「地を這ってつかむ喜び」 1988年11月1日
我が子の障害(高度難聴)を知ってから、今日までそれは多くの戦いがありました。
それは世間の価値観との闘いのようでありながら、実は自分の中に深く潜んでいる、障害者に対する絶望感でした。声を出すための訓練、言葉を覚える訓練、普通は誰でも自然に身につけていくことに、死にものぐるいの努力が必要になるのです。初め私はなんと割に合わないことかと思いました。
誰もがかっこいいスニーカーを履いて、駆け抜けて行く道を、這いながら進むのです。時には走ってきた人に蹴飛ばされつつ進むのです。子供が小さい時、その障害を親が負います。訓練にどこまで耐えるか、どれほど熱心になるかは親次第だからです。まず、親自身、這ってしか進めないことを認めて、受け入れ、地に手をつかなければなりません。それまで目にしていた、周りの人は全く見えなくなり、一緒に這う子だけを見つめます。
マイペースで、しかし決してあきらめず、一歩一歩何も見えず、何の目当ても見当たらないような努力が続きます。そして、ある時、子供の中に、障害を乗り越えようとする、たくましい変化を見つけて、思わず「やったね!」と叫びます。それは誰かをけ落とした喜びではありません。とても純粋な喜びです。
今は彼も自分の足で立ち上がって、駆け抜ける人の列に加わって、おぼつかない足取りででも、歩み出そうとしています。障害ゆえに目の前まで来たら、突然見えない重いドアに行く手を阻まれることが必ずあります。でもどうか絶望しないでほしいと思います。その時また、恐れず地を這って、そのドアを開いたら、後の誰かが続くことができるかも知れないからです。
なんとそれは価値ある事でしょう。もうすぐ、高校入試です。知りたいことが山ほどあって、今はなかなか勉強に集中できないようです。自立しようとしている彼に、もう私のくちばしを挟むときではないのですが、やっぱり、がんばってほしいと思っています。
地を這ってきた日々の、そのがまん強さをなくさないで欲しいのです。障害を持って生まれてきたことは、無限の可能性を自分の障害の中に、示し続けることだと私は教わったからです。
また、障害は先祖のたたりか、のろい、罪の報いのように思われていて、その考えがどれほど障害者を傷つけていることでしょう。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」聖書はこう語っています。
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