石ころ

神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります

息子と聖書を読む  2008年5月31日

2008-05-31 13:15:55 | Weblog
 
 今日は息子の通読箇所ヨハネ2章を読み、24,25を中心に話し合った。

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」

 イエス様は人の評判によってご自身を伝えることはされない。宮殿ではなく大工の息子として来られた事からして当然だと思う。人は自分を支配する者であっても、搾取する者であっても、見栄えの良いものを好みきらびやかなものに惹かれてゆく。奇跡にはワッと集まるけれど、その心は風に揺れる葦のように頼りなくコロコロと変わる。

「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2)
イエス様はこのように来られた。それは、神様がこの様子を選ばれたということだと思う。


 イエス様は罪人を受け入れて赦し、飢えた者にパンを与え、病人を癒してくださった。誰をも支配することも搾取することもなさらなかったのに、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆がいた。イエス様は初めからそのことをご存じだっただろう。

そのような人間に忍耐強い愛をもっていてくださるイエス様は、「ニコデモを喜んでくださったのではないかなぁ・・。」と語り合う。分からないことは馬鹿げたことでも聞けばよい。そうするとイエス様は十字架を教え、神の愛を教えてくださる。

 そのような主とのお交わりを通して、人目を避けてイエス様の所に来ていたニコデモが、やがて、イエス様のよみがえるお体を葬る役割をアリマタヤのヨセフと共に果たしたように、私たちのなすべき役割と必要な力が与えられ、みこころを行わせて頂けるのではないか・・・息子の顔がちょっとやわらかくなった。
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アザミ

2008-05-29 15:31:34 | Weblog

 ウオーキングの道には、沢山の美しいアザミが咲いている。それを見るのはこの季節の喜びだけど、いつも遠い日を思い出させられる。

 まだ若かった頃、社長の一人息子のお見合いの席に生ける花を買ってくるようにと頼まれたことがあった。私は自分の好みのアザミを買って帰った。息子は怒ってその花を捨ててしまった。そのとき私は知らんぷりをしていたけれど、彼の怒る意味を本当は知っていた。アザミの花言葉は「復讐」お見合いの席に飾る花ではなかった。

 別に私はその息子のお見合いを邪魔する気持ちなどまったく無かった。ただ、今から思えば生まれながらの跡取り息子として、大学を卒業して何不自由なく将来が約束されているそんな身分に、心の深いところで反抗していたのかも知れない。

 確かに、あの頃、親のない私はあらゆるものに復讐したがっていた。でも、本当に復讐したかったのは善人にも悪人にもなれず、中途半端で失敗ばかりしている自分自身に対してだった。


 アザミは棘ある身を悲しみもせず、憎みもしない。私は今でもこの花が好き。毎年この季節になると紅紫の花色を楽しみにこの道を歩く。ただ、棘があるので手折ることはなく、通りすがりに見て楽しむだけ。

花言葉は誰が決めたのか・・昔は花言葉の「復讐」に惹かれていたのかも知れないけれど、今は、素直にアザミの花を美しいと愛でている。

 私は、イエス様を知った今はもう自分を嘆くことはない。いや、むしろ喜んでいる。どうしょうもない者だから、病人を癒すために来てくださったイエス様のお目に止まり、無条件で罪を赦され心も癒された。強くなくて良かったと。
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午後

2008-05-28 21:49:47 | Weblog


雨が近いというから・・・
庭に咲きかけた真っ白いシャクヤクを手折ってきて花瓶に挿す。

裏山のごく近くで、ウグイスがしきりに鳴いている。 
時々、向かいの山からもホトトギスの声。

シャクヤクは美しい姿で造り主をほめたたえ、
ウグイスはきれいな声で高らかに主をほめたたえる。

私は、あなたをほめたたえるすべを持たない。
主の眼差しを感じつつ、微笑みもせず、泣きもせず、ただ、憮然と居る午後。
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ちょっと新鮮な礼拝

2008-05-25 20:55:21 | Weblog

 激しい雨の音に目覚めた。我が家は主人のおかげで屋根を塗り終わったばかりなので大雨にも安心だけど、地域の大掃除はどうなるのだろう・・。絶望的だろうな・・そんなことを考えていたら、未だ夜も明けぬ内に目が覚めてしまった。
やはり掃除は6月1日に延期となった。これで今日は礼拝に出席できるとちゃくちゃくと準備をする。

 教会が見えるとやっぱり無条件で嬉しいのは、建物が立派かどうかではなく、そこにあるキリストの香りが慕わしいのだと思う。
祈りたいと思っていたので導かれるままに祈った。なんだかほっとして嬉しかった。今日は不思議な自由を感じている。新しい「礼拝」の形を経験したみたい。なんだか脱力の一日。

「キリストの御霊」真っ新な本を先週教会で貸してくださったのだけど、実は字面だけが上滑りしてしまって読み込むことが出来なかった。でも、なぜか今日は電車の中でも、駅のベンチででもどんどん言葉が入ってきて、感動しつつ、時々祈りつつ、読むことが出来てそれが嬉しかった。


「私たちは、みことばを学び、祈り、礼拝しょうとするいっさいのわざに先だって、まず、おごそかに自分自身を捨てることから始めなければなりません。第一に、神のみことばを悟ろうとする自分自身の力をないものとし、聖霊の導きなしに神に語ろうとする自分自身のわざを捨てねばならないのです。」アンドリュー・マーレー
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トマト

2008-05-23 11:15:23 | Weblog

 植木鉢のトマトを見ると元気がなくしょんぼりとしていた。昨日まであんなに元気だったのにと一本ずつ見ると、しおれた葉が何本か絡んでおり、数本の鉢のそばにも葉がくしゃくしゃになって落ちていた。茎にも葉をもぎ取られたような跡がある。思わず「かわいそうに、ごめんね。」と口から出た。

そして胸が痛んだ。それはトマトに対してより人に対して。怒りではなく悲しみ・・・。どんな状態でこのようになったとしてもその人は知っているはず、知らぬ振りをしていることはしんどいだろう。子供だったらどうしょう・・。もし、大人で故意にしたのならその心の闇の深さはどれほどだろう・・。もう、此処で作るのは止めようかと思った。

 玄関先の駐車に使っているわずかなスペースでトマトを作るようになって、もう何年になるだろう・・。植木鉢で大きなトマトを作っていることが珍しくて、近所で評判なり話の種ともなって続いている。7~8本を並べて植えるのでトマトが赤くなるとそれなりに見事でとても楽しい。

玄関先と言うことはいろんな人が見て通り子供達も見て育つ。そんなところで滅多に手折られることもなく、トマトが無くなることもなく、ずっと無事に育って来たことがとても嬉しかった。感謝だった。小さな子供もいるし、ちょっと大きくなってサッカーをしている子供もいるから、事故で傷つくことがあるかもと覚悟はして育てていた。

トマトなんてしれている。このトマトはさくらちゃんと植えたもので特別だけどそれでも大丈夫。さくらもトマトもそんなに柔ではなく回復できる。神様はちゃんとトマトに花を残してくださったし、葉はまたどんどん出てきてなんと言うこともなく育つけれど・・、

「ごめんね。」と言う言葉が聞けたら、互いにどんなに気持ちが晴れるだろう。笑って済むのに・・。そのように言えないものを私が発散していたのだったら・・主に悔い改めるしかない。誰にも気づかれないように処理をして、しばらく水を切っていたトマトに労りの水をたっぷりと注ぐ。心の中で祈りつつ「がんばれ!」
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メッセージを聞いて 5月18日

2008-05-20 18:47:19 | Weblog

良く準備されたメッセージに恵まれて、その上、いつも近くの駅まで送って下さる姉妹が今日はお休みでsaltさんに送って頂いた。こんな時は本当に「勿体ない」と思う。このように扱って下さる神様になんと言って良いか分からない感謝を覚える。

年を取って何の役にも立たなくなっても、神の熱心によって導かれ、私なりにだけど成長させていただける恵みに驚く。なぜなのか分からないけれど、私には確かに必要なのだから、厳粛な思いで、厚かましくも与えられる恵みを受けよう。

saltさんは「~時間聖書を読みます」とか「祈ります」なんて絶対言われないけれど、何かの拍子にその熱心さが現れて、メッセージがどのように準備されているのか教えられる。

 人間の型どおりの宮詣、形式的な礼拝はイエスさまを怒らせる。日常と切り離されて、互いに妥協しあい、誤魔化しあって神様そっちのけの宗教儀式。
3日後に宮の真ん中に居られた少年イエスさまを理解する者はいない。それでもイエスさまは、両親の家に帰られて30年間仕えて下さった。イエスさまの謙遜は今も変わらない。
だから・・。

私の家のど真ん中に神殿はあり、そこに日常があり、飲んだり食べたり、笑ったり泣いたり喜んだり、時には怒ったりしている。今、「家」も「神殿」も十字架の上にあってひとつであるから、聖さは私の霊の中にありすべてをイエスの十字架の前に運ぶ。それはもう、分離できないように、私の罪も弱さも愚かさもイエスさまによって受け入れられているのだと思う。

 教会の礼拝を思うとき、以前ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」を読んでいて、なぜか、本の内容の他に、私に衝撃的に強く示されたこと「お前だけでは使えない。わたしは教会を用いるのだから。」との言葉を思い出した。「私が・・」「私は・・」とばかりに断食をし、トラクトを配布し、ひとり夢中で主を求めていた時だった。

それは私の行いのすべてを否定されたことだけれど、なぜか、素晴らしい旅をしてきたような満足があり平安と安らぎがあった。それは今も私の深いどこかで続いている。
その時、心に叩き込まれたこと。主は、私じゃない教会を求めて居られる。だから、教会で共に主を味わいたい。共に成長したい。共に礼拝したい。

「いつの時も正しさのキーワードは「わたしを覚えて行う」(Ⅰコリント11:24)であり、間違いのキーワードは「めいめい我先に」(Ⅰコリント11:21)です。」メッセージより
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検査の日 ③

2008-05-16 18:06:44 | Weblog
 私は結局ポリープの切除は受けなかった。2度目に見てもらったときはS字結腸までの検査だったのに、長い時間がかかりとても痛かたこと。ポリープをとることで腸に穿孔することがあり、その時には開腹手術になること。検査とポリープを取るだけで入院は4日間とのこと。すべて、予想外だった。

それに、入院をする3日間前から飲み続ける下剤、これが決定的に嫌なことだった。私は下剤にはとても敏感で激しい腹痛と急激な下痢が、時には翌日まで続くようになる。検査の時も大量の下剤を使うとのことだから、その痛みだけでも気持ちが引いて行く。説明の時に医師に下剤について相談したけれどあまり相手にされなかった。

 今、とても調子がよいのになぜそんなことをしなければならないのかと思ってしまった。ポリープを取ることにも結構リスクがあると遅ればせながら気づいた。祈った後、看護師さんが、「何でも聞きたいことがあったら私に電話してください。」と名前を教えてくださっていたことを思い出して、今の気持ちや不安をを相談することにした。

電話で看護師さんは「そうですね。検査の日も大量の下剤を使いますからね・・・。では、キャンセルしますか。」と意外なほどあっさりと受け入れてくださったので逆に驚いたけれど、私は「はい。」と答えた。

 
 あれこれと、理由を並べれば色々あるけれど、実はそんなことは信仰の外のこと。また、聖霊の宮である自分の体一つ管理することが出来ず、信仰によって自分の身を主にお任せすることもできない、腸以上にどうしょうもない状態の自分自身を知ることになった。なのに、そんな事の後も主はいつに変わらず共に居てくださる。腸の調子も守られている。なんという主の憐れみだろう。


 昨日ウォーキングでちょっと足を痛めてしまったから、今日は歩かないで回復を待たなければならなくなってとても残念!歩くことはストレス発散に最適で、夜もよく眠れるのに。なかなか思うようには行かない。

 本当に私は何も出来ない。そんなもろもろの弱さの中で、今日も共に居てくださる主だけが私の望み。これから年を取るばかりで、いよいよ弱くされ、いよいよ思うようには行かなくなるのだろうけれど、永遠に変わることのない、主の一方的なご愛の中に安息しよう。

 
「こんな私のことで、祈っていてくださいました方に心から感謝致します。私の知らないところで祈ってくださった方も居てくださったかも知れません、主に感謝いたします。本当にありがとうございました。」

 
「あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(Ⅰコリント2:5)
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異言で祈る

2008-05-15 23:10:41 | Weblog

 中国の震災を思うと、温かい食事を取ることも申し訳ないことだし、お布団で眠ることにも罪悪感を覚える。ミャンマーでは何の助けも受けられない多くの人々が、今もお腹を空かせて雨に濡れているのではないかと思うと、そのことから目を背けていたくなる。

 祈ろうとしても、一体何をどのように祈るべきなのか言葉もない。造り主を知っている者として、祈るべきお方を知っている者として、取りなしの祈りのために静まろうとしても・・・。

 彼らを愛しておられるのは父なる神様。ひとりの御子を下さったほどに愛しておられる。なのに・・なぜ・・いや、最も悲しんでおられるのは造り主なる神様。

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」 (イザヤ49:15)
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メッセージを聞いて

2008-05-14 14:33:53 | Weblog
 

 山上の垂訓を自分流にレベルを落とし、その土台の上に、自分という建物を築き上げて行くようなクリスチャン人生はなんと罪深いことかと思った。その建物が金であるとか、藁であるとかさえそれほどの意味はないと教わった。Ⅰコリント3:12からの記事は、金の建物を建てると焼けないで残るというような「三匹の子豚」の話ではないと・・。

 大切なのは建物ではなく土台であり、土台はキリスト信仰である。「行ない」という言葉への勘違い、行えるという錯覚、いくらかでも行えればとみことばを差し引いて平気な信仰。そこには、決してみことばを行うことの出来ない私たちのために、神の御子が十字架にかかって救ってくださったことへの信仰はない。

神が住まわれるのは建てた物にではなく「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊が宿っておられる。誰かが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされる」のであり、その約束に安息するべきである。

 聖書をきちんと読みとることは簡単ではない。いろいろなこの世の教えが刷り込まれていてそれを阻むから。的はずれな信仰生活から守られるために、みことばの正しい導きを得ることこそもっとも大切な事だと思う。
 
 結局この世では「私は、主イエスと共に生きました。終わり」で良いのだと思った。何をしたとか、何をしなかったとかにどれほどの意味があろうか。主の十字架と復活にいったい何を付け加える必要があるのだろうと・・。私に何か良いものがあるとすれば主があらかじめ備えて下さっただけであり、私のもろもろの罪、弱さ、愚かさはすでにイエス・キリストによって十字架であがなわれている。その土台は永遠に不動であり、もうすべては完成しているのだから。

 そこで私たちはこの世で主を楽しみ喜び、感謝と交わりに専念することになる。この世の歩み、重い荷物はすべて主と共に負う「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。」そのみ約束が真実であることを、問題にぶつかる度折々に経験しつつみことばへの信頼を深めていく。クリスチャン人生はなんと楽しいことだろう!ハレルヤ!!
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神様のもてなし

2008-05-10 11:00:44 | Weblog

 本当に5月の風は芳しい。頬に優しく、体に心地よい。
緑滴るこの道が大好き。青々と茂る小枝をいっぱいに張っている桜の木の下で、私も思いっきり体も手も足も伸ばしてちょっとゆっくり歩く。鼻をふくらませて美味しい緑色の空気を全身に吸い込む。うわー・・私も緑色になってしまいそう。
蝶のように両手で羽ばたいてみたり・・誰もいない道は自由がいっぱい!これってすごい贅沢なんだと思う。

山肌に咲くツツジの赤紫、岩から垂れ下がって咲いている藤の薄紫、庭先の花菖蒲の紫、畑にも矢車草の紫!ああ、紫が溢れている。今は紫の季節のよう。

とびっきり美しい小鳥の声!初めて聞く何とも言えない美しい鳴き声が桜の梢から聞こえてきた。足を止め、目を凝らして姿を探すが、完全に葉に隠れて見つけることが出来ない。残念だけど耳だけの楽しみ・・・。

 神様のもてなしのようだ。なんの価値もない者を神様はこのようにもてなしてくださっているのだと感動しながら歩く。造り主を知っている者にも、知らない者にも神様のもてなしは平等だけど・・私は今、造ってくださったお方を思いっきり喜んでいる。
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