石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

ガラポン

2009-12-25 22:12:10 | Weblog
 近くのスーパーへと単車で走っていても、今日はぽかぽかと小春日でとても気持ちが良い。
今夜のメニューがまとまらなくて、店内をぐるぐる回る。
新しい鰺を見つけたので、恒例の一夜干しを作ろうと魚屋さんに開いてもらった。もう、蠅はいなくなったのでこれからが干物造りの季節、新鮮で安いものを見つけると嬉しくなってしまう。
ちょっと濃いめの塩水に漬けて置いて、一昼夜干すととても美味しくなる。こんなものでも手作りは美味しい。私の冬の遊びのようなもの。

 買い物を終えるとレシートでお楽しみのガラポン。ガラガラと回して出てきた玉の色で当たりが決まる。「当たると良いなぁ」と思って回すと、黄色い玉がコロンと出てきた。
「コーラ当たり!」と言われて、てっきりコーラ1本だと思っていたら、目の前にどーんと1箱置かれて絶句。そんなに飲めないよ~持って帰るの大変だし・・、よほど嫌な顔をしてしまったのか「持って帰ってくださいよ!」店員さんに強い調子で言われてしまった。

私を見て出されたコーラはカロリー0だったけれど親切のつもり?
家族はジュースとか清涼飲料水のたぐいはあまり飲まない、ましてコーラなんて・・。夏に1、2回はクリームソーダーを飲むけれど、一個のアイスクリームに1本のコーラで3人が満足する。

 先日も温泉の入浴券が当たった。二人で使えるので、去年当たったときは主人と二人で入りに行った。商品券とか、野菜ジュースなども貰ったことがある。でも、これは遊び。
私は、宝くじは買ったことがない。
まるで落ち穂拾いのようにして、稼いできてくれる主人には申し訳ないけれど、収入と支出が絶妙のバランスで守られている現状を、宝くじの当たりで壊したくはない。

主人の健康と現在の我が家の家計のバランスは深い関係があると思う。大金が入って働く張り合いがなくなってしまったら、ろくな事にならないだろう。第一、主人に感謝の言葉をかけるチャンスを、ひとつ無くすことになってしまう。

我が家のかめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。そのことを知っているからもう十分。けっこう倹約家の私がこんな事を考えていると知ったら、子供達は驚くかも知れない・・いやお母さんらしいと思うかな・・、倹約は勿体ないと思うからであって、お金が惜しいからではない。
私は籤に賭けないけれど、百パーセント外れのない主に賭けている。ハレルヤ!
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ばかばかしい夫婦で40年

2009-12-21 18:59:53 | Weblog
 一昨日つまらないことで主人と喧嘩をした。あまりにもつまらないことだったので、きっかけは忘れたけれど、「わかっとる!お前は先々言うな!」と怒鳴られた。
「すみません」とは言ったけれど、つい先日も何だったかで怒鳴られたので、一言「あんたは怒鳴られたことがないやろう」と口答えをした。

その言葉に主人はちょっと動揺したみたいだったので、「気づいてくれたかな・・」と思いつつも、なかなか私の腹の虫は治まらなかった。
怒鳴ることは許せない。脅されるのも嫌。たぶんは主人はとっさに言葉が出てこなくて、怒鳴るのだろうけれどあまり軽く考えてもらっては困る。私の心に次々と言いたいことがあふれてくる。

でも、でも、またしてもみことばが次から次ぎへと心にあふれてくる。葛藤の中で「主よ、助けてください。わかっているのですけれど、そのことが私にはできないのです。」と心で叫びつつ・・。主人には不機嫌に黙ってしまうことしかできない。

 今朝、起き抜けについうっかりとしゃべってしまった時、主人はすかさず、昨日受け取った仕事賃の中から一万円を差し出して「誕生日やろう、なんか買え」とテーブルに置いた。そして、「これ残りや」と全部差し出したので、どうせ全部私のものじゃないかとおかしくなって笑ってしまった。これで笑ったら完全に買収されたようなものだと思いつつも、慰謝料ももらったので喧嘩は終わり。
だいたい誕生日と言うけれど、いつもの事ながらむちゃくちゃアバウト。まあ、私もおおざっぱな性格なので、だいたい覚えてくれているだけでも良いや・・と諦めてはいるけれど。

 
 雪混じりの曇天が続いていて、すっきりと乾かない洗濯物がたまったので、今日は主人の車に積んでコインランドリーに行きカラッと乾かしてきた。これでタンスにしまえる。
夕食の時、「ほんまに便利な世の中になったもんやなぁ。ちょこっと行って乾かしてくることができるんやなぁ・・」感心している主人に、
「この間洗濯機を買うとき、乾燥機付きのものにしたらと勧められたよ。私はもったいないと断ったけれど、それだったら汚れ物を入れたら乾いて出てくるよ。」「へぇ・・そうか」
「もっとも、そんなのを買うときは気を付けて性格の良いの物を買わないといけないけれどね。」「俺らにはそれはわからんなぁ」「性格の悪いものだったら、洗わないで2、3回まわしただけで『洗った』と言うかも知れん。『まだ、汚れが落ちてない』と言ったら、『汚れるまでに洗え』って言われるかもしれんし・・」「金槌で叩きのめすことになりそうや」「どっちにしても、こちらの負けや」二人でアハハ・・まったく自分でもバカバカしい夫婦だと思う。こんなふうにして40年。

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飴と鞭

2009-12-18 15:34:09 | Weblog
 親しい方の事故の知らせを受けた日に、その裏返しのような主の憐れみを頂いた。
息子に頼まれてある特別な切符を入手するために、私は連日予約の電話を掛け続けていた。いくらかけても「申し訳ございません。」という売り切れによる謝罪の言葉ばかりだった。

 その日の朝、息子は「今日は誕生日だから手にはいるかもしれない。買えたらメールしてくれ・・」と言って出かけて行った。私は自分の誕生日を特別な日なんて考えたこともなかったので、「何の関係があるのだよ・・」と彼の甘い考えをちょっと笑った。
けれども、このことについて今まで祈っていなかったことを思い出し、「みこころにかないますなら、彼の望みを叶えてやってください。」とほんの一言付け加えて祈っていた。

 電話は、発売と同時でなければ無理だと聞いていたけれど、その日は事故のことで頭がいっぱいになって、その時間をすっかり忘れてしまっていた。
突然思い出し思い出して、もう時間が過ぎているからどうせだめだろうと思ったけれど、祈ったのだから・・と、それでも、駄目元という気持ちで子器を取った。

しかし、「はい。・・でございますね、お取りしました。」しごくあっさりと、今まで聞き慣れた言葉とは違う内容に、なぜかその時私はうろたえた。
こんなとき、私は自分がいかに不信仰であるかを思い知る。不思議だけれど、祈りがかなえられるときに自分の信仰の無さを念押しされる。

 それでも、実際に入手するまでは、本人からの手続きではないと言うことで、あれこれと遣り取りが続いた。今までの私はこういう時あっさりとあきらめる性質。ルールだから仕方がないと・・機械的にそう思ってあきらめてきた。
でもこのとき初めて、ルールに対して人間の血の通ったところで交渉をするという、ねばり強く訴えかけるということを経験した。そんなことが出来たのは、主が共に居てくださるという確信があったからだと思う。

すべてが終わったとき涙がにじんだ。切符が嬉しいだけじゃない。駄目なら他にも手に入れる方法があると息子から聞いた時「真っ正面からがいいよ。ちょうど良い時にイエスさまが必ず与えてくださると思うから・・」と私は言っていたから。
息子には主から良きものを受けるべきいかなる正当な理由もない。まったくない。何時もいつもそれは純粋に一方的な主の憐れみによるもの。
「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ9:15)ということ。

 私はすべてのことを主の御手を通して受けたいと願っている。そうするなら何が起ころうと、これは主のご計画によるものとすんなり「アーメン」できる。それなら私は平安だから。良いことでも悪いことでも、主と共に歩んでいたのならそれは祝福だと思う。

主は生きておられる。こんな小さな私たちの日々の卑近な事にも、また、大きな事々にも、そのすべてに働いてご自身を現し導いてくださっている。そのことを自身に味わうとき心がふるえる。

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)

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土の器

2009-12-17 19:38:32 | Weblog
 昨日の早朝、お隣のご主人が、亡き親友のご主人がひき逃げにあわれて重傷だという、信じられないような出来事を知らせてくださった。
すぐに、「祈ろう」と主人と座る。うろたえる心を受け止めてくださるのは主、すべての命は御手の中、重傷という言葉にある一縷の望みの中で、小雀さえも省みられる方にただ、すがる祈り。

 主人が詳しいことを聞いてきてくれた。それは幾らかホッとする内容だったけれど・・それにしても、私たちからみれば若くて頼りにしていた方だったから、なぜという問いが心を占めて、寝返りばかりで眠れない一夜。

 「乗っていきませんか。」と、いつも息子を車に誘ってくださっていた方が、今朝は意識をなくして集中治療室におられるという残酷さに、胸が詰まって土の器のもろさを思い知る。
 
そんな私の駆け込む所は祈り、つぶやいているような・・哀願するような・・問いかけるような・・そんな時間の中で、曙をみるように少しずつ癒しの形が描けるようになってゆく。

 誰の時間にも限りがあるということを私は思い知らされた。だから・・だから・・まどろんでいる時ではないのだよと。
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火曜日の交わりから  マタイの福音書16:21~28

2009-12-15 17:55:52 | Weblog
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 イエスさまのお話は弟子たちにはとんでもない言葉でした。これから奇跡の力を用いて人々に救いを説き、ますます有名になり、華々しい働きをされ、王になる方だと思っていたからです。
人間なら誰でもそう思うでしょう。此処まで来て「死ぬ」それも「殺される」そんなことはあり得ないことでした。
誰であれ人の思いの中では、「死ぬ」ということは、すべての終わりであり、完全な敗北でしかなかったからです。

「ペテロは、イエスを引き寄せて・・」とあります。人は神様を自分の身の丈に引き下げて、自分の考えや計画や思いを命じる失敗をします。間違ってはいけない、人は神様に世から引き上げられて神様の計画を行うべき者なのです。このことはとても大切なことです。

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 神様の計画を妨げるものはサタンです。人がサタンを手伝って、神様の計画を邪魔をしてしまうことがあります。
でも、ペテロに悪気があったわけではありません。イエスさまを大切に思うから自分の考えで良いと思うことを言っただけなのです。

ここでペテロは、自分の「良い計画」が、神様には汚れたものであるということを、イエスさまの叱責によって学びました。サタンからのものであったとは大きな衝撃だったでしょう。人にどうしてそのことを見分けることができるでしょう。

 人にはわからないのです。そのことを知っているのは唯一イエス・キリストだけです。だから、イエスさまは助け主なる聖霊を私たちにおくってくださったのです。
その方は、私たちにみことばを解き明かし、大切なときに思い起こさせてくださり、神様のみこころに導いてくださいます。

聖書に親しみ、みことばを豊かに住まわせ、聖霊の助けによって用いてゆくときに、私たちも神様のご計画を、日々、一歩一歩と解き明かされ、みこころを生きてゆくことができるのです。

 
 すべての宗教や、ヒューマニズムは人間が中心です。人が人のために立てた良い計画を神が手伝うべきだと考えています。それは人の目にはとても優れたものに見えます。「善悪知識の木の実」を食べ、アダムの血を引く人類には、すんなりと理解ができるものですが、不完全な人の考えから始まったことには、必ず矛盾に満ちた結果が待っています。

 神様のご計画は、救い主が死ぬことによって人類が救われるという、私たちでは想像もできない逆説的なものでした。
このように、神様のみこころは人には及びも付かないものですから、まず謙遜に、すべてを委ねて導きを待つことがとても大切です。


 でも、自分の計画や願いを全能の主に祈ることは自由だと私は思っています。聖書に「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:22)と書かれています。
ただ、時や方法などすべてを主に信頼してお任せし、従順のうちに祈ります。イエスさまが私たちの祈りを精査していてくださるからこそ、なんでも恐れずに祈ることができるのです。

 聖書の中で、イエスさまは信じる人にも信じない人にも、癒しや助けを求める人には、誰とでも親しく交わり、その願いを聞いてくださいました。そして、その人の必要を惜しむことなく与えてくださいました。イエスさまの周りにはいつもそのような願いを持った人々が取り巻いていました。そのことを赦しておられたのはイエスさまです。

 子どもは父になんでも欲しいものを言います。どんな願いでも語ります。たとえ幼稚な夢であっても、子どもがそれを話すことは父にも楽しい時間です。
会話が豊かであることは父との関係の親密さでもあります。そのような関係の中で、子どもは願ったとおりのものが与えられないことがあっても、親密であればあるほど、父の選択に信頼することができるようになり、なぜそれが駄目であるのかを理解しようとするまでに成長して行きます。

そうして、もう細々とは語らなくても、父が選ぶものが自分にとって最適なものであるという過去の経験によって、与えられるままに受け、感謝の思いを深くしてゆくようになります。神様と私たちの関係もそのようだと私は思います。
「成長させたのは神です。」

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

「自分の十字架を負ってイエスさまについて行く」ということは、信仰が大人に成長した姿です。強いられてではなく、脅されてでもなく、主から与えられた自分の役割を、人の知らないところで黙々と果たすことができるようになります。
誤解されて責められるようなことがあろうと、誰かに評価されてもされなくても、そんなことに一喜一憂する事もなく、自分に与えられた十字架を負って、主との交わりを喜んで平安のうちに、この世を主と共に生きてゆきます。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。

よく「・・いのち」と言います。恋人がいのちだったり、家族がいのちだったり、仕事がいのちだったり、人に認められることがいのちだったりします。
でも、私は「イエスさま。いのち」です。それはイエスさまが私のいのちとなってくださったからです。
「報いを受ける行い」とは、イエスさまのいのちを頂いて、感謝のうちに過ごすことです。その報いは、もう受けている永遠のいのちです。
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からっぽ

2009-12-07 19:13:38 | Weblog
イエスさま あなたはご存じです。
私がからっぽであること、あわれなものであることそんなことを・・
私が今日何を考え、何をして過ごしたのか、何一つあなたに隠れては居ません。

私の罪の一つ一つに対して、あなたは代価を支払い続けていてくださいます。
十字架の清い血潮を持って・・
だから私はあなた無しでは生きてはいけないのです。
あなたを見失ってしまったら、私は孤児になってしまいます。

あなたなしでは生きられない私にとって、一日が終わるとき、
「今日」という日があなたがいてくださったことを証します。
だから私にあなたが必要なように、あなたにとっても私が必要なのだと思うのです。

私は空っぽです。あなたは何でも注ぐことがおできになります。
御手のうちに練り直し、捻りなおして用いてください。
卑しいことにでも・・尊いことにでも・・みこころのままになりますように。
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一生懸命・・・

2009-12-02 15:26:38 | Weblog
 日曜日に集会があったのだから「今週はいいかなぁ・・」と思っていると、きっちり電話が掛かってきので早速出かける。
「遅くなってごめんね。ちょっとサボろうと思ってしまって・・。一昨日のみことばを読み返すべきだとは思っていたのだけれど・・。」などと言いつつ聖書を開く・・。

先日教わったみことばを開いて彼女と読む。詩編90編を読んでいて、「この、『しもべ』って誰のこと?『子』って誰のこと?」と問われた。そのことで一緒に読み返してよかったと思った。
先日は「イエスさまは神様が生んだの?」と聞かれたことがあって、あわてて「いいえ、イエスさまは初めから神様と共におられて、共に創造された方だよ」と言いつつも、「ではなぜ子というの?」と聞かれはしないかと私はたじたじ・・。

ただ聖書にそう書いてあるからそうなんだよとしか・・。人様に伝えるときに一番に思い知らされるのは自分の無知。いつももっといろいろなことをきちんと知らないといけないと思わされる。

「私ね、先生に会うのがとても恐くて、最近はまったく使ってなかったニトロを貼って行ってん。何を言われるかと思っていたから・・洗礼を受けて、教会に通って、こんなに助けてもらったのだから、あれもこれもしないといけないと言われたらどうしようかと思ってしまった。」

「『こんなに助けてくださった』のはイエスさまだよ。イエスさまが十字架で全部を成し遂げてくださったのよ。だから、何もそれに付け加えることなど無いの。誰もそんなこと言えない。」
「本当にそうだった。『割礼を受ける受けないは大事なことではない』と教えてくださって、このみことばが嬉しかった。洗礼を受けなくて良いとは思っていないけれど、なんかすごく安心した。先生も奥さんもやさしくて親切に教えてくださったから・・。」

私には彼女が洗礼をそのように思い詰めて考えていたことが意外だった。きっと彼女はみことば以外から、思いこみや噂のたぐいによる知識によって悩んでいたのだと思う。私は今の彼女には形式ではなく、ただキリストを知ること、味わうことに専念すればよいと思っているのだけれど・・。

それでも、彼女は思い詰めた結論を自分で出していて、
「世間の事もあるから主人が先に逝ったらお葬式などをすべて終えて、それからということで、私のお葬式のこととかは何もしなくても良いからと洗礼を受けるということを娘に認めさせた。」改まってそう伝えられた。

「それは駄目。そんなふうに自分で計画を立ててしまったら、イエスさまがご主人や娘さんに持っておられる良い計画の邪魔をすることになるよ。
今のままで、このままですべてをイエスさまにお任せしなさい。永遠のことまで心配してくださる方が、どうしてこの世のことを心配してくださらないわけがないでしょう。主がすべてを心配してくださるから、自分でそんなふうに計画を立てないで・・」

彼女の気持ちは手に取るように分かる。この夫がどのようにして救われるのだろう・・ちょっと反対しないでいてくれても、次の瞬間には何歩も後戻りするような家族の様子を目の当たりにして、なを救いを確信していることは難しい。
現実を見るのではなく、みことばの約束に立っていないと・・・此処でそんな賢い計画を立ててしまったら、夫や娘さんとイエスさまの間に立ちはだかってしまうことになる。

ご主人に信仰を押し売りしなくても、ご機嫌取りのような人間的な方法を用いなくても、みことばはイエスさまのお約束なのだから任せるだけで良い。今日私たちが主と共にいるだけで良い。


「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
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