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理念とビジョン:「全文」 「ダイジェスト版」
私の環境論では、環境問題と経済の関係は、1月5日のブログで明らかにしましたように、20世紀後半に顕在化した「環境問題の大半」は、私たちが豊かになるという目的を達成するために行った「企業の生産活動」と「企業と市民の消費活動」があいまってつくりだした経済活動の「目的外の結果」が蓄積したものであると考えています。このことは、このブログでも何回も引き合いに出した次の図からも疑う余地はまったくないでしょう。
ですから、環境問題解決のための具体的な行動は、自然科学が明らかにした「有限な地球という制約」の下で、経済の拡大を大前提として、顕在化した「個々の環境問題の現象面」に一つずつ対応するのではなく、経済的にみれば「経済規模の拡大から適正化」への経済の拡大を前提に大転換であり、社会的には20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量を出来るだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。
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私の環境論18 環境問題の解決とは(2007-02-01)
21世紀に私たちが「経済の適正規模」を模索しなければならないのは、「資源・エネルギーの不足や枯渇によって経済活動が制約されるから」(20世紀型発想による懸念)ではなく、「20世紀の経済活動の拡大により環境に蓄積された環境負荷(温室効果ガスやオゾン層破壊物質の放出、廃棄物など)と、21世紀の経済活動にともなう環境負荷の総和が環境の許容限度や人間の許容限度に近づくことによって経済活動が制約されるから」(21紀型発想による懸念)なのです。
従って、 環境問題に対する最も重要な判断基準は、 「社会全体のエネルギー消費量を削減するか、増加させるか」ということになります。
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判断基準を変えれば、別のシーンが見えてくる!(2007-10-10)
同じ情報を与えられても解釈は異なることがある(2007-10-11)
環境問題:私の基本認識と判断基準①(2007-10-12)
環境問題:私の基本認識と判断基準②(2010-13)
武田さんの「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」と槌田さんの「環境保護運動はどこが間違っているか」(2007-10-14)
●「出来るところから始めること」の危うさ
日本の私たちがいま為すべきことは、 経済拡大を目的とした古い考えや社会制度をそのままにして 「身近なところ(こと)から始める」「できるところ(こと)から始める」ではなく、 「現状をよく知ること」です。「対処すべき問題の規模の大きさ」と「残された時間の少なさ」を考えると、1988年以降、日本政府が意図的に行ってきた環境政策の結果、日本社会に蔓延してしまった「この種の日本的な発想」は問題の解決をいっそう難しくすることになるでしょう。
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「出来ること(ところ)から始めること」の危険性①(2007-09-08)
「出来ること(ところ)から始めること」の危険性②(2007-09-09)
「出来ること(ところ)から始めること」の危険性③(2007-09-10)
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ですから、環境問題解決のための具体的な行動は、自然科学が明らかにした「有限な地球という制約」の下で、経済の拡大を大前提として、顕在化した「個々の環境問題の現象面」に一つずつ対応するのではなく、経済的にみれば「経済規模の拡大から適正化」への経済の拡大を前提に大転換であり、社会的には20世紀の「持続不可能な社会(大量生産・大量消費・大量廃棄の社会)」から21世紀の「持続可能な社会(資源・エネルギーの量を出来るだけ抑えた社会)」への大転換を意味します。
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