しばらく、Facebookとやらで、どーでもいいことをツイッター代わりに書いたりしていた。
言っても詮無きことだが、こちらに長々と書く気が沸き起こらなかったからだ。まあ、書くような内容のことはない。
とはいいつつも、さて、このタイトル。
そうか、五百人か。いや、違う。
というわけで、以下、回想から始まる。
先月、あるお店で飲んでいた。後から来た客が、わしにこう尋ねてくる。大抵の人がまず聞いてくることである。
「なんで着物を着ようと思ったのだ?」と。
こちらも、いつも同じような答えをする。
書いたこともあるかもしれないが、簡単に。
子供のころに剣道をやっていて、大学時代は茶道を習い、その時、正式な和装というものに触れた。
幼少のころに触れた剣道の胴着とは似ていながらやはり違い(そりゃそうだが)、実に感動したものだった。
だから、今着て暮らすことにした。日本の気候にもあっているし、こちらのほうが着てて気持ちいいからだ。
と、その時も答えた。
茶道に触れた経緯をわき道に逸れて書き記しておく。
これもまた、子供のころだが、山本周五郎の『火の杯』という小説がある。
二人の主人公の視点で話が進んでいき、最終的に合流する(男女で、なんと最後は夫婦になる)、舞台は戦後の小説である。
その男のほうは、名前なんぞは覚えてないが、財閥だかの家柄。
同年代の他家の子息らがフェンシングにかぶれていたとき、「胴長短足の日本人に似合うものではない」と、一人剣道をやっていたり、皮肉屋というかなんというか。
それはともかく。
兄貴と同じ大学に同時に在学していた。
兄はビューグルバンドというのをやっていた。動き回って隊形を組みながらラッパを吹くアレである。
肉体労働である。陛下、肉体労働は苦手です、という陛下はいないが、兄のそばに居たくもない上に、やらされていた記憶しかない音楽。
多分、上記の『火の杯』が思い起こされたのだろう。人に誘われて茶道部の見学に行った後日、入部した。
と、いうわけである。おわり。いや、終わってない。
話しは戻って、話しかけられた場面に。
あちらが定型分なら、こちらも常套句である。これも大体「へー」で終わる。終わらなかったりするが、大体は「何で今?」が続いたりする。
そこは「数年前の地震の後でやけっぱちになった」という風に答える。やけっぱちになった、とはいわんが、やけっぱちに書けばそうなる。
こう返ってきた、というより、向こうはばっさり切って優位に立ちたかったのかもしれない。おっさんだったし。
「それじゃ理由が弱い」と。
理由が弱い?ならば問おう。スーツ着るのに一々理由付けしてるのかと。ジーパンにしろなんにしろだ。
クーラーがかかっているならまだしも、ひとたび外に出れば、ネクタイなんぞ拷問だろう。それを乗り越える理由があってそうしているのかと。
そのおっさんがネクタイしていたかは忘れた。
納得する理由を聞きたいものである。「日本では明治に、西洋式の正装を公式に設定したから」だとかいうなら、こちらも「弱い」と返すであろう。
会社にはスーツ着ていくのが決まりだから、でも以下同文である。
そこまですぐ思いついたわけではないので、「うーん?弱いですかねぇ」で終わった。
思い起こせば腹が立つので、一々弁明するかのような「子供のころに」から始まる常套句は投げ捨てようと思う。
これからは「見せびらかすために着ている」と、言うことにする。そういえばそうであった。
何やら長々と書こうとしたが、蛇足気味だったので、以下は省略した。では、また。
言っても詮無きことだが、こちらに長々と書く気が沸き起こらなかったからだ。まあ、書くような内容のことはない。
とはいいつつも、さて、このタイトル。
そうか、五百人か。いや、違う。
というわけで、以下、回想から始まる。
先月、あるお店で飲んでいた。後から来た客が、わしにこう尋ねてくる。大抵の人がまず聞いてくることである。
「なんで着物を着ようと思ったのだ?」と。
こちらも、いつも同じような答えをする。
書いたこともあるかもしれないが、簡単に。
子供のころに剣道をやっていて、大学時代は茶道を習い、その時、正式な和装というものに触れた。
幼少のころに触れた剣道の胴着とは似ていながらやはり違い(そりゃそうだが)、実に感動したものだった。
だから、今着て暮らすことにした。日本の気候にもあっているし、こちらのほうが着てて気持ちいいからだ。
と、その時も答えた。
茶道に触れた経緯をわき道に逸れて書き記しておく。
これもまた、子供のころだが、山本周五郎の『火の杯』という小説がある。
二人の主人公の視点で話が進んでいき、最終的に合流する(男女で、なんと最後は夫婦になる)、舞台は戦後の小説である。
その男のほうは、名前なんぞは覚えてないが、財閥だかの家柄。
同年代の他家の子息らがフェンシングにかぶれていたとき、「胴長短足の日本人に似合うものではない」と、一人剣道をやっていたり、皮肉屋というかなんというか。
それはともかく。
兄貴と同じ大学に同時に在学していた。
兄はビューグルバンドというのをやっていた。動き回って隊形を組みながらラッパを吹くアレである。
肉体労働である。陛下、肉体労働は苦手です、という陛下はいないが、兄のそばに居たくもない上に、やらされていた記憶しかない音楽。
多分、上記の『火の杯』が思い起こされたのだろう。人に誘われて茶道部の見学に行った後日、入部した。
と、いうわけである。おわり。いや、終わってない。
話しは戻って、話しかけられた場面に。
あちらが定型分なら、こちらも常套句である。これも大体「へー」で終わる。終わらなかったりするが、大体は「何で今?」が続いたりする。
そこは「数年前の地震の後でやけっぱちになった」という風に答える。やけっぱちになった、とはいわんが、やけっぱちに書けばそうなる。
こう返ってきた、というより、向こうはばっさり切って優位に立ちたかったのかもしれない。おっさんだったし。
「それじゃ理由が弱い」と。
理由が弱い?ならば問おう。スーツ着るのに一々理由付けしてるのかと。ジーパンにしろなんにしろだ。
クーラーがかかっているならまだしも、ひとたび外に出れば、ネクタイなんぞ拷問だろう。それを乗り越える理由があってそうしているのかと。
そのおっさんがネクタイしていたかは忘れた。
納得する理由を聞きたいものである。「日本では明治に、西洋式の正装を公式に設定したから」だとかいうなら、こちらも「弱い」と返すであろう。
会社にはスーツ着ていくのが決まりだから、でも以下同文である。
そこまですぐ思いついたわけではないので、「うーん?弱いですかねぇ」で終わった。
思い起こせば腹が立つので、一々弁明するかのような「子供のころに」から始まる常套句は投げ捨てようと思う。
これからは「見せびらかすために着ている」と、言うことにする。そういえばそうであった。
何やら長々と書こうとしたが、蛇足気味だったので、以下は省略した。では、また。