石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

最悪も神のわざ

2014-03-29 18:06:47 | Weblog


 主人の悪性リンパ腫は、小さくなったり大きくなったり・・。そうして3月25日の血液内科の医師によって、治療を考えるために生検をするようにと命じられた。
「もう少し様子をみたい。」と言っら、「今まで見てきたでしょう」怒鳴られた。なぜ、必要なことを説明してくれないのだろう・・。

ただ腫瘍が3㎝と大きく腫れてきていると言われても、それがそんなに差し迫った事なのかわからない。腫瘍マーカーが上がってきていると数値をまくし立てられただけでわかるわけもない。

なぜなら、今まで何ら治療をしていないのにもかかわらず改善したこともあり、腫瘍の大きさも数値も悪くなるばかりではなかったから・・
1年前に10年保証という言葉を確かに聞いていたのに、その言葉を撤回する理由の説明もない。だから言葉がこれほど変わるのはなんだ?って感じ。

もっともそれをまともに信じていたわけではないけれど・・。
人間が命の保証など出来るわけがないことは知っている。まあ、それでもあの時は肝臓癌という事実も抱えていたから、その言葉によってずいぶん落ち着くことができたのも事実。人の言葉にも主の備えはあるのだと思う。

肝臓癌が治って(決して治ったという言葉は使われないが・・。5㎜から縮小し、腫瘍マーカーが正常値以下に下がった)、
診察はもっぱら血液内科の方に移ったのだけれど、その直後から言葉が変わってきた。
26日に生検のための説明を外科で受ける事を一方的に決められた。


 翌日また医大行き。元気だから出来る事、本物の病人なら無理だろう・・。
外科の医師の説明はとても親切で感動的だった。内臓の絵に腫瘍の位置を書き込んで説明文も付け加えてくださって、繰り返し説明をしてくださり、医大に通い始めて以来、始めてわかる説明を受けた。

今まで、チラッと写真を見せられて「ほら、これ。大きくなってきているでしょう」なんて言われても、何と比べればよいのかわからず、それが体のどの辺にあるのかわからず、それがどのような影響を与えるのか判断もつかない。

外科の医師は、私がちょっと遅れて診察室に入ったとき電話中だった。どうも内科医師に手術のことを説明されているようだった。
「いいえ、大手術になりますよ。80歳でその検査をする意味を聞きたい。」そのような内容だった。

それを患者の前で話されることに、彼の本意が伺われ心しておかなければならないと思った。
この腫瘍は抗がん剤が良く効くので、検査後に内科で検査結果によって抗がん剤治療をされますと知らされ、主人に「本人さんはどうしたいのですか」と聞かれたとき、「それは先生にお任せします」と答えていた。

「もう一度、膵臓癌の手術をしておられる先生から説明を受けてください。そのとき、子供さんかご家族の方にも立ち会って貰ったほうが良いですよ。」と忠告をしてくださった。
私は膵臓癌の検査から逃げ出し強引に退院した過去があるので、その手術がいかに大変であるか予想することができた。

主人の腫瘍の位置は門脈という重要な血管の側にあり、手術は肝臓や膵臓を持ち上げて、腫瘍を剥がし、その一部分を取るという大手術であると知らされた。
彼のしてくださった説明から、検査のリスクの大きさも良くわかった。そう、これは治療ではなくあくまでも検査なのだ。


 今まで、私たちは息子達を巻き込みたくはなかった。
自分たちで考えて処理しようとしそれで大丈夫だと思って来た。イエス様がいてくださるから・・って。
でも、今回のことはその重大さによって、外科医の助言を受け流すことができなかった。彼の言葉の中にイエス様の配慮を感じたから・・。

長男に知らせると、「行けるように考えている」という返事が返ってきた。しかし、後日やりとりの中で返信のメールの時刻を見て驚いた。2時40分!
寝ていないのか・・前日に電話連絡をした時「今日は帰れないから・・」とか言っていたことを思い出した。

それでは連日寝ていないのではないか!驚いて「お父さんより心配だ。もういいから寝てください」とメールをした。
「今年度の期日が今週末までなので忙しいのだ。いつものことだから大丈夫。来週は暇になるから行ける」と返信があった。
予約は4月1日であり、滑り込みのセーフということに主の備えに感謝をした。


 なぜ?と問えば限りなく「なぜ」がある。本当になぞばかり。
肝臓癌が治っても、悪性リンパ腫が残され、再び肥大して来たのはなぜ?
医大で医師に振り回され続けなければならないのはなぜ?
腫瘍がこれほど困難な場所に出来たのはなぜ?

普通の人ならそれらを、ただ運が良いとか悪いとかで理解するだろうけれど、すべてをご存じの主が関わっておられることを知って居る故に、すべてがなぞとなる。
ただ、先日主は教えてくださっていた。
人の知恵や知識によって、事の整合性を図るべきではないと・・。主のご計画はあらゆる矛盾のなかにも働いている。

そのような確信は、この行き詰まりの中にあって主人自身も私も、よく寝て、よく食べて、良く笑って、機嫌良く暮らして居ることにある。
病気がすべてを占めては居ないし、普通の生活を屈託無くできるという何気なさの中で、主の大きなお守りが、詩編91編のみことば通りに砦となり、覆う羽となって抱いていてくださっている。

それはあまりにも当たり前な情景の中にあるけれど・・。
「俺にはイエス様という強い味方がある。」主人がぽつんとつぶやいた。


いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
詩編91:1~6
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主を待つ

2014-03-24 11:31:14 | Weblog


 みことばに思いを巡らせて主に聴くとき、自分の悟りを残したままにしたり、その補強の為に主を待つ事は違っていると思う。
主の教えてくださることは、人の心に思い浮かんだこともないものだから・・。

最悪は、腹一杯に魂からの言葉を詰め込んで、補強するべく待ち構えることである。これはまさにサタンの餌となる。
思い巡らせるとは主と雑談するようなものであって、それは、思い込みもなく霊によって遊ぶことである。話すほどに考えたこともない結論へと導かれたりする。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)

日々新しく語られることばによってキリストの形にへと造られて行くのだから、真の知識に必要なものは、昨日の知識へのこだわりをすてて、今日語られることばによって新しく主を知ることだと思う。だから、みことばは何時も新鮮なのだ。

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:10)

 それは時に、昨日の悟りに矛盾するかに思えるときがあるけれど・・それでよいのだ。
神は陶器師のようにご自分のお気に入りを造られる。形作ったり、壊したりしながら、素材の性質を見極め、時に相応しく造られる。
神のことばの整合性は主ご自身がなさることだから、今はすべてを知ることができなくても、やがて知ることになるのだ。

では、昨日人に伝えたことはどうなるのか・・もし、そのように心配をしながら、人が筋道を立てようとするなら、それは混ぜ物となる。みことばは極力人の知性を通さないことが良い。それは魂発だから・・。
そもそも神のことは、語った方にしか責任の取りようはないのであり、聞き間違いも含めて主に責任を取って貰うほかない。失敗ぐるみ主は私たちを用いてくださって居るのだ。

 聖書を読むとき、みことばは水のようにさらさらと自分の中に流れ込み、通り過ぎるままにしている。それは私の霊の倉の中をも通って行くから・・。信頼するべきは自分の知性による理解ではなく、助け主によって働く霊の備えである。
常に豊かな流れを確保していたいけれど・・。それは霊の蓄えとなるのだから。


公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。(アモス5:24)


思いに引っかかったみことばは、そのとき、主に質問しておけば、必要なときに答えはみことばから与えられる。なるべくからっぽで待つのが良いと思う。空きっ腹に与えられる蜜の味は感動もので、それは目から鱗の喜びであり、思わぬ所で主にお出会いしたような感動を味わう時となるから・・。


わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11:9)
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2014-03-23 14:58:21 | Weblog




言葉の棘が刺さっている・・
無視しようとしたけれど、静かになるとズキンと深く痛む。
なぜ責められるのか・・と思った瞬間

イエス様の額に食い込んだイバラの冠を思いだした。
ああ!主が負ってくださった痛みなのだ・・
それは刺された者の痛みであり・・
刺さなければならなかった者の痛みでもある。

刺された者の贖いであり、
刺した者の贖いである。

「平安があなたがたにあるように」
アーメン


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夫と礼拝へ (メッセージ「神のみ前」から)

2014-03-18 18:49:08 | Weblog


共に白髪になっても、主のお憐れみによって元気に礼拝出席できることは本当に感謝。
兄弟姉妹との賛美はとっても嬉しい。メッセージはルカの福音書12章1~12から後山師が語ってくださった。

「パリサイ人のパン種には気をつけなさい。それは、彼らの偽善のことです。」偽善という言葉のもとの意味は「演じる」、「演技」であり、その行いは神に向けてではなく人に向けられたものです。

おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(ルカ12:2)

人からどの様に見られているか、それを気にしていると神様のことばがおろそかになります。
人の前に演じ分けることができても、神様のまえには自分を使い分けることは出来ないので、心が苦しくなり罪意識が増してゆくのです。
ですから、イエス様は人を恐れるのではなく、「天の神様を恐れなさい」と言われるのです。


 メッセージの後の方で、「明日ママが居ない」を引用して、「ポスト」が「愛」を演じることを通してその苦しさを話され、私は家に帰ってからも思い巡らせていた。

私も最終回を見ていた。
ポストは養母になる方の亡き娘「愛」を懸命に演じることによって、養母の中にまだ見たことのない母の愛を求めていた。その結果ポストらしさを失って、おどおどと尽くす姿を施設長は目にする。

彼はそれまで、彼女自身の選択による事だと突き放していたけれど、実際に養母の顔色を伺い続ける彼女を目撃したとき彼の怒りが爆発する。そのようなポストの姿は彼の激しい痛みとなったからだ。

彼女は母を知らず、赤ちゃんのとき施設長に引き取られて育てられた。そうして彼の影響を受け続け、いつしか実の親子のように考え方から行動まで良く似ていた。しかし二人ともそのことには気付いていなかったのだけれど・・。
人は、ただ一緒に居るだけで似てくるものなのだ。彼らは心の痛みまで似ていた。

施設長が目の前でおどおどと義母の顔色を見るポストを見たときの怒りは、父の悲しみであったのだと思う。大切に育ててきた娘が、なぜこのように不安の中で怯えて過ごさなければならないのかという・・悲しみ。


 主を信じて救われた者が世に振り回されて、世に気にいられようと懸命に良い子を演じ、世の顔色を伺っておどおどとしてる姿を、父なる神様がご覧になるときどれほど心を痛められることだろうと思った。
神様にはすべてが見えているのだから・・。それはアバ父の悲しみを掻き立てることになるのだろう。

造り主は、ひとり子イエス様を信じる者を養子とし、ただ、信仰によって神の家族としてくださった。
親しく「アバ父」と呼ぶことを赦し、みことばの乳によって愛と忍耐をもって育ててくださっている。

イエス様の完全な贖いによって神の家族の中で、その欠点ぐるみまるごと受け入れられていることを知っているなら、その立場に安らいで「アバ、父!」と日夜喜んでいるだろう・・。
良いときも悪いときも、「あなたは何処に居るのか」と探される者ではなく、ただ、ただ、御側ですべてを知られている存在でありたい。そうすれば、主に依って似たものに育てられるのだから。


そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4~5)
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慰め合うことば(携挙)

2014-03-14 14:22:24 | Weblog



 ターサイ、ほうれん草、水菜、春菊、青梗菜に菜花・・主人が帰ってくる度、籠の中には諸々の菜っ葉が入っている。
「私はバッタか!青虫か!」なんて、つい口をついて出るけれど本当は喜んでいる。

私は菜っ葉が大好きなので、秋には必ずターサイを蒔いてもらって、真冬もタンポポの葉のような青々としたターサイを大切に食べ続ける。
それが、春になると猛烈な勢いで成長し、次々とつぼみをつけるようになるから、今は食べるのが大変忙しい・・、花が咲くまでに食べなければならないので妹は応援団。
「ねえ、私の顔青くなっていないか?今にサナギになって蝶になりそう・・」なんて言って、ハッと気付いた。


 今朝のみことば・・そう、携挙(けいきょ)のこと。
イエス様の約束は、私たちを天に迎えに来てくださるとある。携挙を信じたキリスト者は、死者も生きている者もその時天に上げられる。私を迎えに来てくださったら、この私が天に舞い上がること!

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(Ⅰテサロニケ4:16~18)


蝶のようにではなく、それは一挙に引き上げられ主にお会いするとある!一瞬に御霊のからだに変えられて召し上げられるのだ。
そうして、「いつまでも、いつまでも主の御側で、それはそれは、しあわせに暮らしましたとさ・・めでたし、めでたし。」ということ!
「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」このように勧められている。

病気が治ったから・・願いが叶ったから・・そんなことではなく、キリスト者の慰めは携挙の約束にあるのだった。
その日を待ち望む者だけに、その時は準備されている。ただ、信仰によって与えられる望みである。
世の終わりの修羅場から脱出させてくださるのは、ただ、キリスト信仰、みことばへの信頼それだけ。

聖書のことばが真実であると信じるなら、もっともっとリアルな希望となり、喜びの内に、主にお会いする時を互いに語り、共に待ち望むことになるだろう。
信仰は自分で選び取るほか無いという厳しさがあるけれど、それは日々イエス様との交わりによって、内に蓄えた聖書のことばが真実であることを教えてくださるから難しことではない。
確かに主は真実なお方だから・・。


血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)

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満足

2014-03-11 10:30:00 | Weblog



 神の箱の前で踊るダビデを「裸踊り」とののしった妻のミカルだったけれど、ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
しかしミカルには、王が人々とすっかり交わってしまう姿は、権威も威厳も感じられないと腹を立てたのだろう。
ダビデは主の前で、王としてではなく、ひとりの人として喜びを爆発させたのだけれど・・。

スポーツマンであっても、芸術家であっても、科学者であっても、医者であっても・・人はその中に偶像を求め、自分の満足のゆくものに仕立てあげようとする。
彼らは亜麻布一枚の等身大、誰彼に紛れてしまう英雄では受け入れない。
寄って集って次々と重ね着をさせて、やれ割烹着だとか、障害だとか・・、品格も必要だとか・・涙だとか感動だとか・・あらゆるストーリーを着せてゆく・・。

しかし、この世の王サタンは落とすために持ち上げているのであり、ニタニタと時を待って居るに過ぎない。
ダビデの幸いは王服を脱ぎ捨てることができること、それは主に在る者だけの自由。
世にはその自由はない。滅びるまで偶像を演じ続けるしかなく滑稽な裸の王様である。
偶像化して止まない世は、着せた衣が剥がれるとき倍返しでののしるから、彼らは自分自身を偽り、着せられた衣しがみつく他なくなるのだから恐ろしいことである。

 キリスト者は仮に何を着せられても、何時でも主の前には亜麻布一枚なのだから、世に対しても常に自由である。
「アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」(創世記5:5)表現はとてもシンプル。

今、キリスト者にとって「主と共に生きて、時が来て死んだ」このように言われるなら、これ以上の褒め言葉はなくこれ以上の栄誉はない。
葬式において、これに付け加えるための一輪の花さえ必要ないほどである。
生ける今、花は大好きだけれど・・


 写真のミニシクラメンは、クリスマス会のビンゴゲームで頂いたもの。「欲しい、欲しい」と騒いでいて、最期の一鉢をゲットした。
な、な、なんと28輪も咲いている。クリスマスからずっと花の数は増えるばかり・・こんなの始めて!

私は花の世話で今まで上手く行ったことがなかったから、これは奇跡。ぽんとガラスコップに放り込んだままだけれど、身近において何時も眺め続けている。
献品してくださった姉妹、本当にありがと!!
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