石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

火曜日のために 金持ちの青年

2012-05-28 14:16:03 | Weblog


イエスさまはご自身を「尊い」とは呼ばせなさいませんでした。尊いお方は父なる神様であるとはっきりと区別しておられ、ご自身に父の権威を重ね合わせることはされませんでした。
青年は律法を幼い頃より守って成長してきた人でした。彼は申し分のない生き方をしてきたのですが、それだけで天の御国にはいれないことも知っていたのです。

事実、人はその良い行いによって天国に入ることは決してありません。
アダムが神の言葉に聞き従わず反逆の罪を犯して以来、人の血筋にある罪を人の行いによって帳消しにする事は誰にも出来ないからです。

青年がイエスさまの元を去って行くと言うことは、彼が永遠のいのちである天の御国をあきらめて、永遠の滅びを選んだということです。
イエスさまはいつくしみの御目を青年に注いで、イエスさまに助けを乞うのを期待しておられたのです。ひれ伏して「私にはできないのです。憐れんで下さい。」と救いを求めるべきでした。

イエスさまは弟子にこのように教えておられます。
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)

人にはできないからイエスさまに願うのです。
その時、イエスさまはどうされたのでしょうか・・何らかの手段で青年の財産を処理して下さったかも知れません。あるいは、財産に勝るご自身の祝福を経験させて下さって、喜んで捨てることができるように導いてくださったかもしれません。

ただ、青年が自力では救われないことを知ることが必要なのです。イエスさまの救いはイエスさまを必要とする人にのみ与えられます。
今まですべて自分の力でやってきた立派な人も、天の御国にはキリスト様にひれ伏して入ることを学ばなければならないのです。

イエスさまのみことばの故にすべてを失うことは、完全にすべてを得ることを意味します。
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。(マルコ10:29~30)

人はすべてのことを、イエスさまに手放すことによって祝福されるのです。
この青年にイエスさまが与えようとされたのはこの祝福だったのです。イエスさまは青年を無一文の憐れな乞食にしようとされたのではありません。百倍を与えようとされたのです。

しかし、「迫害の中で・・」と書いてあります。だからそれは簡単なことではないのですが、それに耐える力も神様は御真実ですから備えてくださいます。そこを通って永遠のいのちを受けて行くのです。
しかし、今持って居るものが多いほど、この過程を経ることが難しいのは事実です。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)
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キリストの花嫁

2012-05-24 10:35:54 | Weblog


神が天と地を創造した理由、太陽と月を創造した理由、すべての生きるものを造ったそのわけ・・。
それは、キリストの花嫁を産み落とすため、嫁取りの必要のために備えられたすべて・・。

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(創世記1:26)
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)

人は、神の家族として造られた。そう、神の息のかかったものとして・・。

神が、エデンの園に「いのちの木」と「善悪知識の木」を置いた理由。
キリストと花嫁の出会いは、キリストを必要とすることから始まるから。
花嫁は救い出され、整えられ、訓練され、キリストの香りを練り込まれる期間が必要である。花嫁はそれを喜びとし、キリストを愛して嫁ぐためである。

花嫁は選ばれる。
いっさいのまつわりつく罪を捨てて、花婿イエスを目指して走り続ける者を・・、「わたしの教会」と呼ぶ御声に向かって、ひたすら駆けて来る姿こそが花婿の喜び。

あまねく知らせる福音は、篩(ふるい)にかけるためでもある。
十字架を知ってなを、タルシシュ行きの船に逃れようと乗り込むなら、船はなんの妨げもなくタルシシュに到着するだろう。(ヨナ記)

畑を見に行く者は行き、牛をためしに行く者は行き、結婚した者はその生活に居ることを妨げられることはないだろう。(ルカ14章)
父を看取るために残る者は何時までも父と暮らすだろう。(ルカ9:59)それらすべては篩と成る。
花嫁も花婿を選ぶことが出来るのだから。

この大空もこの地も、すべての生き物も草や木も、ただ、キリストの花嫁のために備えられた。
今日も主は花嫁を見て喜んでおられる。「我に来よ」と呼んで居られる。
花嫁はひとり静まって花婿の御声を聞き続け、みことばによって整えられて行く。神の息によって生きる者として・・。ハレルヤ!
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家族と金環日食

2012-05-22 10:58:40 | Weblog


 私が家からそれほど遠くないところに行き、金環日食を通して主との交わりを楽しんで帰ってくると、人々の楽しそうな声が聞こえてきた。
「ムベさ~ん。見たよ~」って、向かいの高い所から弾んだ声で呼ばれた。そうして、日食眼鏡を返しに来られて、幾度も「すごかった~ありがとう。」ってお礼も言ってくださった。

私は何もしていないのに・・私はひとり主の所に行っていたのに・・いっぱいお礼を言われた。でも、彼女の楽しさが伝わってきて「本当に素晴らしかったね~良かったね~」って、まるで一緒に居たかのように喜びを分かち合うことが出来た。

それは主人がご近所の方と向かいの高い所に行き、日食眼鏡を貸して差し上げたお礼だった。私はイエスさまに主人を感謝した。
私はいつもひとりで行動してしまう。でも主人は私のできないことをあっさりとやってのける・・。
お礼を言われた日食眼鏡は息子が作ってくれたもの。私が新しく主を体験することができたのも彼の備えのおかげでもあった。

主人とお茶を飲みながら感動を話し合った。主人はみんなが喜んでくれたことも嬉しそうだった。
「神様が大空を造られたときに、準備して下さったサプライズ。神秘的な輝きだったね~。」
「本当に凄かったなぁ・・。俺は何を大騒ぎして・・って思って居たけれど、見られて本当に良かった!」
ふたりでもう一度感動を語り合った。


 息子は何日も前から、フィルムなどを買って家族の分の眼鏡を作り、写真を撮るための準備をしていた。この日に休暇を取るために、残業が続いて疲れていても休暇を取らなかったのだ。
落ち着かない天気予報に一喜一憂して、「和歌山に一泊して撮影場所を探そうか・・」とも言っていたけれど、私は一言だけ「此処が一番良いんだよ」って伝えて、お導きを主に祈っていた。

彼は早朝からドタバタと準備をして、私が起きたときにはもう居なかった。近くで腰を据えて撮影をしていたと言う。
重い機材を抱えて遠くに出かけ、今週の仕事に差し支えるほど疲れなくて良かった、と母はホッとしたのだ。
家族はそれぞれ別の場所で同じものを見ていた。そうして同じように感動を持って帰り、喜びを分け合って3倍になった。ハレルヤ!
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金環日食

2012-05-21 15:55:37 | Weblog


その直前、大空にはむら雲立ちこめ、あたりは薄い闇をまとった。
私はひとり、信仰の灯火を掲げて主のメッセージを待っていた。
「主よ。あなたのみこころのままに。与えて下さる分を受けます。」

「そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。」(ヨブ記38:9)
「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く・・」(黙示1:7)

みことばが心の中に流れる。

突然、雲の包装紙を解かれて、きらめくリングが現れた。
ああ、キリストの花嫁に贈られるエンゲージリング!
太陽はこのためにあり、月もこのためにあったのだろう・・。
わが君イエスよ!謹んでお受け致します。

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飽きる

2012-05-19 16:12:18 | Weblog


昨日はモニターのお仕事でお出かけをした。
次々と出されるものを試食をして、どんどん感想を書いて行く。でも、これはかなり大変。
ケーキ類が多くて、それは普通なら嬉しいことだけれど・・、そう、友人と楽しく話ながらだったら・・。

しかし、仕事となると食欲が落ちるのはなぜだろう。今思えばそれは緊張の所為もあるけれど、強いられ?て食べるということは苦痛なんだと知った。
私のダイエットの極意がわかったけれど、そんなの続かない。ひどく疲れるから。

また帰りも試食の食品を頂いて来て、夕食に食べて夜に感想を書く。当たり前のことだけれど、私の好みは関係なしとなる。
今日も宅急便で送られてきた。昼に家族で食べて感想を書く。
なんであっても、開発というものはものすご~く大変なんだと、そろそろ身に浸みてきた。


「好みが・・」って息子に言ったら、「お母さんに好みなんてないだろう」なんて暴言を吐く。「人をゴミ箱みたいに言うな・・。」ってつぶやいてみたけれど、彼からすれば確かに私は何でも食べるし、食品を捨てることは滅多にしない。

少しの残りものなら食べることで片付けてしまって、「それを口に入れるな・・」って自分自身に叫ぶ瞬間がある。だって、私の育ったころは「もったいないから残さずに食べなさい」と叩き込まれたのだから・・。お釜の底にくっついたご飯粒もお湯で洗って食べた時代。

貧しい時代に育ってきて、食べ物のありがたさはよく知っている。今も、世界にはあの頃の日本のようにお腹を空かせている人たちが沢山おられる。
嫌いだとか、飽きたなどと粗末にすることは罰当たりなことと、自然にそんな風に思ってしまう。


「食べ飽きる」なんて勿体ないことだろう・・。しかし、確かに飽きることがあるんだ。
それにしても不思議な事だと思う・・。家族は母親の作った食事に飽きることはない。時には生まれてから死ぬまで同じようなものを食べているのに・・。しかし、他人の作ったものには飽きる。

家族で試食をしていると、その反応はそれぞれ違う。主人が「美味しい」と言っても、息子は「ちょっと・・」と言い、息子が「美味しい」というものは主人にはうけない。
これは重大なことなんだろう。多くの人に好まれないと商品として成り立たないだろうから・・。

昨日の説明の中で「和食はあまり作らないようにしています。お袋の味には勝てないし、家庭の食卓に踏み込んで行くようで・・」
なるほどって聞いていた。だから、作られたものが食べつけないものになるのだろう・・。創作料理というものの難しさを知る。本当にこれだとずっと飽きることとの戦いだろうなぁ。


飽きると言えば、先日スーパーの安売りの洗剤を見て悩んだことがあった。それは新しい商品なのに破格に安くなっていたので、ちょっと戸惑っていたのだ。
すると、若い女性が声を掛けて下さって

「大丈夫ですよ。私が昨日店員さんに説明してもらったところに拠ると、単に棚卸しの商品と言うことらしいです。」
「ありがとう。そうですよね、ちゃんとしたメーカーのものですものね」
「とても安くなっているので箱買いでどうですか、と勧められたのですが・・」
「それはちょっと・・ですね。今は洗剤にも飽きがきますから。」
「ああ、それは言えますね。」
ということで、結局一個買っただけだった。なんとなく買う気がなくなってしまって・・。

これも不思議な話で、ただ汚れを落とすだけの洗剤なら飽きるなんて問題は起こらない。洗濯は生きている限り続くので、そのためだけなら飽きるなんてあり得ない。
高機能な商品が増えるに従って、その付加価値に飽きが来るんだ。こうして開発の泥沼に嵌って行く・・。本当にお疲れさま。
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今朝のみことば (金持ちの青年)

2012-05-17 09:36:10 | Weblog


すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:20~21)


お金もあり、地位もあり、行動力もあり、育ちも良い申し分のない人。しかし彼には一つの欠けがあった。それゆえ彼は永遠のいのちをあきらめて、救い主の元を去って行った。
彼の一つの欠けとは、それは主に寄り頼むことであった。「人には出来ない」ことを知り、「神にはどんなことでも出来る」ことを経験することである。

イエスさまの慈しみの御目は、幼子とは真逆の彼の熱心に対してではなく、これから課せられる内容に対して、彼が主の慈しみに逃げ込むことができるようにとの備えであった。自らの弱さを受け入れて、主の慈しみに身を避けることができるのだから・・。

彼は、世の富と永遠のいのちを天秤に掛けて敗北した。しかし、それでも彼は立ち去るべきではなかった。御前にひれ伏して憐れみを請うべきであった。しかし、彼はこれまでそのような生き方はしてこなかった。彼は常に背を伸ばして、すべてのことを自力で成し遂げてきたのだろう・・。

天の御国、それはいかなる人の力をもってしても得られるものではないから、イエスさまの十字架を天の父なる神様が備えてくださった。
そのお方こそ「尊い方」であるとイエスさまは言われる。

いのちのために失うものがあることは幸いなのである。多く失うものがあるなら多くの証をたてること、天に宝を詰むことが出来るのだから・・。
でも、イエスさまは人の心をよくご存じであるから、金持ちが永遠のいのちを得ることの難しさを言われたのだろう。

この世の必要が満たされている中で、人はこの世のすべてを投げ出すほど熱心に永遠を求めることはないものだ。この世での悲惨の中にあるときに、人は真に永遠の望みを探る事が出来るのだと思う。
暗闇に覆われるときは、イエスさまの慈しみの御目が注がれているときでもあるのだと思う。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)
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今朝のみことば 「子たちよ。」

2012-05-16 13:53:27 | Weblog


さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(マルコ10:13~14)


9章でイエスさまは教えておられる。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マルコ9:37)

イエスさまの教えを弟子たちは覚えていなかった。いや、その時は分かっていても、忙しさの中でつい本音が態度になってしまったのだろう。子どもは邪魔な存在だという・・。
でも、神の国は上座に案内される偉い人々のものではなく、この世では何の力もなく、むしろ邪魔にされる者たちのものだとイエスさまは言われる。

ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。(ルカ5:21~22)


イエスさまは、人の賢さにあぐらをかいて裁いている人々を叱っておられる。
幼子のように素直にみことばを受け入れなければ、たとえその人のためにイエスさまが死んで下さっても、神の国はその人のものとはならない。

喜んで主に居る弟子たちを、イエスさまは「子たちよ。」(マルコ10:24)と呼ばれた。
弱い私たちがもし邪魔にされるようなことがあったとき、イエスさまは憤ってくださるだろう・・。でも、どうか私たちが、イエスさまを憤らせるようなことをしませんようにと祈る。

主に来るなら、強い御腕に抱き、御手を置いて祝福して下さる。このことによって、この世でもしっかりと立ち、いかなる時も平安のうちに生きることが出来る。ハレルヤ!

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。(詩編91:4)
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母の日

2012-05-13 18:56:27 | Weblog


 雀の母さんは子育てで大忙し・・ご苦労さま。
3羽とも無事に育ちますように・・。


 今朝は主人の食事の準備もしないで、PCの前でぼんやりとしていた・・、
すると、主人が番茶の出花をテーブルに置いてくれた。
「ありがとう」ってフウフウ・・一口すすると、香ばしい香りが全身に染みていった。
これは何よりの母の日のサプライズ。

こんなことは滅多にあることではなく、普通は私が忙しく朝食を準備している。
これに味を占めたいけれど、まあ、二度と無いだろう・・。


 昼食の準備を済ませて、原付バイクで緑色の風の中を教会まで走る。ちょっと肌寒いけれど気持ちいい~・・。
今日は私の大好きな賛美歌285番だった。心からの献身の思いで、音痴のままに大きな口を開けて賛美した。
でも、考えてみたら献身なんてとんでもない、ただの主の扶養家族なんだけれどね。



「主よみ手もて」

主よ、み手もて ひかせたまえ
ただわが主の 道を歩まん
いかに暗く けわしくとも
みむねならば われいとわじ

ちからたのみ 知恵にまかせ
われと道を えらびとらじ
ゆくてはただ 主のまにまに
ゆだねまつり 正しくゆかん

主よ 飲むべき わがさかずき
えらびとりて さずけたまえ
よろこびをも かなしみをも
みたしたもう ままにぞ受けん

この世を主に ささげまつり
神のくにと なすためには
せめもはじも 死もほろびも
何かはあらん 主にまかせて

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今朝のみことば (結婚)

2012-05-12 13:42:21 | Weblog


>しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。(マルコ10:6~8)

そもそもアダムの骨からエバを造られたのだから、創造の初めからそれは一人なのだ。アダムを造られたのと同じように、エバを造られたのではなかった。
そうして、ふたりで命を繋いで行くものとして造られた。

こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10:9)

自身の骨である妻を喜ぶには、自分自身を神の創造物として喜ぶことから始まる。
互いの中に見る喜ぶべきものも、厭うべきものも、神の創造によって私の内にあったものとして、まず受け入れることが必要となる。

気に入らないと離婚して、自分の思いのままに何度でも相手を選ぶということは、それは神に造られた自分自身を受け入れず、創造の神に従順しないことでもある。
神への従順によって築かれる完全な結婚。主に在る夫婦は、誰でも神の作品アダムとエバなんだ・・。

すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2:23)

罪を犯す前のアダムの喜び、今、私たちもキリストの聖い血潮に洗われて、罪のないアダムのように互いを喜ぶことが出来るのだ。ハレルヤ!
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今朝のみことば マルコ9章から

2012-05-10 15:17:52 | Weblog


「イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」(マルコ9:31~32)


イエスさまは十字架に向かって進んでおられた。しかし弟子たちは、イエスさまのお言葉に耳を貸すこともなく、イエスの弟子という立場にあぐらをかいて、その輪の中で自分の立ち位置を探っていた。

「道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」

主は「しんがりになれ」と言われる。それは強い者には難しく、弱い者には易しいことである。
このとき弟子たちは、思い巡らせなければならないイエスさまのお言葉を脇に置いて、この「今」という時が永遠に続くような気分でいたのだろう。

ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」(ヨハネ9:38)

「私たちの仲間」とは弟子たちの仲間のことであって、イエスにとっての仲間ということではなかった。
自分たちだけがイエスの仲間であるという思いは子供っぽい。小さな者を受け入れ躓かせないように育てるには、大人であることが求められる。
しかし、彼らは仲間としてイエスさまの何を知っているのか、そのことには思い至っていない。

この世の価値観を自分たちの世界に持ち込んで競い合っている弟子たち。しかしイエスさまは真逆に進まれる。
いつまで経っても成長のない役立たずのような者のために死んでくださるお方であり、理不尽を真っ正面から受け入れて殉じるお方であり、ほめ言葉の代わりに嘲りを受けてくださるのである。

イエスさまはゲヘナの話を弟子たちにされた。そうして今、私たちに教えておられる。
あなたの信仰の妨げとなるものを切り捨てよと・・。永遠に燃え続ける裁きの火を恐れて、今自分で焼き払うべきものは、誇り高ぶらせる地位、世に器用な利き手、人を追い越すに速い足、世を見つづける目など、誘惑となるもろもろ・・。

その後に残る塩気を保ちつつ主に在って和合するとき、何にあぐらをかくことはなく、互いに主を交換し合って日々成長し、御国のゴールを目指して共に駆け抜けることができるだろう。

主はすべてのことについて、理解する力をあなたがたに必ず与えてくださいます。(Ⅱテモテ2:7
いつもイエス・キリストのことを思っているなら、私たちはイエスさまを必ず知ることができる御約束!ハレルヤ!
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