致神酔い
2019-04-12 | 雑記
二か月以上振りになったが、拙はまだ生きている。
というのも、二月に引っ越しをしてから、ネット開通でごたごたしてしまい、三月の半ばだったか、それくらいまで自宅ではネットに繋げない状態だった。
では、今は繋がっているのかというと、仮である。工事終了までの間、Wi-Fiの機器を貸し出すというのが最近の流行りらしく、それで繋いでいる。
自宅までが無線で、そこからLANケーブルで繋いでいる。速度は引っ越し前より少し遅くなったが、ネットゲーをやっていたらすぐ切断される、といった具合でもなく、おおむね問題なしといったところである。
前回は、弟が内定と上京を取り消そうか悩んで、あわや引っ越し自体がなくなりかねなくなった、というところで更新が中断されていた。
そんな話を気にしている人が何人いるか判らないが、冒頭の話の通り、引っ越しをして、もう二か月近く経つ。
とはいえ、その時弟に言った「現実がお前を作るんじゃない。お前が現実を作るのだ」をどう理解したかは、判らないというより、考えても仕方ないと思っている。
そこで、話のついでに、弟をどう評しているのか、という話をする。
以前も書いたかもしれないが、末の兄弟だから甘えん坊といったところである。
それに纏わる話もかつて書いたが、改めて書いておこうと思う。
子供のころ、弟は、車で出かけると、ちょくちょく気分が悪くなる。車酔いをするのである。今は判らない。
もしなるとして、運転してたら大丈夫なのかもしれないが、そこは知らない。母親は運転していたら酔わないと言っていたもので、そこは同じだろうと思われる。
さて。野口整体の創始者、野口晴哉がこう言っていた。
「まともな人は車酔いはしない。する人はどこか人に助けてもらうのが当たり前のところがある」と、『整体入門』にある。
拙は、車酔いをした覚えがない。もしあったとして、かなり小さい時はしていたかもしれない、というところだが、定かではない。
とはいうものの、野口整体なら、車酔いの抑え方はやる。
何故また思い出すことになったのかというと、別に今日に限った話ではないが、ここ数か月のやり取りで思い当たる節があったからである。
車酔いではない。その態度である。当たり前すぎて気が付かないのだろうが。
何の流れか忘れたが、弟がこう語っていた。
「日本が先進国なんて嘘だ。福祉やらがひどい状態だ」と。
そもそも、先進国という言葉自体が空疎なものなのだが、そういう話をしても仕方ない。
とある気功師の方の言葉を借りて、「ある意味、精神的には先進国なのだ」とは言ったが、これだけでは判らんし、詳しく説明するのも無理だったので、適度になだめておいたものである。
どこが?という人が大多数かと思うので、もう少し語る。
日本人ぐらいである。まったく別の宗派の宗教施設に同時に遊びに行けるのは。
ちっとも新聞にならない旧聞を垂れ流す新聞紙やらニュースでも流しているだろう。「宗派の違いでお互いを殺しあっている国や民族がある」と。
世の中、推しアイドルの違いで喧嘩している人もいるらしいが、あれも宗教であろう。本当にあるのかしらんが、それに似た話は何かにつけて出てくる。
話を戻す。
弟の上記のセリフは、つまり、「政府やら行政は自分を世話して当然だ」という態度なのである。
これも、大多数の人にとっては常識ではないのかと反論されるだろうが、常識もまた、とある民族やら地域の「教義」なのである。または、「神」だとかの、人の上にある何かといえる。
釈迦、もしくは初期仏教の、政府、当時は貴族だがに対する態度は、こうである。
「盗賊は非合法に人の金を盗むが、貴族は合法的に盗んでいく。積極的に応援するような存在ではない」と。
税金は取るのが目的である。搾り取ってその余りで福祉やらなんやらに還元した振りをしているだけである。
所詮はそんなもの。そういう存在が「お世話してあげます」なんぞと言ってくるのは、詐欺に違いないので、適当にあしらうのがよろしい。
たまには役立つ事もするが、カンダタが「仕事」の帰りに蜘蛛をたまたま殺さなかったのと大差ない。
「政府や国家がないと、人々は安寧に暮らすことは出来ない」というのもまた、「教義」である。その安寧は誰の安寧か、どこにも書いていない。
それ故、弟のああいう発言は、人に世話をしてもらうのが当然と考えているからだと、拙は評している。
とはいえ。拙も人のことはいえない。
もう八年経ったが、東北の大震災で、当時の東京もちょくちょく揺れた。
その時に話題になったもので、「地震酔い」というのがあった。余りにも感じる程の揺れが頻繁に来るが故に、三半規管が揺さぶられたのであろう。真っすぐ立っているつもりでも、フラフラしていたものである。
普段、車酔いしない人でも酔ってしまうものである。だが、政府はおろか、隣近所の人も肉親も、酔いを止めてはくれまいて。
その人の価値観だとか世界観というのは、その人の全てにおいて立ち現れる。
だから、「現実があなたを作るのではない。あなたが現実を作るのだ」と、伝えたのである。
車酔いをしない拙ではあるが、地震酔いは良い契機になったのだろうと考えている。
お前は自身に酔っておるのだろう?という月並みな発言は控えて頂く。
これは大地が鳴動することによって、己が神に触れたが故の酩酊である。人によっては車でもなるのである。
地震ではなく地神酔いであり、そしてタイトルの読みもまた「じしんよい」である。本来なら、ぢしん、と書いて変換できなければおかしいのだが、そこは措く。
補足だが、「精神」と書く。神と書くからといって、西洋から侵入してきた概念の「GOD」の訳語を思い浮かべては、足元をすくわれるので、ご注意を。
あれらも言っている。「信じる者はすくわれる」と。
では、よき終末を。
というのも、二月に引っ越しをしてから、ネット開通でごたごたしてしまい、三月の半ばだったか、それくらいまで自宅ではネットに繋げない状態だった。
では、今は繋がっているのかというと、仮である。工事終了までの間、Wi-Fiの機器を貸し出すというのが最近の流行りらしく、それで繋いでいる。
自宅までが無線で、そこからLANケーブルで繋いでいる。速度は引っ越し前より少し遅くなったが、ネットゲーをやっていたらすぐ切断される、といった具合でもなく、おおむね問題なしといったところである。
前回は、弟が内定と上京を取り消そうか悩んで、あわや引っ越し自体がなくなりかねなくなった、というところで更新が中断されていた。
そんな話を気にしている人が何人いるか判らないが、冒頭の話の通り、引っ越しをして、もう二か月近く経つ。
とはいえ、その時弟に言った「現実がお前を作るんじゃない。お前が現実を作るのだ」をどう理解したかは、判らないというより、考えても仕方ないと思っている。
そこで、話のついでに、弟をどう評しているのか、という話をする。
以前も書いたかもしれないが、末の兄弟だから甘えん坊といったところである。
それに纏わる話もかつて書いたが、改めて書いておこうと思う。
子供のころ、弟は、車で出かけると、ちょくちょく気分が悪くなる。車酔いをするのである。今は判らない。
もしなるとして、運転してたら大丈夫なのかもしれないが、そこは知らない。母親は運転していたら酔わないと言っていたもので、そこは同じだろうと思われる。
さて。野口整体の創始者、野口晴哉がこう言っていた。
「まともな人は車酔いはしない。する人はどこか人に助けてもらうのが当たり前のところがある」と、『整体入門』にある。
拙は、車酔いをした覚えがない。もしあったとして、かなり小さい時はしていたかもしれない、というところだが、定かではない。
とはいうものの、野口整体なら、車酔いの抑え方はやる。
何故また思い出すことになったのかというと、別に今日に限った話ではないが、ここ数か月のやり取りで思い当たる節があったからである。
車酔いではない。その態度である。当たり前すぎて気が付かないのだろうが。
何の流れか忘れたが、弟がこう語っていた。
「日本が先進国なんて嘘だ。福祉やらがひどい状態だ」と。
そもそも、先進国という言葉自体が空疎なものなのだが、そういう話をしても仕方ない。
とある気功師の方の言葉を借りて、「ある意味、精神的には先進国なのだ」とは言ったが、これだけでは判らんし、詳しく説明するのも無理だったので、適度になだめておいたものである。
どこが?という人が大多数かと思うので、もう少し語る。
日本人ぐらいである。まったく別の宗派の宗教施設に同時に遊びに行けるのは。
ちっとも新聞にならない旧聞を垂れ流す新聞紙やらニュースでも流しているだろう。「宗派の違いでお互いを殺しあっている国や民族がある」と。
世の中、推しアイドルの違いで喧嘩している人もいるらしいが、あれも宗教であろう。本当にあるのかしらんが、それに似た話は何かにつけて出てくる。
話を戻す。
弟の上記のセリフは、つまり、「政府やら行政は自分を世話して当然だ」という態度なのである。
これも、大多数の人にとっては常識ではないのかと反論されるだろうが、常識もまた、とある民族やら地域の「教義」なのである。または、「神」だとかの、人の上にある何かといえる。
釈迦、もしくは初期仏教の、政府、当時は貴族だがに対する態度は、こうである。
「盗賊は非合法に人の金を盗むが、貴族は合法的に盗んでいく。積極的に応援するような存在ではない」と。
税金は取るのが目的である。搾り取ってその余りで福祉やらなんやらに還元した振りをしているだけである。
所詮はそんなもの。そういう存在が「お世話してあげます」なんぞと言ってくるのは、詐欺に違いないので、適当にあしらうのがよろしい。
たまには役立つ事もするが、カンダタが「仕事」の帰りに蜘蛛をたまたま殺さなかったのと大差ない。
「政府や国家がないと、人々は安寧に暮らすことは出来ない」というのもまた、「教義」である。その安寧は誰の安寧か、どこにも書いていない。
それ故、弟のああいう発言は、人に世話をしてもらうのが当然と考えているからだと、拙は評している。
とはいえ。拙も人のことはいえない。
もう八年経ったが、東北の大震災で、当時の東京もちょくちょく揺れた。
その時に話題になったもので、「地震酔い」というのがあった。余りにも感じる程の揺れが頻繁に来るが故に、三半規管が揺さぶられたのであろう。真っすぐ立っているつもりでも、フラフラしていたものである。
普段、車酔いしない人でも酔ってしまうものである。だが、政府はおろか、隣近所の人も肉親も、酔いを止めてはくれまいて。
その人の価値観だとか世界観というのは、その人の全てにおいて立ち現れる。
だから、「現実があなたを作るのではない。あなたが現実を作るのだ」と、伝えたのである。
車酔いをしない拙ではあるが、地震酔いは良い契機になったのだろうと考えている。
お前は自身に酔っておるのだろう?という月並みな発言は控えて頂く。
これは大地が鳴動することによって、己が神に触れたが故の酩酊である。人によっては車でもなるのである。
地震ではなく地神酔いであり、そしてタイトルの読みもまた「じしんよい」である。本来なら、ぢしん、と書いて変換できなければおかしいのだが、そこは措く。
補足だが、「精神」と書く。神と書くからといって、西洋から侵入してきた概念の「GOD」の訳語を思い浮かべては、足元をすくわれるので、ご注意を。
あれらも言っている。「信じる者はすくわれる」と。
では、よき終末を。