石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

お重も詰めて、ほっこり

2008-12-31 20:17:14 | Weblog
 ただいまやっとお重に詰め終わってほっと一息。
この数日は隣組の仕事や、掃除に買い物、おせち作りに大忙しで歩く間もなく、そのことにはちょっと不満だけど、お正月になったらゆっくり歩けると今はがまん。
でも、今年は忙しくてもイライラすることもなく、家族で機嫌良く助け合って過ごすことが出来た。

 心配をしていた次男も27日には会社から帰って来た。元気な足音を立てて機嫌良く廊下から入ってきたその姿を見て心から主に感謝をする。1ヶ月ぶりだからちょっと新鮮。ここのところ仕事は本当に大変だったけれど、お正月の出勤はなく、ゆっくりとできるとの~んびりリラックスの日々。

 おせちはいつものように棒鱈以外は手作り。今年は冷凍の剥き栗があったので、栗きんとんも作る。冷凍の匂いが心配だったけれど、さっと茹でて使ったから大丈夫だった。今頃になるとさつまいもも甘くなっている。黒豆は特に美味くできたと自画自賛。さくらちゃんにはまた、「自分で作って自分でほめているの。」と言われるかな・・いやいや食べたら納得してくれるかも・・。まあこれは、ただ単にストーブの上で火加減が最適だったということなんだけど・・。

 夕食には、身欠きニシンをゆっくりと戻して煮たニシンそば。それから、ご近所のご主人が釣って来られた、焼きたてのとっても大きな鯛。これは思わぬご馳走を頂いて、せっかくの焼きたてだからと早速頂く。ふっくらと上品な脂がのってとっても美味しかった。我が家のちょっと貧相な鯛はこっそり冷凍にする。記憶が薄れた頃にそ~っと出そう。


 今年は、豊かな霊の糧を頂き続けて、故もなく受ける恵みに感謝するばかりだった。年を取るという絶対のマイナスの中にいることが、その弱さの中でいよいよリアルに主を味わって行くことが出来るのだから、本当に驚きである。
より厳しいであろうことを予感させる明日から始まる新しい年も、一日一日、主に在ってワクワクすることもできる。

「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
サラにはこの時からいのちを繋ぐ喜びが始まったのだから、人間的な限界のときこそ主の現れてくださる時と私はワクワクしていよう。
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御翼の下で

2008-12-23 16:58:13 | Weblog

 寒風の中、山茶花の赤い花が、葉の下に身を避けるように咲いている。私も昨夜は主の御翼の下に潜り込んで眠った。ぐっすり心地よく眠った。

 主を知らなければ、昨夜は眠れなかっただろう。理不尽な要求を受けて、昼には怒り狂っていたから。なんでそんな不当な要求をするのかと、私はそんなふうに受け取ったから。なんで主人はこんなにお人好しなんだろうと、なぜ怒らないのかと歯ぎしりしていたから。どうしてくれようかと仕返しの方法さえ考えていたから。

 でも、そんな私をじっと見つめる自分がもうひとりいた。怒りが少しおさまると、そのもうひとりが話し出す。聖書にはなんと書いてあるのかと・・。それをお前は何と受けるとのかと。

でも・・と再び怒りが吹き出してきて、みことばをさえぎる。
メッセージで聴いたではないか。みことばを吟味するなと言われていたではないか。いつでもみことばは丸ごと絶対なもの。「しかし、現在の日本では・・」とか「この場合は・・」そんな言葉でみことばを吟味するなと。天秤にかけて計るなと教わったではないか。

自分の中に繰り広げられる激しい応酬の中で、怒りは徐々にみことばに服して行く。圧倒するみことばが次々と、私を洗いきよめるように怒りを押し流してゆく。

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
「一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」

 理不尽を受けられたのは誰か。究極の理不尽を受けられたのはイエスさまではないか!私にはどんなに理不尽に思えても、イエスさまの理不尽と比べれば、理屈が通ることになるだろう・・・。イエスさまは何も反論されなかった。呪うどころか、殺そうとする群衆を神様に弁護された!
「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と・・

十字架のためにイエスさまは天の栄光を捨てて、この地に無力な赤子となって来てくださったのではないか。十字架は犠牲ではないか。私は主に多くを赦され、自分の十字架を負って従順すると自ら決めた者ではないか。
「幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

イエスさまは、十字架を負って自ら死ぬ権威をお持ちであった。イエスさまの十字架は、父なる神さまへの信仰による権威をもって、ご自分から死なれたのだと教わった。なら、私も、みことばに従順することの権威によってこのことを受け止めることができる。なぜなら、元はみことばから出たことだから。
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」

このみことばは、私が信仰に入って間もなく教わった言葉。このみことばに出会った時、私はむしろほっとした。主を知らない夫であっても、私が教え従わせる必要ないんだ。従ってよいのだと・・。

今、このことは主人の選択から出たことであり、それに私が従ったことから出たことだから。此処に勝利はあった。どのような結果になっても主に従うこと以外に、キリスト者の勝利はないことは最低限知っている。私はもう、後戻りして怒ることも、イライラすることもない。失ったものを数えることもしないでおこう。もう、後ろを見ないで前進しよう。

それにしても、弱さの中でだけではなく、怒りの中においてさえ、主に身を避けることができるとは何と幸いなことだろう。


「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)
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イエスの信仰

2008-12-20 15:36:09 | Weblog
 弟子たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」その言葉にイエスさまは答えられた。からし種の信仰で良いと。

「からし種の信仰とは、イエスさまのこと。御父に対する信仰によって、小さな細胞となってマリヤのお腹に来てくださったイエスさまのこと。そして、そのいのちを受け入れたマリヤのこと。」とあった。saltさんのメッセージ「イエスのたとえ話⑤」 

 私は恥ずかしい。自分には幾らか信仰があると思っていたから・・・。私はただ、この世に疲れた、弱いなんの価値もない一人にすぎず、イエスさまのことばに一縷の望みをかけて付いてきた群衆。そして空きっ腹に、主が裂かれたパンを頂いていのちを得た者。一体その何が私の信仰なのか・・・。

 それでも、私は良い麦であり、御国の子だといわれるのは、それは初めから主がそのように私を造ってくださったのであり、なにひとつ自分から出たことではない。このことはなんと安心なことだろう。

イエスさまの犠牲と忍耐によって赦されている者。信仰の完成者であるイエスを、受け継いだ者にすぎないから、もし、ひとかけらの信仰が瞬間現れたとしても、それはイエスさまの信仰だった。私の信仰ではない。私には信仰はないというそのことが、いくらかやっとわかってきた。

自分を誇ってはいないと繰り返しても、「私の信仰による選び」なんて思っている部分が臭い匂いを放っていたのだろうなぁ・・・。

それでも主は「平安があなたがたにあるように」と、今日の日差しのように穏やかに私のここに居てくださる。
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世の嵐に悩むとき

2008-12-13 15:12:00 | Weblog
 置き薬やさんがこれらたときに、ウオーキングのことを話していたら、もっといい方法を教えましょうと、口から息を吐きつつ5歩進み、鼻から息を吸いつつ5歩進むと言う方法。早速その日からやってみると、それは腹式呼吸になっていることに気づいた。腹式呼吸って意識するととても難しくて「もう、いいや」と思ってしまうけれど、自然に出来ていた。早くも体がぼかぼかと温かくなってちょっと汗ばんでくる。12月にしては温かいからなぁ・・。

腹式呼吸はいつの間にか身に付いてきたようで、家にいても気づくことがある。今、それは大変ありがたい。腹式呼吸は腹が据わると思うから。体の反応って馬鹿に出来なくて、思いまで左右してしまうことがある。今は考えなければならないことが沢山あって、しかもそれは私にはどうにもならないことばかり。「世の嵐に悩むとき・・」そんな感じ。

祈りがあっても、騒ぎ立てるようにいろいろと聞こえてくる時、思い煩ってしまうこともある。だから、私には腹を据えて主を待つことがとても大切。次男が今、世の嵐の真っ直中で戦っている。最近は会うことも出来ない。システムに関わる彼の仕事は大忙しで、私たちにかまっている余裕はない様子。

そんな今だから気づくこともある。会社が大きいから安心なのではない。仕事が出来るとか、出来ないとかに因るのでもない。主が彼と共にいて下さる。主が私たちをご存知である。その事実によってのみ平安なのだと。

 主は暗闇にたじろぐ私たちに、トンネルの向こうにみことばの光を灯して導いてくださる。だから、主に祈った祈りの答えを、私は腹を据えて受け取らなければならない。私の思う通り、理解の通りとは限らないから。ずっと後になって、頂いたそのみことばが実現した時に、覚えていて主を誉め称えよう。

 今、なぜこのみことばなのだろうと思うのは、それは主の見ておられるところと私の見ている所の違いから。いつも主のみことばは永遠を指し示される。だから、そんな時は私も目を上げて主の示される方を見て喜ぼう。今日ひとつのみことばが心に深く残った。

「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。」(創世記24:67)
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種は腐らない 11

2008-12-11 14:11:39 | Weblog


 「私たちが自分自身を愛するよりも、自分の子どもを大切に思うよりも、イエスさまは私たちをはるかに勝って、愛していてくださることを感謝いたします。」お祈りをしている間、彼女の麗しいすすり泣きが聞こえていた。

主は人を愛して愛して、満たして満たして、癒してくださるから、私たちはその愛に解かされて、聖霊に触れられればくずおれるようにもろく、無防備になってしてしまう。その時は、年を取っていても幼子のように泣き出してしまう。

 今日は、ルカの福音書を23章32節から24章最後まで。そして、使徒から、イエスさまが天に上げられるところまで。先週の彼女の「イエスさまは霊でよみがえられたの?」という問いに答えるためにちょっと長かったけれど、みことばを読みつつ進める。私の方法で、私に与えられているものを使って、私の知っていることを伝えるだけ。

 ちょっと早いかなと思ったけれど、今日で今年は終わりにするから、みことばが多くても読み返す時間は十分にあるだろう。お祈りをしている時に、主の臨在をはっきりと知ることが出来たので、今日、終ることで良かったのだと平安が与えられた。彼女には主が片時も離れずにいてくださる。

今年は繰り返し繰り返し、ほとんど十字架のお話ばかりしていた。でも、いつも感動してくださっていた。主のお導きにとても感謝、このことで私はいつも励まされていた。
交わりを続けることも大切だけど、主にあって私との間が空くことはちっとも問題ないと思う。誰であっても、いつでもひとりで主に向き合うことができるのだから。


「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)
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初雪

2008-12-06 18:38:18 | Weblog

 今日はほとんど一日初雪が舞っていた。寒いのに私は雪を見るとなんだか嬉しくなる。冬生まれだからかなぁ・・。そんな中をちょっと小走りに歩き出したら、頭がぼぉうとしてほっぺが固まった。帽子をかぶってくるべきだったと思うほどのめずらしい寒さ。でも、これ、すがすがしくてそんなに嫌じゃない。最近こんな寒さを知らないなぁ・・。

まあるく刈り込んだお茶の木の、かんざしのような白い花は、もうすっかり姿を消してしまった。道ばたには、抜かれた大根が無造作に置かれていた。割れたのや、二股に別れたのが多いことから、きっと捨てられているのだろう。横目で見ながら通り過ぎる。横目の意味・・主婦としてはもったいないなぁと思ってしまう。

赤い小菊は可愛く雪に向かって咲いている。サザンカも雪が降ることではりきっているみたい。神様のプログラムに沿って出番を喜んでいる。それはべつに頑張っているわけではない、きっと。

栗の木の葉は日に照らされて金色になり、散り敷いた落ち葉を踏むとカサコソと音を立てる。雲の間から差し込むちょっとした日差しでも、ほっぺはほんわかと温かく感じる。それでも、錦の山々からチラチラと舞い落ちる淡い白い雪。
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種は腐らない 10

2008-12-02 19:30:40 | Weblog
 「いつも3時頃から私は此処にいて食事の準備をするの。けれどもそんなに時間はかからないから、このプリントをいつも読み返しているよ。何回でも読むよ。」
私はそのことばに感動をし、また、自分の十分でない準備にたじろいだ。

 私もイエスさまに出会ったはじめの頃はそうだったなあ・・・、誰に強いられなくても、ひとりでみことばを読んでいた。祈りにも多くの時間を費やしていた。自然にそうしていた。今はそのころから比べれば、ずっと多くの恵みを受けて、はるかに主の大きさを経験しているのに、みことばや祈りに費やす時間は少なくなっている。中身は変化しているけれど、あの頃の自分を今でもほほえましく思っている。


「イエスさまは死なれたのにどうして?霊じゃないの?体があるの?」今日はマタイ28章の復活の箇所。マリヤ達がよみがえられたイエスさまを見て、喜んで御足を抱いて拝むところで質問された。「あははは・・、足があるものね。そう、イエスさまはからだを持ってよみがえられた、魚も食べられたよ。」来週はルカから見よう。

 プリントはみことばを拡大して読みやすくしている。聖書をできるだけそのまま伝えたいから。ほとんどをみことばのままに。今週は、ちょっと多かったけれど、ヨハネ20章のプリントも読む。トマスに言われたイエスのことば「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」というみことばに

「私は信じるよ。この間も街へ行って道が不安だった時、『イエスさま。』って心の中で祈りながら歩いて迷うことがなかったよ。夜はいつでも感謝のお祈りをして眠るし、いつでもイエスさまのことを喜んでいる。」
「それは、みことば通りの生き方。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。というみことばのままだからすばらしいわ。」

「私が信じることで、みんなが幸せになって欲しいと思っているけれど、それは間違い?」「いいえ。あなたはイエスさまを信じることで変わったし、こんなふうに喜んでいるとき、ご主人もイエスさまを知ることが出来るでしょう。娘さんだって孫さんだってあなたを通してイエスさまを知ること出来るから大丈夫。

永遠のいのちは、ひとりひとりがイエスさまを信じる信仰によって頂くものだけど、それはあなたがイエスさまを喜んで愛して居ることで、イエスさまが家族を導いてくださるよ。私たちが無理に家族に教えなくても一緒に生活をしている中で、イエスさまがご自分で証をしてくださるから大丈夫。」

 本当に主はとても憐れみ深いご真実な御方。私たちを知り尽くして居られるから、主がご自身を証ししてくださる。どうぞ御名が崇められますように。


「あなたの指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
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スロー筋トレ 1ヶ月

2008-12-01 19:27:36 | Weblog

 なんと、このなまけ者の私が1ヶ月も続いている。このことに私自身が一番驚いている。たまたまテレビで見て、フッとその気になってやってみただけなのに、今では習慣になってしまった。まあ、それにはそれなりの理由もあるけれど・・・、何よりも階段を上ることがとても楽になった。腰を上げることが以前ほど大儀でなくなって、少しはお尻が軽くなった。エッ、この意味ちがう?

 数字の上では、体重は残念ながら以前と大差がないけれど、体脂肪率が下がっている。これはちょっとしたことであり、コレステロールも下がっているかも知れない。だったら嬉しいな・・と励みになっている。それから、骨量が上がったことにはびっくり。運動と関係あるって知らなかった。

 今は、速く歩くことができるようになった喜びを日々味わっている。距離も少々なら歩けると自信が出てきた。一万歩あるいた時も平気だったから。それでも普段はいつもと同じ距離しか歩かないけれど・・無理をする気はないから。今まで私の知っているかぎり、無理をしている人で続いている人を知らないから。
マイペースで、楽しみながら、気の向くままに・・・あら、私流の条件は多いな。
主に感謝しながら歩く。すべてが自然でストレスはゼロ。
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