓的なのは東南アジア諸国連合(ASEAN)の対応だ。南シナ海で、中国との領有権紛争が緊張しているが、問題解決の枠組みとなる「南シナ海行動規範」をめぐる中国との外交交渉を途切らせていない。領土問題はすぐに解決するというわけにはいかないが、武力衝突を避けるうえでも外交交渉が保障になる。

 D 外務省の元幹部も、「いま交渉に乗り出すことが少なくとも現状をこれ以上悪化させない条件になる」と言っている。中国側が「争いを認めよ」と語っていることからしても、話し合いのテーブルを強く求めている。だからむしろ日本が交渉に舵(かじ)を切るチャンスだといっていた。

日中双方に自制求めた「提言」

相手も納得する対応を

 B 志位「提言」の大事なところは、日本と中国の双方に自制を求めていることだ。「物理的対応の強化や、軍事対応論は、両国・両国民にとって何の利益もなく、理性的な解決の道を閉ざす、危険な道」だとして、双方に自制をきびしく求めている。日本で軍事対応をあおる論調はさきほど指摘されたとおりだが、中国にもいろんな声があって、そのなかには軍事対応をあおる危ない声もあるからだ。

 E 志位氏は、中国大使への申し入れでも、率直に提起した。とくに中国の監視船が日本の領海内を航行することをくり返していること、中国の国防部長が平和的交渉による解決を希望するとしながら、「一段の行動をとる権利を留保する」とのべていることを指摘し、「冷静な外交的解決に逆行する」と自制を求めた。

 C 「提言」が最後にいっている「領土問題の解決は…相手国の国民世論をも納得させるような対応が必要」という指摘も大事だ。とくに、「日本軍国主義の侵略」だと考えている中国国民に対して、過去の侵略戦争に対する真剣な反省とともに、この問題をめぐる歴史的事実と国際法上の道理を冷静に説き、理解を得る努力が求められている。

 B 日中ともに国際社会での信頼感を損なっているという問題もある。いま、日本の国連常任理事国入りキャンペーンなど誰にも相手にされない状況だ。中国も大国になっていくにあたって近隣諸国からの信頼が非常に大事なことだ。双方ともそういうことに目を向けて、身近な国の信頼を得る包容力を求めたい。

 尖閣諸島 沖縄県石垣島の北西に位置する島嶼(とうしょ)群で、最も大きい魚釣島(中国名・釣魚島)の面積は、3.82平方キロ。日本政府は現地調査を通じて無主の地であることを確認した上で、1895年、日本の領土に編入。1945年の終戦後、米国の施政権下に置かれ、71年に日本に返還されました。60年代後半、尖閣諸島周辺海域の天然地下資源の存在が明らかとなって以降、中国は1971年12月の外交部声明で初めて領有権を主張し、日中間の懸案問題となりました。

「提言」のポイント

 日本共産党の志位和夫委員長が9月20日に藤村修官房長官に手渡した尖閣諸島問題に関わる日本共産党の見解と提案のポイントは以下の通り。

 ○…日本への批判を暴力で表す行動は、いかなる理由であれ許されない。物理的対応の強化や軍事的対応論は、日中双方とも厳しく自制すべきだ。

 ○…尖閣諸島の日本の領有は歴史的にも国際法上も正当である。

 (1) 日本の領有は「無主の地」の先占であり、国際法上正当な行為である。

 (2) 中国側の主張の最大の問題点は、75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議もおこなっていないということにある。

 (3) 尖閣諸島は日本が戦争で不当に奪取した中国の領域には入っていない。

 ○…「領土問題は存在しない」という立場をあらため、領土に関わる紛争問題が存在することを正面から認め、冷静で理性的な外交交渉によって、日本の領有の正当性を堂々と主張し解決をはかるという立場に立つべきだ。」