ウヰスキーのある風景

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走らない

2011-05-18 | 雑記
ニュースを見ていたら、なんだか聞いたことがあるようなないようなアフリカ系の人物の名前があり、死んだという。

病気か何かで死んだ、むかし、日本と縁のあった人かと思って開いてみたら、二十四歳のマラソンランナーの自殺だった。去年だったか、スポーツ番組で取り上げられていたような気がする。


その記事では詳細は触れていなかったが、簡単に「女性との関係で悩みがあった云々」とあったように記憶している。記憶で書くな、と突っ込む人はこんな僻地にはいないだろうが、こういう記事があったのだ。

二十四歳で・・・というと数日前にも一人、タレントが。


昔の作家か何かの言葉だろうか、高校の担任が「一度も死にたいと思わない人間はいない」ということを言っていた。正宗白鳥だったか「誰にもいえない秘密をまったく持たずに生きている人間は本当に生きた事がない」みたいな言葉を思い起こしたので、実は同じ人か影響を受けた人の言葉なのではなかろうかと考えたが、まったくもって証拠はない。いわゆる気のせいである。


話は戻るような戻らないような形へ。

そのマラソンランナーの知り合いは、自死のしばらく前に「世の中我慢だよ」という風になだめたりした事があったようだ。

また、件のタレントも前日だかに親元へ電話して、最初は死ぬ死ぬと言っていたようだ。(お母さんのところに行きたい、などと。母親は四月に亡くなっている)



と、何か書きかけたのだが、細かい事をやりだすと頭が痛くなってくる。というより風邪気味で頭が痛いようで、上記まで書いて寝てしまったのだった。

というわけで、当初と予定が違うが引き継いで書いていく。



人が自殺する時、状況は様々で一概にこうだとは言えないのだろうが、辞書の中にある言葉だと「諫死」というのがある。主君が諫めを聞かないがゆえ、死んでその諫めを聞かせようというものである。それだけ覚悟するというわけではある。主が暴君ならば、諫めた時点で殺される可能性もあるのだから、本来は諫める時点で死を覚悟しているから出来る、もしくはやろうとするのだともいえる。

江戸時代に儀式化した、日本の自殺には「切腹」がある。これが本当に腹切って死ぬとなるとかなり痛く、自力で絶命できた人はあまりいない。だから、大抵は介錯といって、後で首を斬りおとす役目が居る。日本史で最後に腹を切った著名人は三島由紀夫が最後だと思われる。


三島のは日本の状況を憂いた「諫死」だろう、と言われているが、某日本文学の教授が言うには、三島は「作家の死は犬死だ」と言っていたので、「作家」以外の姿を装って死ぬ必要があったのだ、みたいなことを言っていた。


三島の苦悩は一般の理解の範疇を超える。と、いったが上の二人が理解できるのかというとなんともいえない。


ただ、三島も死ぬ直前は得も言われぬ不安を抱えていたようだ。不安なんて誰にだってあるんじゃないか?という、がまさにその通り。



以前、とある本の受け売りでしゃべったり書いたかもしれないが(誰も知らないのと同義)、不安とはなんなのかと。

不安とは、「見えないものを見ようとする欲望の裏返し」といえる。「杞憂」の起源と同じ状態である。杞氏が毎日、「空が落ちてくるんじゃないか」と憂いていた、という所から来たと聞く。


げーのーかいで仕事がなくなってきたどうなるか不安だ、恋人との状態がよくない不安だ。正直、誰にも分からない。機械的で近日的な予測で足りる事は「分かる」だろう。

が、人の気持ちといった形のあるようなないようなものに無理やり形を与えて安心しようとし続けたら、いずれ破綻する。

自分の気持ちとやらも、周りの係わり合いで雑多に形を変えて現れるものである。これが私の本音です、というのも実際はない。

中身が伴ってない(というより決め付けていた)のに外側を作り上げたらどうなるか。大きな町ならゴーストタウンになる。あたかも動物の居ない森林のように、中身は腐るだろう。かろうじて森には見える程度で。


かくして「欲望」を燃やして走ろうとしたら、エンストを起こしてしまった。走るときにゴールした時のことを考えるのだろうか。想像はするかもしれないが、今、ここで、足をつけている、このコースを、どう走っていくか、しかないのだから。


釈迦は「とらわれをなくすこと」が正しい生き方だ、といった(ここで間違われるのが決して「幸せになる」とは言ってはいない点)。飯食うな寝るなというような意味ではない。

本来大事にすべき自分自身以外のものに固執するな、ということだと。たとえば金、人間関係、健康。

健康が?と思うかもしれない。ヒントは釈迦の死に際。


釈迦は在家の信徒に招かれてあちこち行く事があった。事前に約束をするのだが、約束の仕方が面白い。「不妄語戒」といって、決して嘘を吐くべからず、という戒めがある。約束したのに色々あって破ってしまうことを嫌って、釈迦は約束しなかったのだと。

都合が悪くて確実に無理だというときははっきりと断るのだが、都合がよくて行けそうだが、というときは沈黙して「行く意思がある」ことを伝えたのだという。「明日行くからね!」で仮に自分が死んだりしても「妄語」になるからだ。

さて余談は措くとして、ある日、招かれた先でキノコ料理が出る。実は毒キノコで釈迦は中毒になり、死んでしまう。

信徒は申し訳ないと涙ながらに釈迦に許しを乞うのだが、臨終間際に彼は「気にするな」と言ったそうだ。「気にするな」はこちらの創作だが、「諸行無常」と言ったのだろうか。そこは分からない。

これが現代なら、死ななかったら裁判起こして訴訟だろう。死んでも遺族が訴訟である。
また、末期ガン患者だとしたなら、血眼になって治療法を探し回り、あたかもガンを治すためだけに生きているようになるだろう。さて、「自分」を大事には出来ているのだろうか。


死ぬ前から三年ほど寝たきりだった正岡子規は病床ではたと気づいてこういうことを書き残したという。原文は文語文だが
「わたしは、禅とはいかなるときでも平然と死ぬものだと思っていたが、実はいかなるときでも平然と生きる事なのだと気づいた」と。


自分を大事にしているよ、といいながらも実は単に欲望に振り回されて生きている。自死を選ぶほど追い詰められたのは実に気の毒だが、追い詰められたほうも、また追い詰めたであろう世の中の誰も自分を大事にしていないのである。

不安が未来から来るものならば、後悔は過去、上の例で言えば毒キノコを食べさせた事といえる。だから釈迦は「過ぎた事だ気にするな」といったのだ。

時計の時間では今というものはすでにない。来た瞬間には後方に過ぎ去る。思うに釈迦は、時計の時間ではすぐに流れてしまうような今には生きていなかったのだろう。その時計の時間ではない「今」に至る道が「とらわれないこと」だった。妙な言い方をすると、「今」にとらわれる、という矛盾に満ちた表現になる。

この理解が正しいとは思わないが、「~すれば幸せになる」という形で新興宗教はおろか仏教自体もそういう宣伝をする(全部じゃなかろうが)のを見るにつけ、この理解で構わないような気がする。


釈迦もランナーもタレントも死んでしまって今は居ない。自分は「今」を生きていくことにする。では、また。