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9月25日のブログの最後のところで、「国連では、24日朝から約160カ国の代表が地球温暖化問題について話し合う国連のハイレベル会合が国連本部ではじまりました。今日の夕刊によれば、このハイレベル会合は24日夜(日本時間25日朝)閉幕したそうです」と書きました。
今日の朝日新聞が「社説」で、このハイレベル会合における日本の様子を解説しています。ウィキペディアによれば、「社説とは、一般には社としての立場・意見の表明。最近の時事・国際問題など、注目されるニュースの中から毎日1、2項目ずつ取り上げて、新聞社の論説員委員(地方新聞の一部は共同通信社、時事通信社などニュース配信の通信社の論説委員・編集委員)がその背景を解説するとともに、解説者の主張や考えを掲載するものである」とのことです。私もそのような意味でこの社説を読みました。皆さんも読んでみてください。
テーマは「脱温暖化」と明快です。そして、主張は「消極派」になっては困る、とこれまた明快です。
上の社説の青網をかけた部分「今回、森元首相が最も力点を置いたのは、省エネルギーなどの技術力が大切だということだ」については、私はその通りだと思いますが、私は常々「日本の省エネの認識」に疑問を感じており、このブログでも取り上げたことがあります。
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そして、赤網をかけた部分が「困る部分」だと思います。2番目の赤網をかけたところに、「積極派は欧州、消極派は米豪、カナダと日本である。そんな構図が定着してしまった」とありますが、このことは何も今に始まったことではないのです。
15年前の1992年の地球サミットでもそうでしたし、その後の一連の地球温暖化防止会議でも世界のNGOの間では日本は「消極派」という烙印を押されていました。
次の関連記事をご覧ください。
1992年の地球サミットでは、上の記事にあるように、当時の宮沢喜一首相は出席せず、首相代理として当時の中村正三郎環境庁長官(国務大臣 地球環境問題担当)が出席しました。このことを平成5年版「環境白書」は、次のように書いています。
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地球サミットには、我が国から中村環境庁長官(当時)を政府代表とする代表団が参加した。宮沢総理大臣は出席できなかったものの、総理演説は公式記録として会場で配布され、その中で、我が国は1992年度からの5年間に環境分野の政府開発援助を9千億~1兆円を目途に大幅に拡充強化すること等、我が国が地球環境保全に重要な役割を担う決意であることを表明した。
また、6月5日には、中村環境庁長官が政府代表演説を行い、我が国の過去の経験からみて環境保全と経済発展の両立は可能であり、我が国としても地球温暖化対策を始めとして地球環境問題の解決に向け最大限の努力をすることを表明した。
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ここには、当時の宮沢首相が出席できなかったとは書いてありますが、その理由は書いてありません。当時は、国会で「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法、いわゆるPKO法、1992年6月に制定) が審議中のため、出席しなかったのです。
さらに、日本の困った状況は続きます。
去る9月24日から始まった、約160カ国の代表が地球温暖化問題について話し合う国連のハイレベル会合はこのテーマに絞った会合としては過去最大規模で、70人以上の首脳が参加し、日本からは森喜朗元首相が福田康夫首相の特使として演説を行ったそうです。
このようことから、35年前の1972年の「第1回国連人間環境会議」(ストックホルム会議)に始まり、現在では21世紀最大の問題と認識されるに到った「環境問題」は、日本の政治にとっては今なお、優先順位が低いことがうかがえます。
このように、地球温暖化に象徴される21世紀最大の問題である「環境問題」に対して、日本のリーダーの関心が極めて薄いということは、2005年6月14日付けの讀賣新聞の世論調査の結果が示すように、日本の市民の「環境問題への関心」が薄いことによるのかもしれません。
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