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石ころ

「地を這ってつかむ喜び」

 「悲哀の仕事」というsaltさんのダイアリーを見て子育てを思い出した。これは、今から20年ほど前に新聞に投稿したもの。思い出したので引っ張り出してきてしまった。saltさんが書いて居られた、「『悲哀の仕事』は、人間が自分の中に罪を認めて、罪人である自分を受容することによってはじめて神との新しい関係を構築できるとういう霊的な原則のひとつの型だとも言える。」この言葉の通り、私はこの子育てを通して神様の原則を学ばせて頂いていたのだと思う。

  
「地を這ってつかむ喜び」  1988年11月1日 

 我が子の障害(高度難聴)を知ってから、今日までそれは多くの戦いがありました。
 それは世間の価値観との闘いのようでありながら、実は自分の中に深く潜んでいる、障害者に対する絶望感でした。声を出すための訓練、言葉を覚える訓練、普通は誰でも自然に身につけていくことに、死にものぐるいの努力が必要になるのです。初め私はなんと割に合わないことかと思いました。

 誰もがかっこいいスニーカーを履いて、駆け抜けて行く道を、這いながら進むのです。時には走ってきた人に蹴飛ばされつつ進むのです。子供が小さい時、その障害を親が負います。訓練にどこまで耐えるか、どれほど熱心になるかは親次第だからです。まず、親自身、這ってしか進めないことを認めて、受け入れ、地に手をつかなければなりません。それまで目にしていた、周りの人は全く見えなくなり、一緒に這う子だけを見つめます。

 マイペースで、しかし決してあきらめず、一歩一歩何も見えず、何の目当ても見当たらないような努力が続きます。そして、ある時、子供の中に、障害を乗り越えようとする、たくましい変化を見つけて、思わず「やったね!」と叫びます。それは誰かをけ落とした喜びではありません。とても純粋な喜びです。

 今は彼も自分の足で立ち上がって、駆け抜ける人の列に加わって、おぼつかない足取りででも、歩み出そうとしています。障害ゆえに目の前まで来たら、突然見えない重いドアに行く手を阻まれることが必ずあります。でもどうか絶望しないでほしいと思います。その時また、恐れず地を這って、そのドアを開いたら、後の誰かが続くことができるかも知れないからです。
 
 なんとそれは価値ある事でしょう。もうすぐ、高校入試です。知りたいことが山ほどあって、今はなかなか勉強に集中できないようです。自立しようとしている彼に、もう私のくちばしを挟むときではないのですが、やっぱり、がんばってほしいと思っています。

地を這ってきた日々の、そのがまん強さをなくさないで欲しいのです。障害を持って生まれてきたことは、無限の可能性を自分の障害の中に、示し続けることだと私は教わったからです。

 また、障害は先祖のたたりか、のろい、罪の報いのように思われていて、その考えがどれほど障害者を傷つけていることでしょう。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」聖書はこう語っています。

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